蟒蛇、愛を知る
その生物が産まれた時を誰も知らない。
母は居るのか、地から湧いたか。
ただ解る事は暗い洞窟の中で僅かに入り込む光を照り返す鱗に包まれた、大蛇のような体躯。
そして思慮深く、夜中に森に住む動物を食らうことだけが、周囲の村が成り立つ前から伝わっていた。
そして幾度朝と夜を繰り返したかわからぬある日の事、大蛇の洞に一人の少女がやってきた。
少女は白い、現代から言えば作りは荒いがその時代には上等と言って良い綿のローブを纏って洞の中を這いつくばっていた。
大蛇、以後それを彼と呼ぶことにしよう。
彼はそんな少女に声を掛けた。
それは言語ではなく、全ての存在が根源的に理解する真なる声だった。
【君は何者だ】
少女は掛けられた声に一度、大きく震わすも、その温もりに安堵したように、手探りで洞の中を声の方向へ辿り。
ついに冷たく息づく、堅いけれど弾力を持つそんな相反する感触を持つ彼の体に触れた。
「ひっ」
少女は彼の見た目よりも触れた感触の異色さに声を上げる。
カチカチと歯を鳴らす少女に、彼は落ち着いた声を届ける。
【落ち着きたまえ】
そんな一言に、力が宿る。
不思議と少女の震えは止まり、心に余裕が生まれる。
根拠の無い安堵が広がり異形の前で少女はペタンと尻を付き、足を崩して座り込む。
【さて、君の目的を教えてくれないか。獣は我が洞には近づかぬ。喰われるのがわかっているからだ。なのに、なぜ君は来た?】
彼に問われて、少女はたどたどしく言葉を紡ぐ。
「わた、私の村は乾きに襲われているのです。例年ならば雨が降って恵みをくださる時期なのに、一滴も雨が降りません。今までが豊かだった村はその反動にとても困ってしまうのです。なので、蛇神様に贄を捧げて、雨を、降らせようと」
精一杯に、言葉を紡ぐ唇がその心で重くなってしまう前に、伝えられることを伝えようと、少女は一生懸命に自分の用を伝えた。
生贄の意味も、未来も、全て説明されてきた。
それでも、彼女がこの場に素直に現れて、彼に近寄った理由。
「私はめしいているのです。眼の利かない私を育ててくれた人々に、恩を返したい。怖いけれど、辛いけれど、私は村を救いたい」
いつの間にか少女の声は震えて、開かぬ眼から涙が零れた。
彼はその涙には何も感じなかったが。
彼女から感じる初めての感情、献身に強く心を打たれた。
獣は己の為に生きる。
異なる生物を助ける事はあるが、極論すればソレも己が生きるためだ。
だというのに、少女は他を生かすために自分を殺す。
それは野生の獣しか知らぬ彼には強く、眩しく見えた。
瞼のない、縦長の瞳を持つ眼で少女を見据えて、何かを思案するように長い舌を出し入れする。
【なぁ、教えて欲しい】
「なん、でしょう?」
彼の願いに、少女は必死に応える。
【君を見ていると、私の心臓が痛みを放つ。だが不快ではないのだ。だが、君を喪うことを考えると耐え難い、衝動に襲われる。教えてくれ少女よ。これは、なんだ?】
心を直接包む暖かさ、愛しさに少女は怖れを消して、彼に言った。
「それはきっと、重い病です。その病の進行を止めるには儀式が必要です」
【儀式、儀式か。私にも止められないこれを止める儀式はさぞ難しいのだろう】
「いいえ、とても簡単です」
盲目の彼女は、手探りで、冷たい彼の体をまさぐって、やがて生暖かい吐息の洩れる口を見つける。
そして、静かにそこに口付ける。
「こうすれば、胸の痛みは私に移ります」
その瞬間、彼を心を覚えたことの無い感覚が包む。
心臓が強く弾む、頭の中身がぶれる。
その場でのた打ち回って、この衝動を世界に伝えたい。
だが、そんな高揚はすぐに冷静で冷たい思考で止められた。
【私の痛みを引き受けた君はどうなるのだ?】
ああ、その痛みを永遠に預けることなど、そう思うと別の痛みが湧き上がる。
だがそれも、少女の言葉で消え去った。
「また貴方にお返しします。これを口付けと言って、痛みの受け渡しを繰り返すのです。耐え難い痛みに成る前に。口付けで渡し合って、傍に居ればそれは、幸せです」
少女が微笑む。
それを見た彼は鱗が裏返るような気分だった。
口付け、傍に他の何かを置く。
今まで考えるだにしなかった事だ。
だが酷く、気分が良い。
少女が自分の傍にいる、ああなんとそのことの甘美な事か。
こうして異形のソレは、愛と幸福を知ったのだった。




