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ひなたや食堂 異世界記

作者: 高山るちか

 東京下町の一角にある大衆食堂『ひなたや』は、昭和25年の創業以来、長く地元の人たちに愛され続けてきた。

 古い木造建築の店内に足を踏み入れると、様々に入り混じった匂いが胃袋を刺激して、壁にずらりと並んだメニュー表とにらめっこを強いられることになる。

 額縁に飾られたモノクロ写真は、初代ひなたや店主・日向屋陽一郎。自転車にまたがり、筋骨隆々とした太い腕に抱えているのは、天にも届こうかという出前そばのタワーだ。


「三代目と奥さんが事故で亡くなられたときは、どうなることかと思いましたが」

 常連の老人が、昼間から日本酒を傾けながらしみじみと言った。

「いいお孫さんを持ちましたねえ、二代目」

「ええ、本当に」

 ひなたや二代目・日向屋宗一郎は、白髪交じりの長い眉をぴくりとも動かさずに答えた。

「私も腰を痛めましたし、家内も病気がちなものですから、あの子の助けがないと店が回りません」

「迅一郎くん、仕事が終わったあとで学校に行っているそうじゃないですか。定時制っていうんでしたっけ。家族思いの、今どき立派な子ですよ。三代目がご存命なら、さぞ喜んでくれたでしょうな」

 賑わう店内のそこだけが、しんみりとした空気を漂わせた。そこへ宗一郎の妻・玉江が、使い込んだ木製のお盆を手に、香ばしい湯気を立てる生姜焼き定食を持ってくる。

「おまちどうさま、山崎さん。七味とマヨネーズ、ここに置いておきますね」

「待ってました、おかみさん。最近、お体の具合はどうですか」

「おかげさまで、とても調子が良いですよ。こうしてお店に出ていると、それだけでしゃきっと元気になれますの」

「それはなによりだ」

 バイクのエンジン音が店の前で止まり、古いガラス張りの引き戸が音を立てて開いた。出前のおかもちを持った少年が、店内にいるお客さんたちに会釈をしながら入ってくる。

「四代目、ご苦労様ですな」

「まいど、山崎さん。お酒はほどほどにしておいてくださいね。奥さんが心配されていましたよ」

「はっはっは、これは手厳しい」

「ばーちゃん、洗い物は俺がやっておくから、オーダー入ったら声かけてね」

「はいよ、ジンちゃん」

 ひなたや四代目・日向屋迅一郎じんいちろうは、袖をまくって洗い物の山に向かった。ポケットに入れていたスマートフォンが鳴り、画面を見てみると、文字とも数字とも取れない意味不明な記号が羅列されている。

 迅一郎は「またか」と小さく呟いて、祖父母やお客さんたちから見えない場所まで移動し、スマホを耳に当てた。

「まいど、ひなたや食堂です」

「出前をお願いしたいのですが……オムライスをひとつ、翡翠の神殿まで」

 遠慮がちな少女の声が聞こえてくる。

「あいにくですが、そちらの世界は出前のエリア外なので」

「ジンどの、後生です。あの味が忘れられないのです。せめてあと一度だけでも」

 電話の向こうから、しくしくとすすり泣きが聞こえてくる。

「パヤッタさん。昨日、あれで最後にするって約束しましたよね」

「このままでは悲しみのあまり、私の中に封印されている召喚獣たちが暴れ出して、世界を滅ぼしかねません。どうかこの世界を救うというお気持ちで、オムライスをひとつ……大盛りで」

「本当に、これきりにしてくださいよ」

「やった! わーい! デマエジンソクで頼みますね!」

「はいはい、かしこまりました」

 迅一郎は電話を切ると、手早くオムライスを作って、銀色のおかもちに入れた。

「ごめん、ばーちゃん。ちょっと出て来る。すぐに戻るから」

出前用のバイク『月光号』は、三世代にわたり修理と改造を施されてきた、ひなたやの心臓とも言える迅一郎の愛車である。タイヤは通常の倍ほどの幅があり、坂道や段差のある地面でもバランスを崩すことなく加速できる。大口の出前にも対応できるようカスタマイズされ、これまでに最高で80人分の出前を一度にこなしたことがあった。

 月光号にまたがった迅一郎は、小さな路地裏まで移動し、周囲に人がいないことを確認する。パヤッタに教えられた異世界転移の呪文を呟くと、視界が光に包まれた。



 眼下には見渡す限りの海が広がっている。はるか上空に浮かぶ天空の島に迅一郎は立っていた。見上げれば薄い膜がかかった空の向こうに、色鮮やかな星々がいくつも重なって見える。肌に触れる空気も東京のそれとは異なり、乾燥しているようで妙に濃度が高く感じられた。

「まいど、出前のひなたやですー。パヤッタさーん」

 声を上げて周囲を見回すが返事はない。迅一郎はパヤッタが「転移魔法は多少のズレが起こるかもしれない」と言っていたことを思い出す。異世界にやってくるのは三度目になるが、前回と前々回は神殿の中に転移していた。

 スマホが鳴り、耳を当てる。

「銀と赤い星の交わる方向に、白い霧の塊が見えますか。そちらの方向にいらしてください」

 迅一郎はスマホをしまい、月光号を発進させた。


 霧の中にある神殿を進むと、豪奢に飾られた扉の前で、ふたりの巫女らしき女性が待ち構えている。

「くっくっく……この神殿に人間が訪れるのは200年振りか。血が騒ぐのう、姉上」

「パヤッタさまに謁見されたいのであれば、まずは我ら『飛龍姉妹』にその力を示すがいい」

「出前のひなたやです。パヤッタさんにオムライスをお持ちしました」

「なんだ、件の出前屋か。がっかりさせおって。さっさと入れ」

「パヤッタのやつ、『おむらいすおむらいす』とうるさくてかなわん。なんとかしてくれ」

「なんとかと言われましても」

 ずごごごご、と扉が開く。

「バイクのまま入ってもいいので?」

「ばいく? ああ、その不格好な馬のことか。べつに構わんぞ。人間の足では辛かろう」

 月光号はエメラルドの床を進み、長い螺旋階段を駆け上がった。さらに奥へと進むと、オーロラのような垂れ幕のかかった玉座のあたりで、うろうろと歩き回る人影があった。

「おお、ジンどの。お待ちしておりました」

 美しい白髪に、金とエメラルドの髪飾りをつけた10代前半くらいの見た目の少女が、ドレスの裾をつまみながら駆け寄ってくる。

「オムライスは無事ですか?」

「ええ、無事ですよ。このとおり」

 迅一郎がおかもちから湯気のたつオムライスを取り出すと、パヤッタの表情がぱあっと輝いた。チキンライスにのっぺりと横たわる卵のかたまりは、箸でつつけばトロリと半熟の中身が溢れ出てくる、ひなたや人気メニューのひとつだ。

「大きいですね! 昨日の倍以上はあるのでは?」

「これが『最後』なので、特別に」

 最後、の部分を強調してみたが、パヤッタは気に留めずオムライスに魅入っている。

「なんと美しい。このまま永劫眺めていたい心持ちですが……もう我慢できません! いっただきまーす!」

 パヤッタの小さな手のひらが、ひなたやの大きなスプーンをがしりと握りしめた。


 事の発端は三日前。いつもの出前の帰り、謎の光に包まれたかと思うと、白髪の少女が立っていた。

 パヤッタと名乗る少女が説明するには、ここは迅一郎が住む世界とは異なる『異世界』であって、これは彼女が召喚魔法の一部を誤ったことによる事故であるという。「デーモン」と唱えるべきところを、舌を噛んでしまい「デマエ」になったらしい。

 幸い、一度つながった世界とのチャンネルはかんたんに繋げられるということで、すぐさま元の世界に送り返してもらうことになった。

 別れの直前、パヤッタが迅一郎の持つおかもちに目を留めなければ、「出前の帰りに妙な白昼夢を見た」で終わる話だっただろう。さらに偶然、オーダーミスで余ったオムライスが入ってさえいなければ……迅一郎が「捨てるよりはいいか」と腹ペコ賢者に施しを与えなければ、このように面倒な話にはならなかったはずだ。

 迅一郎は己の軽率さを後悔しながらも、美味しそうにオムライスを食べるパヤッタを見ていると、悪い気はしなかった。これほどまでに幸せそうに食べてくれるお客さんは他に思い当たらない。しかし代金を日本円で支払えない以上は「お客さん」であろうはずもなく、かわいそうではあるが引導を渡さなければならない。

 最後のひとくちを運ぶパヤッタは、すでに涙目になっていた。別れを惜しむように咀嚼して、こくりと小さく飲み込んだ。

「ごちそう……さまでした」

「それでは、出前はこれで最後だと誓ってもらえますか」

「……わかった。翡翠の賢者の名に誓って、二度と」

 しゅんと項垂れるパヤッタを見て、迅一郎も心が痛む。しかし中途半端な甘やかしは相手にとっても害になる。

 迅一郎は空になったお皿をおかもちにいれて、パヤッタに背を向けた。元の世界に戻る呪文を唱えると、視界が光に包まれた。


 ひなたやの厨房に戻り、淡々と洗い物を片付ける迅一郎だが、どうにもパヤッタの寂しそうな顔が頭から離れない。

 お店はお昼のピークを越えて、残っているお客さんは数えるほどになっている。

「なにかあったのかい」

 祖母の玉江に声をかけられて、迅一郎は慌てて首を振った。

「そうかい、それならいいんだけど。いまのジンちゃん、あのときと同じ顔をしているものだから」

「あのとき?」

「拾ってきた子猫を、元の場所に戻しにいったときの顔だよ」

 迅一郎は幼いころ、子猫を拾ってきたことがあった。そのとき、両親に教えられた。人間の餌やぬくもりを与えてしまっては、子猫は野生で生きていくことが出来なくなってしまう。子猫の一生に責任を持つことが出来ないのであれば、中途半端な優しさは偽善に過ぎないと。

 元の場所に戻しに行って、結局、また連れて帰ってきてしまった。

 迅一郎は顔が熱くなった。少し乱暴気味に食器を重ねた。

「俺、学校の準備するから」

「はいよ、いってらっしゃい」

 迅一郎は白いエプロンと帽子を外しながら、居住空間である二階への階段を上がった。

 どうして自分がこんな気持ちにならないといけないのかと、大きくため息をつく。たまたま見かけさえしなければ、出会いさえしなければ、こんな罪悪感を抱くこともなかったのに。

 自室の扉を開けると、「ぶなん」と鳴きながら、太っちょの猫が額をこすりつけてきた。

「そうだよなあ、ブナ」

「ぶなん?」

「拾ってきたときは、あんなに小さかったのにな、お前」

 あれから8年、今や大関クラスの巨大猫に育っていた。名前も当初は『プナ』だったが、いつの間にか誰からともなく『ブナ』と呼んでいる。

「じーちゃん、また缶詰をやったのか。カリカリでいいって言ってるのに」

「ぶな、ぶな」

 ブナは白いおなかを見せながら、「もっとごはんちょうだい」とねだっている。

「俺は甘くないぞ。あのときとは違うんだからな。お前にはダイエットカリカリで十分だ」

 迅一郎はダイエット用の餌をひとつまみだけ取って、ブナの餌入れに落とした。


 去年、迅一郎の両親が事故で他界したとき、祖父・宗一郎はひなたやの閉店を決めた。思い出の残るひなたやを見ているのが辛かったのだ。反対に、迅一郎は両親との思い出がある店を閉めたくなかった。人手が足りないなら、自分が働くとまで訴えた。宗一郎は学校はどうするんだと言うと、迅一郎はやめると言った。最後は迅一郎が押し切る形で店の存続が決まったが、祖父からは「きちんと高校を卒業すること」を条件に付けられた。それからは昼間ひなたやで働き、夕方から学校へ行って授業を受けるという毎日を送っている。


 仁一郎が通う『澄江乃高校』は、都内有数の進学校である。とはいえ世間的な評価は全日制のクラスが対象であり、夜間に通う定時制クラスは存在が知られているかすら微妙なところだ。

 陽が傾きかけた校門の前で、迅一郎は全日制の生徒たちとすれ違った。彼らには指定の制服があるが、定時制の生徒は私服での登校となっている。また、定時制は単位制の授業のため『一年生・二年生』という区分もない。

 教室に入り、迅一郎は見知った何人かとあいさつをした。

「おっす、迅一郎。景気はどうよ」

 肩を叩いてきたのは、派手目な金髪の女性。ひなたやの近所にあるバイク屋『木下モーターズ』の長女、木下沙羅だ。

 昨年に結婚した。いわゆる出来ちゃった婚で、今年に入ってすぐ第一子を産んだ。「生まれてくる子どもに勉強を教えられるように」と、こうして二度目の高校生活を送っている。昔は相当のやんちゃだったが、結婚してからはタバコもお酒もやめていた。

 ひなたやと木下モーターズの付き合いは長く、月光号のメンテナンスや改造も沙羅に任せていた。

「調子はどうよ、月光号」

「おかげさまで」

 異世界の岩場や神殿の螺旋階段を駆け上がってもビクともしなかった、とはさすがに言えない。

 迅一郎や沙羅に限らず、定時制に通う生徒は年齢も事情もそれぞれだ。多くは迅一郎と同世代の生徒たちだが、主婦や会社員、最高齢では85歳のお婆ちゃんもいる。

 教室がざわめき始めた。

 一人の少女が登校してきた。

 美しい黒髪の、凛と張り詰めた空気をまとったその少女は、名を横島節菜といった。定時制、全日制を問わず、この澄江乃高校で一番の有名人である。彼女を一目みたい、声をかけたいと、全日制の生徒たちまでがこの時間まで残って廊下に集まっている。

 そんな彼女は国内有数のお嬢様中学校を卒業し、本来であれば澄江乃高校の全日制どころか、もっとレベルの高い学校へ進学しているはずだった。なぜ彼女が夜間に通うのか、理由を知っている生徒はいないので、噂ばかりが流れていた。「アイドルデビューの準備をしている」「大物政治家の愛人をしている」「悪い遊びにハマって勘当された」といった根も葉もないものばかりだ。

 当の本人はそんな噂や注目などに目もくれず、窓際の指定席に静かに腰をかける。

 その手首には真新しい包帯が巻かれていた。それに気づいた沙羅は、

「こりゃまた、妙な噂が広がりそうだね」

 と苦笑いをしながら言った。

 ふと節菜は迅一郎の方に視線を向けた。しばらく、ぽかんとしたように、こちらを見ていた。



 翌日の午前中、迅一郎のスマホに着信があった。意味不明な記号が並んでいた。

 迅一郎は無視をしようか悩んだが、そこまですることはないと思い電話に出た。 

「こんにちは、パヤッタです。ご機嫌いかがですか」

 パヤッタの元気そうな声を聴いて少し安心するが、その気持ちをぐっと抑えて冷静に言葉を返す。

「賢者の名に誓って、連絡はしないと約束したじゃないですか」

「出前はしないと誓いましたが、連絡をしないとは言っていませんよ」

 迅一郎は自分の記憶をさかのぼって、「たしかに」と呟いた。

「出前じゃなければ、何の用です」

「実は今日、私の誕生日なのですが」

「そうですか、おめでとうございます」

「ささやかながらパーティーをいたしますので、是非ジンどのにお越し頂きたいと思いまして」

 なんてわかりやすい下心だろうかと、迅一郎は警戒している自分が馬鹿らしく思えてきた。

「あ、別にですね、オム……プレゼントが目当てだというわけではありませんよ? オム……ジンどのとさらに親交を深めたいという一念でありまして、オム……プレゼントは出来ればでいいのです、出来ればで!」

 迅一郎はスマホを耳にあてたまま、反対側のこめかみを親指でぐっと押さえた。パヤッタの言う通り、知人の誕生日プレゼントであれば商売ではない。お客さんではないということは関係ないので、あくまで個人的な気持ちの問題だ。

「ご、ご迷惑でしたら、また次の誕生日でも構いませんので……」

 しゅんとしたパヤッタの声が聞こえてくる。まるで雨の中、助けを求める子猫のように。『次の誕生日でも』だなんて、いったいどれだけオムライスが食べたいのだろうか。

「わかりました。では後ほど」

 迅一郎はそう答えて、パヤッタの反応を聞かずにスマホを切った。

 決してパヤッタに負けたというわけでも、甘やかしているというわけでもない。原因はともかく、縁のあった相手の誕生日に何もしないなんて、商売人以前に人間として間違っている。

 業務用冷蔵庫を睨み付けると、手際よく材料を取り出していく。卵3個にごはん、鶏肉、玉ねぎ。ひなたやでいつも出しているごく基本形だった。

 鶏肉の皮を切り分けて、細かく切る。フライパンにバターを溶かして、材料を炒める。ケチャップで味を調えてライスの部分は完成した。新しいフライパンを熱し始めると、その間に卵を割ってかき混ぜる。卵をフライパン全体に広げた。

 オムライスが完成して、トマトケチャップをかけようとして止まる。

「……なに見てんの、ばーちゃん」

「ジンちゃんがずいぶん楽しそうだなって」

「べつに!」


 やるからには中途半端は無しだ。パヤッタを驚かせるようなオムライスを作ってやろうと、迅一郎は思った。


 異世界に転移すると、今回は都合よく神殿内に入ることができた。

 あまりの広さにいまだ神殿内がどうなっているのか分かっていない。うろうろしている迅一郎の姿を見つけたパヤッタが、転びそうな勢いで走り寄ってきた。

「お待ちしておりました、ジン……オムライスどの!」

「本音が繕えてないぞ」

「ささ、どうぞこちらへ」

 案内された小さな台座には、花が一輪と、いくつかの木の実が置かれている。

「えー、本日は私、パヤッタの誕生日パーティーにご出席いただきましてー」

「ちょっと待て。他の参加者は?」

 迅一郎が言うと、パヤッタはふるふると首を振った。

「ご招待しているのはジンどのだけです」

「表にいるナントカ姉妹は呼ばないのか」

「ネエネエとリャンリャンは神殿の警護の仕事が忙しくて」

「他に友だちや知り合いとか」

 思わず口走ってしまい、迅一郎は「しまった」と内心で舌打ちをした。

「いませんよ。パヤッタは4歳のころに神殿に連れてこられて、それからずっとここにいます。外は危ないので出してもらえないのです」

「黙って出ることは?」

「結界が張られていて、むりなのです」

 さして深刻な様子でもなく、パヤッタはおかもちをチラチラ気にしながら答えた。ぐー、きゅるるーと、パヤッタのおなかが鳴っている。

「そんなことより、ジンどの。その箱に入っているのはもしかして……!」

 もったいぶる理由もないので、迅一郎はおかもちのふたを開けた。中に入っているのは誕生日仕様にデコレーションされたオムライスだ。果物や野菜で可愛らしく彩られ、てっぺんにはお子様ランチ用の旗が立てられている。

 パヤッタは声にならない声を上げながら、四つん這いでオムライスに近づいた。

「こ、これは、なんと神々しいっ……」

「大げさな」

 迅一郎はそっけなく言ったが、これだけ喜んでもらえれば頑張った甲斐があるというものだ。

「おや、あの赤い……ケチャップというものはかかってないのですか?」

 パヤッタの言うように、オムライスにはケチャップがかかっていなかった。

「ああ、これはな」

 迅一郎はおかもちのケチャップを取り出すと、オムライスに文字を書いた。

「パヤッタ……こ、これは、わたしの名前ではないですか! まるで、魔法を見ているようです……」

「じゃあ、俺はこれで。後で食器を回収に来るから」

 オムライスをほおばりだしたパヤッタを横目に、迅一郎はおかもちを持ち上げた。

「えっ、もう戻られてしまうのですか」

「仕事中だからな」

 その仕事をほっぽりだして、こんなところまで来ているのでいまいち締まらない。

「そう……ですか」

「まあ、目当てのモノが届いたんだから、俺に用はないだろう」

「そんなことはありません! オムライスは大切ですが、それを作って運んでくれるジンどのはもっと大切です!」

「まったくフォローになっていない」


 その日の午後、ひなたやに思わぬ客が来店した。迅一郎のクラスメイト横島節菜である。

 いつもは凛とした雰囲気を漂わせている節菜であったが、心なしかくつろいだ様子だった。

「あんれま、節菜ちゃんじゃないか。久しぶりだね。それにしても、相変わらずの別嬪さんだよ。若い頃のあたしのようだ」

 玉江が言うと、宗一郎が「うむ」と頷いた。祖父母へのツッコミは置いておき、迅一郎は気になったことを聞く。

「久しぶりって?」

「節菜ちゃん、うちによく来てくれてたんだよ」

 常連だったらしい。両親が店を経営していた頃は、迅一郎はあまり店の手伝いをしていなかった。昼は学校に行っていたし、たまに休みの日に手伝っていたくらいだ。

 端の席に座った節菜のもとへお茶を出しに行く。教室ではとても話しかけられないが、カウンター越しであればどんな人にも気楽に接することができるから不思議なものだ。

「いらっしゃいませ。ご注文がお決まりになりましたらお声掛けください」

 向こうは有名人だが、彼女が自分を知っているとは限らない。迅一郎は他のお客さんと接するのと同様に対応した。

「オムライスで」

 即答した。

「オムライスですね」

 迅一郎は厨房に入ると、いつも通りオムライスを作った。

 節菜はオムライスをしばらく見ていた。右手でスプーンをつかんで、「つっ……」とスプーンを落とした。右手を押さえている。ふと見ると、昨晩にあった手首の包帯が腕のあたりまで広がっていた。首の付け根にも絆創膏が貼ってある。

「スプーンを交換しますね」

「これでいいから」

 節菜は左手でスプーンをつかむと、オムライスを食べ始めた。あっという間に完食した。「これ、あなたが作ったの?」と言って、節菜は迅一郎を見つめた。

「はい」

 迅一郎は正直に答えた。

「私、ここのオムライスが好きだったのよ。また来るわ、迅一郎くん」

 あれ、どうして俺の名前を知ってるんだ、と迅一郎は思った。


  14時半になり、昼の営業が終了する。迅一郎は店の暖簾をおろし、祖父母とともに店内の掃除を行った。

  その後、月光号にて出前に行ったお客さんの家を回り、器を回収する。その器を一度お店に持ち帰った。再びバイクにまたがると路地裏に入り、異世界への転移呪文を唱えた。

  視界が光に包まれ、次に気が付いたときには、見知らぬ場所にいた。というか、見知らぬ誰かの後頭部が見えた。黒髪ツインテールなので女性だろう。

「あの……」

「はっ、なにもの!」

振り向き様の裏拳を、迅一郎は寸でのところで避けた。

「あ、あぶねっ!」

「なんだ、出前屋か。まったく、妙なところから出てくるでない」

 どうやら神殿の扉を守護する飛龍姉妹の妹、リャンリャンの真後ろに移動してしまったらしい。どことなく緊張感のある面持ちで、リャンリャンはため息をついた。聞けば神殿に侵入を試みる者が現れ、姉のネエネエとともに対応に当たっているのだという。

「やつらは我々が用意した7つの試練のうち、すでに3つをクリアしている。これまでの挑戦者とはけた違いの強さだ。この分には数日以内にでもこちらにやってくるかもしれん」

「それは危険な話なんですか?」

「いや、喜ばしいことだ。パヤッタ様の召喚獣と契約するに相応しい者が現れれば、魔族が勢力を伸ばす現状を打開できるやもしれん」

この世界の事情を知らない迅一郎は「なるほど」としか答えられなかった。

「しかし我らが飛龍姉妹の最終試練は甘くないぞ! この200年、扉を開けたものはただひとりとしておらぬ! たとえ音に聞く勇者セツナが相手であろうと、そう易々と通すわけにはいかんのだ!」

そう言いながらリャンリャンは扉を押して、迅一郎が通れるだけの隙間を作った。

「なんかすいません、お忙しいときに」

「出前屋、お前には感謝している。せっかくのお誕生日であるのに、我々はパヤッタ様のお側にいることが出来ない。お前が持ってきてくれるオムライスがあれば、パヤッタ様もご満足だろう」

色々聞いてみたいこともあったが、聞いてどうにかなるという話でもない。迅一郎はリャンリャンに会釈をして神殿に入った。

最奥の部屋に着くと、パヤッタは空になったお皿の横で、すやすやと寝息を立てていた。使っていたスプーンをおしゃぷりのようにくわえている。

声をかけても起きないので、迅一郎はパヤッタの口元からスプーンを取ろうとした。

「……抜けん」

「むにゃ……はむはむ」

 腹一杯にオムライスを食べたあとで、オムライスを食べる夢を見ているのだろうか。その顔はとても幸せそうだ。スプーンを上下左右に動かすと、柔らかそうなほっぺたがクニクニと動く。少し強めに引っ張ると、形の良い眉がわずかにハの字になった。寝ている猫にいたずらをしているようで楽しく、迅一郎はしばし夢中になってスプーンを動かしていた。

「……はっ! 何をやっているんだ俺は」

 パヤッタの口から強引にスプーンを抜き、よだれを拭き取っておかもちにしまう。幸せそうだったパヤッタの顔は、どことなくさみしげなものになっていた。

 パヤッタは4才から神殿に連れて来られたと言っていた。家族や友だちはいないのだろうか。日頃からちゃんと食事をしているのだろうか。

 そんな風に思考が巡ってしまい、迅一郎は「考えちゃダメだ!」と頭を振った。中途半端な同情は禁物だ。

 そもそも、ここは異世界である。自分がいる世界とは常識がまるで違うのだ。魔物とか戦いとか試練とか、まるでゲームのような話が現実として繰り広げられている。つまり、パヤッタの置かれた状況というのも、自分の世界の常識で考えれば可哀想に思えるが、案外異世界においては安全かつ平穏で幸せなものなのかもしれない。

 そうだ、きっとそうに違いない。俺が何かしてやらなくても、パヤッタは楽しく幸せに生きていけるのだろう。

 迅一郎はそう自分に言い聞かせながらパヤッタを見ると、その頬に一筋の涙が伝っている。

「……おかあさん……たすけて……」

 迅一郎は「くっ……」とうめき声を漏らしながら地面に膝をついた。パヤッタの背景にある物語を勝手に想像してしまい、「喜ばせてあげたい、幸せにしてあげたい」という庇護欲がものすごい勢いで増大していく。

 迅一郎の中の悪魔が囁いた。

『ケケケ、迅一郎。我慢するこたねーよ。本当はパヤッタに優しくしてやりたいんだろう? 毎日でもオムライスを持ってきて、パヤッタの喜ぶ顔を見たいと思っているんだろう?』

 いけません、と迅一郎の中の天使が反論する。

『オムライスだけでは栄養のバランスが崩れてしまいます。成長期の女の子なのですから、野菜や鉄分・ミネラルなどバランス良く食べられる料理を持ってくるべきです』

 ちょっと待て天使、今はそういう話をしているんじゃない。出前をすることを前提に議論してくれるな。

 迅一郎はおかもちからスプーンを取り出すと、パヤッタの口に戻した。ぐずついていた赤ん坊が泣き止むように、パヤッタが幸せそうな顔になる。

「……まあ、誕生日プレゼントということで」

 気持ちに流されてはいけない。もう二度とこの異世界に来るべきではない。

 パヤッタにオムライスを食べさせてあげたいという気持ちは認める。だが無償で、その行為をこの先ずっと続けていけるはずがない。

 迅一郎は後ろ髪を引かれる思いで、元の世界に戻る呪文を唱え始めた。

 その途中でふと気づく。出前をしなくてもパヤッタにオムライスを食べさせてあげる方法があった。

 詠唱を中断した迅一郎は、ひなたやのメニュー表を取り出した。薄黄色の紙の裏側に、鉛筆で『ひなたや特製オムライスの作り方』と走り書きをする。

 まったく同じ材料は無いかもしれないが、この異世界にも似たものはあるはずだ。

「ええと、『材料①何らかの生卵。生食可能な新鮮なもの』……砂糖はありそうだけど、ケチャップは難しいか。トマトのようなものと言ってもな」

 オムライスにはケチャップと決まったわけではないし、異世界にあるソースでも合うものがあるかもしれない。迅一郎は元の世界にあるものを異世界の人にも伝わるように、なんとかレシピを書き込んだ。

 最後に天使からの忠告である『毎日はダメ。栄養のバランスを考えて食事を取るように』と付け加えておく。これで思い残すことはないと、迅一郎は満足気に頷いた。

「じゃあな、パヤッタ。短い間だったけど楽しかったよ」

 パヤッタから『オムライスを作ってみたので試食に来てほしい』と連絡があったのは、それから三日後のことだった。


「悪いんだけど、俺の中ではもう異世界には行かないって心の整理が出来ていてだな」

「まーまー、そうカタいことは言わないでください。びっくりするくらい良い出来なので、これはジンどのにお見せしたいと」

「常識的に考えて、異世界を行き来するのってヤバいだろう。余計なトラブルが起きないうちに終わりにするべきだと思うぞ」

「ふふ、ジンどのは心配性ですね。ちょっと行って戻ってくるだけなら、なんの心配もいりません」

「と言われてもな……うーん」 

 たしかにレシピを置いていったのは自分だし、その通りに出来ているか見てもらいたいというパヤッタの気持ちも理解できる。オムライスが上手に出来ているのであればお役御免となるわけで、それなら最後に付き合ってあげるのもいいだろう。

「じゃあ、見に行くだけだぞ。出前は持っていかないからな」

 電話を切ると、視界の端で手のひらが揺れている。この数日、ひなたやに再び通い出した横島節菜だった。

「迅一郎くん、ちょっとお願いがあるんだけど」

 今日は用事があって学校に行けないかもしれないから、と節菜は迅一郎に封筒を差し出した。

「代わりに提出してもらえないかしら。山本先生に」

「かしこまりました、お安い御用です」

 迅一郎がいうと、節菜がぷっと吹き出した。

「クラスメイトなんだから、普通に話してくれていいのに」

 ここ何度か店に来て話をするうちに、随分と打ち解けた。かしこまった口調がつい出てしまうのは、店にいるからだった。

「学校のときと雰囲気が違うよね。なんだか男の子って感じ」

 節菜はからかうような笑みを浮かべると、「ごちそうさま」と席を立った。

「……私も頑張らないと」

 独り言のようなその言葉に、包帯に目が行ってしまう。傷が治りかけては、また別の場所に傷ができて、その繰り返しだった。家庭内暴力でも受けてるんだろうかと思ったが、あまり立ち入ったことを聞くのもなんだろうと思い黙っていた。

「ありがとうございました」


  神殿の最奥、光の垂れ幕が揺れる台座の前で、パヤッタが物憂げに宙を見つめていた。こうして見ると本当にファンタジーの世界だなと、迅一郎は思わず息をのむ。

 まるで彫刻か壁画のように、ずっとそうしていることが自然であるかのように、パヤッタはじっと動かない。傍らの台座には場にそぐわないオムライスが置かれていた。

 迅一郎はわざとらしく咳払いをして、物陰から姿を現す。その瞬間、停止していたパヤッタの時間が動き出したかのように、生き生きとした笑顔が向けられた。

「ジンどの、お待ちしておりました! ささ、どうぞこちらへ、これを御覧ください!」

 パヤッタが恭しく差し出した手の先には、銀色のお皿に乗せられたオムライスがある。ひなたや食堂で出されているオムライスと比較しても遜色のない、見事な出来栄えだ。

「おお、すごいじゃないか!」

 迅一郎は素直に関心して、パヤッタの作ったオムライスに見入った。しかし鼻を近づけると、妙な刺激臭がする。プラスチックを燃やしたときの臭い、あるいは排水口の臭いに似ている。

「……なにで作ったんだ、これ」

「粘土と絵の具です。お米は一粒ずつ指で丸めて作りました。すごいでしょう」

「粘土って……食えないじゃないか」

「はい、観賞用ですから」

「俺が書いたレシピを見て作ったんじゃなかったのか」

「本当はそうしたいのですが、私も神殿の外に出られませんし、ネエネエもリャンリャンも今は手が離せませんし」

 それでも大満足ですよ、とパヤッタは胸をはった。

「見ているだけでこう、よだれが出てきて、何度もあの味がよみがえってくるのです。うふふ」

「な、なんて不憫な……」

 迅一郎の中に、押し殺したはずの『甘やかしたい欲』が湧き出してくる。誰かこの子にオムライスを食べさせてあげてくださーい、と叫ばずにはいられないほどに。

「じ、ジンどの」

 不意にパヤッタが戸惑いの表情を浮かべた。あらぬ方を見つめ、どこか遠くの方に視線をやった。

「翡翠の試練をクリアした者が現れました。ネエネエとリャンリャンが敗れたようです」

 パヤッタにはそのことが分かるらしい。

「あの二人が……」

「ついに現れたのですね……私の中に眠る召喚獣を、預けるに相応しい強者が」

 パヤッタの声は緊張していた。釣られたように迅一郎も緊張してしまう。

「よくわからないが、大丈夫なのか」

「危険なことはありません。……が、なにぶん初めてなもので」

「ほんとうに大丈夫か?」

「はい。それより、試練を越えた者しか立ち入ることが出来ない神殿なので、ジンどのは後ろに身を隠していただけると」

 この世界のことはよく分からないが、リャンリャンとパヤッタの話を総合すると、試練に挑む者が神殿を目指しているらしい。その目的はパヤッタの中に眠る召喚獣を手に入れること。魔族が勢力を伸ばす現状を打開できるとも言っていた。たぶん、その何者かは悪い奴ではないのだろう。それどころか、この世界に必要な人物なのだろう。

「き、緊張してきました……翡翠の賢者として、恥ずかしくない対応をしなければ」

 威厳を損なわないようにということだろうか。

「この観賞用オムライス、片付けておくぞ。他にゴミとか、お菓子の食べ残しはないか」

「あわわわ……セリフ、セリフが飛んでしまいそうです。ええと、よくぞ翡翠の試練を乗り越えた。私の名はパヤたたっ……!」

「落ち着け。髪、ここハネてるぞ。襟も曲がっている」

 どうにかこうにか体裁を整えて、迅一郎は巨大な円柱の陰に身を隠した。

 やがて足音が近づき、止まる。

「よくぞ翡翠の試練を乗り越えた、勇ましき者よ。我は賢者パヤッタ。汝に比類なき力を貸し与える者である」

 まるで親戚の子の学芸会を見ている気分になりながら、迅一郎は息を殺した。ここからでは直接様子を伺うことは出来ないが、パヤッタの背後にある光のヴェールが反射して、ぼんやりとだが確認できた。

「勇ましき者よ、名を名乗るがよい」

「レイブルグ王国より推参、宵闇の勇者セツナ」

 その者は勇者を名乗った。

 もしかしてパヤッタって結構えらい人なのか、などと今更のように迅一郎は思った。

「勇者セツナよ。汝は我が使役する32の召喚獣のうち、最もふさわしき1つと盟約を結ぶ」

 パヤッタが手にした紙の束を空中へ投げ上げた。それらは竜巻のように勇者を取り囲んでいる。

「さあ、強き願いをこめ、正義の剣で自らの伴侶を選ぶがよい!」

 勇者が剣を抜き、紙に向かってそれを投げた。瞬間、まばゆい光が神殿内に溢れ、迅一郎は思わず目をつむった。にも関わらず、光の中にいるような感覚があった。何かが物凄い勢いで迅一郎目がけて飛んでくるのが分かった。その何かが迅一郎を貫いたような感覚があった。痛みはなく、代わりに体の中にある何かがごっそりと引き抜かれ、別の何かへ注ぎ込まれるような不思議な感覚だった。

 迅一郎はいつの間にかに床に倒れていた。

 起き上がると、ぽかんと口を開けたまま迅一郎を見るパヤッタの姿が目に入った。

「あ、あわわわわわ! まさか、まさかまさかまさか!!」

 それともう一つの目が、迅一郎に注がれていた。

 勇者と呼ばれた人物で、迅一郎と剣の先端に刺さった紙を交互に見つめていた。

「ひなたや食堂メニュー一覧……って、迅一郎くん!?」

「せ、節菜さん!?」

 ふたりは見つめ合ったまま言葉を失った。



 3人の混乱が収まるまでには小1時間を要した。神殿の外で待っていたネエネエとリャンリャンも、なにかあったのかと心配をしてやって来ている。

「迅一郎くんとパヤッタ様の経緯はわかったわ」

節菜はやれやれと肩をすくめる。

「とても信じられないけど、それはお互い様よね」

 節菜は中学3年生のとき、大きな病気で生死の境をさまよったという。ある時からファンタジーの世界にいるような夢を見るようになり、それは次第に明確になっていった。そこが異世界であることを認識したとき、節菜は世界を自由に行き来する能力を手にいれていた。

「でも、どうして異世界で勇者を?」

「最初は遊びだったんだけどね。どういうわけか、この世界での私はものすごい力を持っているの。面白おかしく試しているうちに、回りから勇者だとか救世主だとか祭り上げられて……そのうち本気で『この世界を救いたい』と思うようになって」

高校を全日制ではなく定時制にしたのも、異世界での勇者活動を両立させるためだった。

「学校のみんなには内緒でお願いね」

「言っても信じてくれないって」

「あはは、そうよね。でも、まさか迅一郎くんがね……なんだか嬉しいかも」

「嬉しいって、どうして?」

「今まで誰にも内緒で、ひとりで戦ってきたからね。秘密を共有してくれる人がいるだけで、ずいぶん気が楽になるの」

 節菜が異世界で勇者を始めたのが、中学3年生の冬。高校に入学してからは半年以上、早朝からお昼すぎまでを冒険にあててきた。キリのよいところで現代に戻り、学生としての努めを果たす。

「……すごいな、横島さんは」

「節菜と呼び捨てでいいわ。私も迅一郎と呼ばせて貰うから」

「つまりセツナどのは、ジンどのと同じ世界からやって来たと」

 パヤッタの問いにふたりが頷く。

「それどころかジンどのお店で、オムライスだけでなく色々な料理を毎日食べていると」

「通いだしたのはここ最近だけれど、どれも美味しくて困るわ」

「くぬぬ……な、なんとうらやましい……!」

 それどころじゃありませんよ、と口を挟んだのはネエネエだった。

「聞けば召喚獣の印書に出前屋のメニューが紛れていて、それをセツナが選んでしまったようですね。そもそも召喚の手違いで呼ばれた出前屋でしたが、パヤッタ様が使役する召喚獣の1つとして認証されており、その盟約が成立してしまった」

 やり直しが出来ないのかというセツナの問いに、リャンリャンが首を振った。

「盟約の儀式は一度のみ。術者が死ぬか、盟約の目的……魔王討伐が達成されるまでは解除できません」

 パヤッタの召喚獣は、魔王討伐を目指すセツナにとってどうしても手に入れたい力だった。

「……ご、ごめんなさい……パヤッタが不甲斐ないばかりに……」

 もはや賢者の演技を続けられなくなったパヤッタが、涙目で頭を下げる。

「パヤッタちゃん。私は怒っていませんし、残念でもありませんよ」

 セツナはパヤッタの前にしゃがみこんで、お姉さんのようにパヤッタの頭をなでた。

「だって、おっしゃったじゃないですか。『この中から最も相応しい1つと盟約を結ぶ』って。それはつまり、他の32体の召喚獣よりも迅一郎のほうが私に相応しいということですよね」

 パヤッタはこくこくと頷いた。イレギュラーとはいえ天命が指し示した結果に間違いはないと言う。

「ちょ、ちょっと待ってくれ節菜。召喚獣と言われても、俺は戦えないし何の力もないぞ」

「あら、そんなことないわ。戦うだけが召喚獣の役割とは限らないもの。たとえば、『営業時間内なら何処へでも出来たての料理を運んでくれる召喚獣』なんて、便利だと思わない?」

「……へっ??」

「実際のところ、冒険のなにが大変って食料事情なのよね。異世界の食材は美味しくないしすぐに傷むし、腹ペコじゃ動けない私は大量に持ち運ぶ必要があるから荷物がかさばるの。もし迅一郎が出前をしてくれるなら、冒険はずっと楽になるわ。お腹いっぱいなら魔王にだって負けない自信があるもの」

「というわけだ、よろしく頼むぞ出前屋」

 リャンリャンが迅一郎の肩に手を置いて言った。

「我らがパヤッタ様に恥をかかせてはならん」

 反対側から、ネエネエががっしりと肩を掴んでくる。

 迅一郎が助けを求めるようにパヤッタを見ると、パヤッタは今にも泣きそうな顔でうつむいていた。

「……ジンどのはパヤッタが呼んだのに。パヤッタだってジンどのと一緒にいたいのに。美味しいものをたくさん食べたいのに。セツナどのばかり、ずるい……」

 ぽろぽろと涙がこぼれたのを見て、四人はぎょっと顔を見合わせる。パヤッタの中に眠る召喚獣の気配が、瞬時に神殿内の空気を飲み込んだ。地面の震えが次第に大きくなっていく。

「マズい、このままではパヤッタ様が暴走してしまう!」

「ど、どうすればいいのよ、門番さん! これだけの力が開放されたらひとたまりもないわ!」

「くっ……どうにかしてパヤッタ様のご機嫌を直すものを……!」

 セツナとネエネエ、リャンリャンは同時に迅一郎を見た。

「……そう来ると思ったよ。ええと、落ち着けパヤッタ! 明日、オムライスを持ってきてやるから!」

 パヤッタの肩が小さく動いた。

「……あした……あした、だけ……?」

「わかった、明後日も持ってくるから!」

「……あさって……あさってが終わったら、パヤッタはさよなら……セツナとはずっと一緒なのに……」

「なるほど姉上、パヤッタさまは意外と嫉妬深い性格だったのですね」

「いやいや嫉妬2割、食い意地8割といったところだろう」

「迅一郎、なんとかしてー! ここはひとつ、気前よく年間食べ放題券とか」

「そんなことしたら店が潰れちまうよ! ただでさえ人手不足で大変だっていうのに」

 セツナがぽんと手を叩いた。

「それなら、パヤッタちゃんをひなたやで働かせたらいいんじゃない? 人手不足も解消できるし、パヤッタちゃんはお給料として好きなものを食べさせてもらえる。これならお互いウィンウィンの関係でしょう」

 すると、大地の震えがぴたりと止まった。

「パヤッタ、働きます! そうしたら毎日、オムライスが食べられるのですか!?」

「いやいや、さすがにマズいだろう。パヤッタは異世界の賢者さまなんだろ? だいたい、神殿を守る二人が許すわけがないし、パヤッタは神殿から出られないんじゃ……」

 ネエネエとリャンリャンはお互いの顔を見合って、こくりと頷きあった。

「べつに構いませんよね、姉上」

「うむ、我らの使命は神殿の『扉』を守ることだ。我々の預かり知らぬところでパヤッタさまがご不在になろうと、我々が仙界から咎めを受ける言われはない」

「保身が過ぎる! 結界の方はどうなんだ?!」

「おそらく、それも心配はないだろう。そもそも出前屋が結界の張られた神殿内に立ち入れたこと自体不思議だったのだ」

「だそうよ。覚悟を決めなさいよ、迅一郎。パヤッタちゃんが暴走して異世界滅亡……なんて洒落にならないでしょう」

「はあ……わかったよ」

「わーい、やったー! ジンどのと毎日いっしょにいられる! オムライスがたべられる!」

「そのかわり、やるからには中途半端は無しだからな。たとえ賢者さまであろうと、皿洗いから床掃除まで、なんでもやってもらうぞ」

「おまかせください、ジンどの! 翡翠の賢者の名にかけて、立派に努めを果たして見せます!」

 パヤッタの毒気のない笑顔に、迅一郎も釣られて笑ってしまった。とんでもないことに巻き込まれてしまったのに、嬉しいような楽しいような、幸せな気持ちでいっぱいだった。



 パヤッタがひなたや食堂で働くことになってから1週間がたった。もともと手先が器用なのか、掃除から皿洗いまですぐに仕事を覚えて立派な戦力になっている。

「おじいさま、注文ですー! しょーがやきてーしょく、すぶたていしょく、お願いしまーす!」

「あいようっ!」

「おばあさま、ヤマザキさんにビールをお願いしまーす!」

「はーい」

 宗一郎も玉江も呆れるくらいにデレデレ顔である。孫が出来たようで嬉しいと、孫である迅一郎の前で言うのだからヒドいものだ。

 パヤッタはふと立ち止まり、壁に貼られた勤務表をじーっと覗き込んだ。労務交渉の結果、時給オムライス(850円相当)となっている。さらに日替わりのまかない付きだ。

「今日も2時間働くので、オムライスが2つ……皆さん優しくてお仕事は楽しいですし、こんなに幸せでいいのでしょうか」

 ひなたや食堂には最近、パヤッタを目当てに集まるお客さんも多い。それこそファンタジーの世界から抜け出してきたような女の子が、白い割烹着で走り回っている姿はお目にかかれないだろう。お給料が現物支給なので、ひなたや食堂の懐事情にも都合がいい。

 時計の針が14時を指すころ、迅一郎の脳内に勇者セツナの召喚呪文が聞こえてきた。勇者セツナの召喚獣になってからというもの、その呼びかけが聞こえるようになった。

『我が名はセツナ。汝、翡翠の盟約の下に集うべし……カツ丼、カレー、野菜炒め、とん汁、ごぼうサラダ、オムライス……以上で』

『まいど』

 脳内で返事をしてから、注文のメニューを作り始める。おかもちいっぱいに食事を詰め込んで月光号にまたがり、節菜の気配を辿って異世界に向かった。

 降り立ったのは薄暗い洞窟の中だった。召喚は本来、術者のもとにスムーズに現れるべきであるが、詠唱されてから食事を作り始める時間差のせいで誤差が生まれてしまう。あらかじめ食事を用意をしておき、決まった時間に呼んでもらえれば楽なのだが、魔王を倒すべく冒険中の勇者セツナは食事のタイミングを確保するのも大変なのだろう。

 迅一郎はライトを付けて洞窟の中を進んだ。途中、何体かの魔物の死骸を通り過ぎて、やがて青い水晶で囲まれた美しい地底湖に到着する。

「迅一郎、こっちこっちー」

 ピクニックに来ているような気安さで、黒ずくめの装備に身を包んだ節菜が手を振っていた。

「お待ちどうさま。……じゃあ、俺はこれで」

「え、もう帰っちゃうの? ゆっくりしていけばいいじゃない。こんな景色、現実の世界じゃ見られないよ」

 これ奢りね、と節菜がオムライスを差し出した。たしかに忙しい時間帯は過ぎているから、少しはゆっくりしても問題ないかもしれない。

 迅一郎は節菜の横に座った。水があるようには思えないほど透明な湖をながめながら、事の発端となったオムライスを頬張る。

 この1週間で異世界における勇者セツナの存在の大きさを知った。魔族に脅かされる世界を救うべく、ただひとり旅をする節菜は異世界の人々の希望なのだ。

「来月は文化祭だね」

 勇者セツナが場にそぐわないセリフを言うと、そこだけに現実の空気が漂った。

 節菜は演劇部に頼まれて、異世界転生ものの劇に勇者として参加することになったのだ。最初は渋っていたが、迅一郎が面白がって「現実では勇者になれないの」と言うと、ムキになってやると言い出したのだった。

「高校を卒業するまでには、魔王を倒さないと」

「スケールの大きいセリフだな……間に合いそうなのか?」

「あとから真の魔王とかが出てこなければ、来年の夏くらいには決着つけられるかも」

「頑張ってくれ。俺にできることなら協力するから」

「ありがとう。さっそくなんだけどこの扉、ふたつのボタンを同時に押さないと開かないみたいで」

 せーのでボタンを押すと、氷の扉が崩れ落ちた。はるか前方に、巨大な氷の龍がいる。

「ありがとうついでにもう一つ。私ね、前から迅一郎のこと知ってたの。ひなたやにはよく通ってたからたまに見かけて、でもあんなことがあって。でも、ひなたやが再開して良かった」

「ああ」

「じゃあ、行ってくるね。2時限目には間に合うと思うけど」

「気をつけて」

「ねえ……いまの私、かっこいいでしょう」

「え、ああ」

「惚れちゃう?」

 迅一郎が答えに詰まったことに満足したようで、節菜は意気揚々と歩みを進めていった。


 ひなたやに戻ると、お客さんはみんな帰っていて、祖父母が片付けをしていた。

「ばーちゃん、パヤッタは? もう帰った?」

「いいや、上にいるよ。ブナと遊びたいって」

 自室の扉を開けると、ベッドの真ん中でパヤッタとブナが丸くなって眠っている。

「むにゃむにゃ……おむらいふぅ……」

 幸せそうなパヤッタの寝顔を横目に、迅一郎は学校に行く準備を始めた。



☆おしまい☆

最後まで読んで頂いて、ありがとうございました!

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