最終話 半魔と魔女
俺は長い間一人ぼっちだった。
比喩でもなんでもなく、事実俺は一人だった。
記憶すらない時期に父親、まだまだ子供と呼べるくらいの時に母親を殺され、それから約十年、聖教者から逃げ続けてきた。
よくもまあ捕まらなかったものだと自分でも思う。もちろん運もあるだろうし、何より必死だった。生きるために、およそ文化的ではない生活だってしていた。
母さんのことは忘れたことはない。忘れられるわけがない。
その声も、仕草も、笑顔も、記憶に焼き付いている。それに、夢にだってよくでてきた。
それでも時間というのは残酷だった。
姿形こそ忘れなくても、母親の温もりはどんどん熱を失っていって。
抱きしめられた時の安心感。落ち着く母さんの体温。
それらがどんどん離れていって、逆に俺は冷たくて震えそうになる。
そんな俺だからこそ、リリアという存在はまるで太陽のようで。
冷え切って氷のような俺を溶かし、人間としての温度を思い出させてくれて。
だから頼れる誰かがいることが、この上なく幸せだった。
幸せ――では、あるんだが……
「ほら、早く口開けて」
目の前には、俺の隣に座ってスープを掬ったスプーンをこちらに差し出すリリアの姿。少し不愉快そうに眉をひそめている。
これは少し、難易度が高いんじゃないだろうか……
◆
今は昼時。窓から差し込む柔らかい光が、もう住み始めて三ヶ月にもなる部屋を照らしている。開いた窓から入り込んだ心地よい風が、今日の俺の昼飯らしいカボチャのスープの甘い香りを運んできた。
目の前のスプーンの上で揺れるスープは綺麗な黄金色で、さぞかし美味しいのだろうと涎が出そうだ。だが、その欲望のまま目の前のスプーンに口をつけるには、俺の経験は少なすぎたようだ。
「…………」
無言で視線を滑らせる。スープ、スプーン、綺麗な白い腕、そして燃えるような赤髪へと。
そこには、やはり不機嫌そうなリリアがこちらを見ていた。
リリアは「ん」と声を漏らし、催促するようにスプーンを揺らす。それに伴って水面も揺れた。はやく食べろ、ということらしい。いわゆる「あーん」だ。これは初めてではないし、なんなら毎回食事のたびに彼女はこれをしてくるので回数的には少なくはないんだが、未だに気恥ずかしさは抜け切らずにいた。
なかなか口にしない俺を見て、リリアは見せびらかすようなため息をついた。
「はやくしなさいよ」
「勘弁してくれよ。自分で食べるって」
「だって、アレン一人で食べると驚くほど遅いじゃない。毎回毎回これだから、余計に時間がかかるんでしょ」
「じゃあ毎回毎回こんなことしなければいいだろ」
「……しょうがないじゃない。私の、せいなんだから」
わかりやすく彼女の顔に雲がかかる。
別に責めたつもりはないんだが、と俺はため息を漏らした。
あのアグネスとの戦いの時、リリアは俺を選んだ。重いだろうにどこにそんな力があるのか細い手足で俺を持ち上げ、門に飛び込んだ。それから大急ぎで材料を揃え、封魔の魔術を俺にかけたのだ。
おかげで俺は九死に一生を得ることができた。俺を助けてくれたんだから、リリアに感謝こそすれど、責めるなんてありえない。
「はぁ……」
もう一度小さくため息をついて、そのスプーンに口をつける。途端にカボチャスープの甘い香りと味が口いっぱいに広がる。さすがリリア。やっぱり彼女が作った料理は美味しい。
リリアはその綺麗な赤い目を見開いていた。
何を驚いているんだか。結局はいつも俺が折れて、「アーン」されているんだ。彼女の言う通り初めてでもないんだから驚くようなことでもないだろうに。もちろん、なんとなく毎回渋ってしまう自分にも理由があるってことくらい、わかっているが。
手を彼女の頭に乗せる。リリアは「ん」と小さく声を漏らし、俺はそのまま撫でるように手を動かした。目をつぶり為すがままになっている彼女はどこか気持ちよさそうに見える。
「別に、後悔はしてない。だからそんな顔しないでくれ」
「……そうは言うけど」
リリアの細い指が右目の下に触れた。俺は反射的に目をつぶり、リリアは指を滑らせる。目の下の輪郭に沿うように二回なぞったリリアの指は、冷たくてなんだか心地よく感じた。
「俺がそれを選んだんだから、リリアは気にするな」
「…………」
リリアが何を言いたいのかよくわかる。わかるからこそ、こんな宙を滑るような、何度も口にしたことしか言えない。案の定リリアの顔色もそこまでよくはならなかった。
リリアがなぞった部分には、青いあざのような印があるはずだ。三日月が横になったところに、三本のトゲが生えたような、どこか閉じた瞳を連想させるあざ。クルにあるものと同じ悪魔と契約した証であり、そしてその色が示すのは契約相手の悪魔が死んだことだ。
クルのものとの違いといえば、その三日月がクルは一つなのに対し、俺は二つと言うことだろうか。
その契約に則り、契約相手が死んだら自分も死ぬはずだ。俺はそれを、クルと同じくリリアの封魔の魔術で抑えている。
でもリリアが気にしているのは、そこじゃない。
いや、それは少し言い方が違うかもしれない。
正確には、『それもだが、他にもある』だ。
「私を助けに来なかったらこんな体になることもなかったのに」
次いでリリアは俺の右腕あたりを撫でる。だが俺は、撫でられたという感触を前ほど感じてはいなかった。
あの戦いでの傷跡は、その契約だけじゃない。
あの日、俺の中の悪魔は殺され、俺は純粋な人間になった。そんなことが本当に可能だったのか怪しいものだが、何よりやったのがアグネスだし、事実俺の中の悪魔は死んだのだから可能だったのだろう。
そして、いくら悪魔だといえどそれは俺の一部であることには変わりない。言わば半身を殺された俺は、かなりの障害を負った。
まず、悪魔の目と言われていた右目が完全に見えなくなった。黄金色の虹彩は色を失い、見た目がただの白眼で気持ち悪いから今は眼帯で隠している。
そして次に体の感覚が薄くなった。動きも前より鈍いし、常に痺れのような感触が付きまとう。特に右半身が顕著だった。
こんな体になったからこそ、リリアはこうも頑固に介護を申し出たのだ。
「こんなに重い障害を背負って、下手したら死んでたのかもしれないのに。アグネスも死んでない。きっと今頃血眼になって探してるでしょうね」
「……つまり?」
「そこまでするなんて割りに合わな――」
「リリア」
言わんとしていることを察して、俺は被せるように彼女の名を呼んだ。俺の心中を察してか、彼女は迷子の子供のような不安げな瞳で俺を見つめる。
あのいつだって冷静で強かった彼女はどこへ行ったのやら。弱くなった、と言えば確かにその通りなのだが、俺はこんな彼女も嫌いじゃない。むしろ好感すら覚える。
「損とか得とか、割りに合うとか合わないとか、そういうのじゃないんだよ。俺が助けたいからそうした。なんならあの時俺は死ぬ覚悟だってしてたんだ。なら生きているだけ、リリアとこうやって過ごせるだけ、俺は幸せだよ」
「幸せってアレンッ……」
リリアは顔を真っ赤に染め、目を見開いた。だけど彼女はそれを誤魔化すように咳払いを一つすると、困ったように微笑んだ。
「アレン、なんか遠慮なくなってない? そんな恥ずかしいこと、ポンポン口にするような人じゃなかったでしょう」
「んー……なんか、開き直ったっていうか、隠すのもおかしな話だろ? 実際そう思ってるんだから」
思えば今まで、俺は欲というものがあまりなかったようだった。あったとしても、生きたいという生き物なら当たり前の欲求だけ。悪魔だとか人間だとか天使だとか半魔だとか、そんなことばかり考えていた俺は、自分自身が何を欲しているかなんて考える余裕もなかった。
でも、変わることができた。クルのおかげで自分が何を欲しているのか、理解できたのだ。
「またあなたはそうやって……」
リリアはこめかみに手を当てて、困ったようにため息を一つ。
だが本当に困っている様子はなく、むしろどこか嬉しそうな雰囲気すら感じている。
「別にいいだろ」
「ダメってわけじゃないけど……なるべく控えてもらいたいわね」
「それまたなんで」
「単純に慣れてないのよ、人から好意を受けるのが。私だってあなたほどじゃないにしろ、迫害されてきた身よ? やっぱり、その、恥ずかしいのよ」
「なんだかんだ言って、一番被害を受けてるのは私」
聞きなれた落ち着いた声が耳に入ってくる。それは少なくとも今ここにいると認識していなかった人物で、驚いて体をビクッと反応させたのは当たり前の反応と言える。リリアも同じようで、わかりやすく体を震わせていた。
「……クル、お前、いつからいた?」
そこにいたのはやはり彼女だった。
机を挟んで俺とリリアの対面に腰掛け、いつの間に持ってきたのか木の器とスプーンで俺と同じカボチャスープを飲んでいる。
その纏う空気は、どこかトゲトゲしい。
「少し前。別に隠れてたわけじゃない。あなた達が頭に花を咲かせてたから気がつかなかっただけ」
「なかなか厳しいわね……それに、そんなことにはなってないと思うけど」
「事実。ここに来て、真っピンクの空気を吸わされた私の身にもなって」
そう言ってクルは一口スープを啜った。少し熱かったのか、一度口から離して息を吹きかけ、改めて啜る。彼女の口にあったのか、トゲトゲしかった空気も少し収まった気がした。リリアも動き出し、彼女が差し出したスープを俺も啜る。
彼女は俺がリリアを連れ帰って来た――と言っていいのか微妙なところだが――ことで、今までと同じ生活を送ることができている。
クルは、どこまでいってもクルだった。俺たちが帰って来た日も相変わらず飄々としていて、無表情にリリアの手伝いをしていたらしい。リリアは、あの時クルはどこか焦っている様子だったと言っていたが、目覚めた時には少なくともそんな様子はなかった。
俺自身、クルには感謝している。悪魔の契約だってあの薬によって理性を喰われなかったからできたことだし、そもそも彼女が俺を運んでくれなかったらこの森に住む魔物にやられていたかもしれない。
だが、リリアの救出という俺とクルにとってかなり大きなことを成し遂げたというのに、態度が全く変わらないというのは少し思うところがあった。ありがとうも、お疲れもなかった。別に自惚れたわけじゃないが。それも彼女らしいといえば、確かに彼女らしい。
「少しくらいありがとうとか言ってくれても良かったのになぁ」
「あれを達成できたのは私のおかげ。それに、私は結構あなたの助けになることして来た覚えがある」
「……その通りです」
気まずくなってリリアに次のスープをくれと視線を向けた。だがもうなくなってしまったらしい。リリアは器を洗面台に持って行った。
そこで一度会話が途切れた。静かな空間の中で、リリアが立てるカチャカチャと器同士がぶつかる音だけが響いている。あんな怒涛の体験をした後だと、こんな静かで落ち着いた時間がやけに愛しく思えるから不思議だ。
洗い物をして、綺麗な赤髪を揺らすリリアの背中を俺はぼーっとしながら見ていた。
「コーヒー、いる?」
洗い物を終えたリリアが俺たちにそう声をかけた。
「いる」
「ああ、たのむ」
「ん、わかった」
「あ、砂糖は――」
「多め、でしょ?」
「あ、ああ……」
なんだか見透かされているようで、気恥ずかしくて目をそらした。反してリリアは得意げに小さく微笑んだ。
いや、別に恥ずかしがる理由もないのだが。
とりあえず、「ブラックを飲めないなんて、アレンはまだまだ子供」なんてのたまっているクルにチョップを繰り出しておく。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
「……ありがと」
コトンと音を鳴らしながら、俺の目の前にコーヒーが置かれる。そこから湧き上がるほろ苦い香りは、未だに慣れず思わず少し顔をしかめた。
湯気が立ち上るそれに口をつける。最初に感じたのは砂糖の甘み、そしてそれを追いかけるようにコーヒー本来の苦味が顔を出す。口の中に甘さと苦さが混在して、なんだか気持ちが悪かった。それなのに飲むのは、どこかコーヒーに憧れがあるからなのかもしれない。いつかリリアのように飲めるようになりたい、なんてそんなことを考えたりもして。
リリアとクルを見れば、どちらもコーヒーに口をつけ、一口飲んで「ほぅ……」と息を吐いていた。
もう一度自分のコーヒーを一口飲んで、少し思考の海に沈む。
「自分は何者か……か」
なんとなく、そんな言葉が口からこぼれた。
俺は自分が何者なのか、ずっと考えて来た。悪魔と人間のハーフなんて、普通ならありえない、矛盾した存在。どっちつかずだった俺は、自分はこうだと胸を張って言えなかった。
だからこそ不安で、全ての元凶だなんて勝手に考えて、悪魔を憎んだ。自分は人間だと他ならない自分自身に言い聞かせて、周りにもそう主張して。
思えば、俺は自分に言い聞かせておきながら、やはり自信がなかったのだろう。
種族に、肩書きに、そして役割に縛られ、極端な考えしか持てなかった。
「……そういえば、私もそれ、あなたに問いかけたわね」
声をした方を見れば、リリアがこちらを見つめていた。その目は優しく、遠くを見つめるようだった。
「ああ、確か、初対面の時だったか」
「あの時、アレン自分が人間だ、なんてわめき散らしてた」
「喚き散らすってクル……言い方」
「間違ってない」
「まあそうだけどさ……それで、リリアが俺に怒鳴ったんだよな」
「そう……だったわね」
リリアは気まずそうに目をそらし、コーヒーを一口飲んだ。
その苦虫を噛み潰したような表情は、コーヒーの苦味からではあるまい。彼女の中では、あまりいい思い出ではないらしい。まあそれは俺にとってもそうだが。
「でも、アレンは本当に人間になった」
クルがそう言うと、シンと空気が静かになった。
そうだ。俺は念願の人間になった。でも、不思議なことにそれほど嬉しくもない。
代償として障害が残ったからとか、そういうわけじゃない。悪魔でいたほうがよかった、なんてことでもない。それ以前の問題だ。
それほど、興味がなくなっていたのだ。
「なら……その質問の答えも、今は変わってくるのかしらね」
「その質問?」
「『自分は〜』ってやつよ」
「ああ……まあ、そうだな」
確かに、変わっている。でももし人間にならなくても、答えは今と同じだっただろう。
今の俺にとって、俺が悪魔だろうが人間だろうが半魔だろうが、その答えはただ一つなのだ。
「ねえ、あなたは、何者?」
リリアはその問いを俺にぶつけた。まっすぐと俺の目を見て。クルも俺をじっと見ている。その表情は真剣で、そんなに真剣になるようなことでもないだろうにと、少し笑みがこぼれそうになる。
答えはすでに決まっていた。
俺が何者かなんて、俺が一番知っているのだ。
きっと、ずっとこの答えは変わることはない。変えることはない。変わるなんて、ありえない。
もう、迷うことなんてないだろう。
胸を張って答えることができる。
俺はその答えを噛みしめるように、ゆっくりと口を開いた。
「俺は――」
これにて簡潔でございます
ここまで読んでくれた方々、ありがとうございました
また私の作品に目を通すことがありましたら、その時はよろしくお願いします
おまけで設定集というか、ちょっとした裏設定含む人物紹介的なものも投稿しておきます
興味がありましたらそちらも是非ご覧になってください
最後にみなさんありがとうございました




