38話 決着と選択
俺の周りを回転していた光がその回転を縮め始める。もはや壁とも思える光のそれは俺にどんどん近づき、俺の右目の下に吸い込まれていった。
右目の下が焼けるように熱い。今ちょうどそこに大量の魔力が流れ込み、悪魔の印が刻まれていっているところだ。一度経験したとは言え、まるで異物が体の中に流れ込んでくるような違和感は気持ちが悪い。
「ゴフッ」
強く咳き込み、口から真紅の液体が吐き出される。体が軋んでいて、感覚も薄くなり今にも破裂してしまいそうだ。腕にあみだくじの様な奇妙な直線が浮かび、赤色に怪しく光っている。
こうなることはだいたいわかっていた。ただ一度の契約だけでも、もともと魔力をそれほど持っていない人間の体に膨大な魔力を流し込むから、かなりの負担なのだ。そして俺はそれを二度行おうとしている。半分悪魔だからある程度の耐性はあるだろうし、クルから貰った薬の効果もあるが、苦痛を伴うことは容易に想像できた。
そしてついに宙に漂っていた光が全て消えた。半身の悪魔の甲殻がその役目を終え体から剥がれ地面に落ちる。体の感覚が戻り、体を打つ雨を感じた。幾何学的な模様は全身に浮かび上がっていた。
「はぁ……はぁ……」
未だ残る苦痛に耐え、荒い息が漏れる。どうやら成功はした様だ。だが俺の体では器として不十分だったのか、腕に浮かんだ線や右目下の印から余った魔力が煙となって漏れ出ている。
「……っ」
アグネスはそんな俺を見て、佇まいをただした。その端正な顔は緊張に歪み、厳しい目つきをまっすぐ俺に向けている。右手には鉄の直剣、左手には奇跡の剣を携えて。
体に力が溢れているのを感じた。魔力が体の中で暴れまわっている様な、今にも爆発してしまいそうな。それは力があると言う意味では良いことだが、このままでは害になるとほぼ確信できた。
「くっ……」
右手を横に伸ばし、その手のひらに魔力を抽出させる。いつか見た様な、黒いモヤモヤが生まれた。体の魔力を使わないと、どうにかなってしまいそうだったからだ。実際、体外に出しただけでかなり楽になった。
その黒いモヤモヤを地面に落とす。そしてそれは悪魔の甲殻にしみ込んでいき、その甲殻自体が黒く変色しドロドロとした液体となる。そしてそれは幾つにも別れ、人型を形作る。
その液体が流れ落ち、そこにいたのは十匹の魔物だった。小さな体に、緑がかった茶色の皮膚。醜悪な顔を歪めながら、ギィギィとガラスを爪で引っ掻いたような鳴き声を漏らす。
「……グールか」
アグネスは小さく漏らした。十匹のグールはその声を捉え、不快な鳴き声を上げながら一目散に駆け出した。
グールというのは最弱に近いくらいに弱い魔物だ。だが一番厄介な魔物でもある。
『グールから傷を負ってはいけない』
それが常識だった。だからどんな実力者だろうと、グールと戦う時は細心の注意を払う。アグネスもその例には漏れない。
だがグールは所詮最弱だ。アグネスは一斉に襲いかかるグールを一匹一匹確実に処理していく。その醜い体を剣が切り裂き、真っ黒な血が飛んだ。
そして十匹目を殺した瞬間、その意識の隙間を縫う様にアグネスに襲いかかる。
離れたところから跳躍し、右手を変異。ビキビキと音を立て甲殻が多い、バケモノの右手へと変貌した。だがいつもと少し違い、かなり大きめにして。
ほぼ真上から襲いかかる俺に、アグネスはギリギリで気づきバックステップをした。数瞬後、さっきまでアグネスが立っていた部分を悪魔の右手が打ち砕く。
「シッ!」
短く息を吐き、アグネスは鉄の剣を振るった。だが俺はそれを当たり前の様に狙われた部分だけ変異させ防ぐ。剣が弾かれほんの少しだけ仰け反ったところにノーモーション、ゼロ距離で魔法を打ち込んだ。
バチバチと音を立てながら生成された雷のナイフがアグネスを襲う。
彼はそのまま後ろに倒れこむ様にしながら左手の奇跡の剣を振り上げそれを防ぐ。そのまま回転しその勢いのまま奇跡の剣が俺に迫った。
アグネスの顔に笑みが浮かぶ。勝利を確信した笑みだった。
だが――
――今なら、負ける気がしない。
奇跡の剣が迫る部分の線から、大量の魔力を放出する。赤色に霧の様なものがその部分を覆い、奇跡の剣と衝突しバチッ! と弾かれる様な衝撃が生まれ俺たちはともに大きくノックバックする。
「なっ……!!」
アグネスから驚愕の声が上がる。
結局奇跡の能力は、魔力の無効化じゃない。極端に魔力耐性が高いだけだ。だから俺はその耐性をも上回る膨大な魔力を放出した。
そのまま俺たちは吹き飛ばされ、アグネスは剣を地面に突き立て、俺は変異した右手を地面に押し付けて勢いを殺す。
「本当にっ……無茶苦茶だなっ……」
「自分でもそう思うさ」
アグネスの顔に苦悶の表情が浮かんだ。
彼は自分の奇跡に絶対の自信を持っていたはずだし、事実かなり強かった。だが、それを覆すほどに二度の契約というのは無茶苦茶だったのだ。
「でも、俺は負けられない……天使様のためにも!!!」
大きくそう宣言し、手を前に突き出す。
その瞬間、もはや壁といった方がいいくらいの密度で大量の奇跡の剣が現れた。それらは宙に浮きながら切っ先は一つ残らず俺に向けられ、アグネスの目からは血の涙が流れる。
確信した。彼は、これで決めるつもりだと。
「ああ、そうか。奇遇だな」
――なら、俺もそれに迎え撃つだけだ。
「俺も負けられないんだ。リリアのためにも」
俺も魔法を発動させる。アグネスの奇跡の剣の様に、大量の炎の剣が次々と現れた。その切っ先を全てやはりアグネスに向ける。
合図なんて何もなかった。でもなぜか、俺たちは同時に飛び出した。
宙に浮かんでいたそれぞれの剣が、相手に向かって発射される。そしてそれを防ぐために俺たちは剣を発射させる。
剣同士が衝突し、魔法と奇跡の反発による爆音と光が湧き上がった。
「ハァァアアア!!」
「ゼァアアアア!!」
技術なんて関係ない。ただ俺たちは互いの剣を力任せに振り下ろす。奇跡の剣と炎の剣が交わり、バチチチチチ!! と普通の剣同士ではありえない音がなり、眩い光が俺たちを包んだ。
それだけじゃない。未だに俺たちの周りでは飛んできた奇跡の剣と炎の剣がぶつかり、そこら中で光と音が鳴り止まない。
それはまるで花火の様で、今こんな状況でなければ綺麗とすら思えそうだ。
「っ!!」
「くっ……」
俺たちは鍔迫り合いのまま動きが止まってしまう。それは互いの力が拮抗している証拠であり、少しでも力を抜けば自分はやられるという証明だった。
いや、拮抗しているというのは違う。
――負けてるっ……
力ではこちらの方が負けていた。魔法が奇跡にだんだんと打ち消され、炎の勢いが弱くなってきていた。アグネスもそれに気がついたのか、いやらしく口角を上げる。
だが、俺もこのままやられるわけにもいかなかった。
「まだまだぁ!」
魔力を大量に注入する。途端に炎の勢いは先ほどの何倍にも膨れ上がり、俺の顔もチリチリと軽い火傷を負った。それを見てアグネスもたじろぐ。だが負けてはいない。彼も力をさらに増してきた。そして俺もそれに対抗する様に魔力をさらに注入する。
もはや単なる力比べになっていた。俺の魔力は膨大といっても無限ではないし、奇跡だって永久に使えるわけじゃない。
手に持っている剣に注ぐ力はどんどん増し、宙を飛び交う剣たちの数を少なくすることなんてありえない。
力は拮抗している。だからもうどちらが先に力つきるか、ただそれだけになっていた。
だがついに、そのバランスも崩れ去る。
「――あ」
それは突然だった。俺の持つ炎の剣が消えたのだ。それだけじゃない。宙に浮いていた、アグネスの剣を防いでいたものまで全て消えた。
――魔力切れっ……!!
この現象は、悲しいかなその現実をありありと表していた。
その強力な魔法を維持するだけの魔力がなくなった。ゼロではないがかなり少ない。結局俺がアグネスに届かなかった、ただそれだけだった。
勝ちを悟ったアグネスの顔が歓喜に歪む。死をまとったそれはどんな悪魔よりも醜悪に見えた。
「死ねぇ!」
奇跡の剣が振り下ろされる。俺に防ぐ術は――ない。
「があっ!」
反射的にその軌道上に右手を挟み込む。俺は奇跡の剣を掴んで止めた。だが完全に止めれたわけじゃない。奇跡の剣はだんだんと俺の腕に沈み始めていた。
そのまま俺は手を沈めていく。俺の手は剣の刃を通り、柄を突き抜け、アグネスの手を掴む。
「ぐ……が……」
熱い。
剣に触れている場所が燃える様に熱い。怪我こそないが、俺が感じる痛みはそれこそ気を失いそうなほどだった。
だが俺はなんとか耐える。もう片方の手をギリギリと痛むほどに強く握り、歯をくいしばる。
アグネスは俺の手を解こうともがく。だが離れない。離さない。離すわけがない。
――このまま、タダでやられてたまるか。ここでやられたら、リリアを助けられないっ!
それだけが頭で木霊する。ほとんど気力だけで耐えている状態だった。
「君は……しぶといなぁ!」
焦りからか怒りからか、アグネスはそう叫んだ。宙に浮いていた奇跡の剣の切っ先が俺を向く。
背筋に嫌な汗が伝った。
「さっさと、死ねよ!」
そんな叫びを合図として、全て俺に向かって飛んできた。
そして一本も外れることなく、それは俺の体に突き刺さる。
「ガァァアアア!!!」
喉が潰れそうなくらいの叫び。もはや人間のそれじゃない。痛みに耐えるため、意識を保つため、正気でいるためにただただ叫ぶ。
傷はないから出血もない。そこは有り難かった。出血死なんてなく、ただ俺が耐えればいい。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
少しして、剣の雨が止まった。絶え間なく全身を締め付けていた痛みも、少し収まった。苦しいことに変わりはないが。
一体どうしたというのか。もう彼の体が限界なのだろうか。
不思議に思い彼に視線を向ける。
「は、はは……なんて顔、してるんだよ……英雄さん……」
思わず笑みがこぼれた。彼の顔に浮かぶその表情が、あまりにもアグネスらしくなくて。
その目に浮かぶのは恐怖、そして困惑。理解不能なものを見る様な視線を俺に向け、ガタガタと口を震わせている。
まるで幽霊に怯える子供の様だった。
「なんで……なんでだ……なんで! そこまでできる! さっさと死ねば楽になれるのに!!」
アグネスは形振り構わず喚き散らす。その姿はやはりどこか子供の様で、いつも余裕そうな笑みを浮かべていた彼とは似ても似つかない。
――ああ、そうか。
こいつは子供なんだ。アグネスは天使に縋りながらここまできてしまった。信仰といえば聞こえはいい。だがアグネスは全てを「天使のために」と言って、ろくに考えもせずきてしまっていた。
だから、天使とか悪魔とか人間とかでしか、物事を考えられない。
――だけど、わからなくもない。
俺だって少し前までは一緒だった。種族でしかものを考えられなかった。
だけど、大事なのは自分がどうしたいか。それを初めて教えてくれたのはクルだった。初めて俺自身を見てくれたのはリリアだった。
――だから。
「リリアを……守りたいからだ……!!」
それが俺の全てだった。
俺を助けてくれた、俺に手を差し伸べてくれたリリアを助ける。それが俺、アレンのやりたいこと。
ただそれだけだ。
左拳を強く握った。
そこを変異させようと、意識を集中させる。
魔力が足りないのか、変異しては剥がれ、変異しては剥がれの繰り返しだ。でも諦めずに続け、なんとか拳だけは変異させることができた。
「だから――さっさとやられろ! アグネス!!」
俺は思い切り左手でアグネスを殴る。
もうそんな気力もないのか、精神的に余裕がないのか、受け止めることも躱すこともなかった。
変異によって人間よりかなり強い力を持つ拳に殴られ、アグネスは数メートル吹き飛んだ。そして、そのまま動かなくなる。
「…………終わった、のか」
そんな言葉が口からこぼれた。
俺は勝った。アグネスを倒した。
頭ではそう理解できても、なぜか達成感の様なものは少なく、どこか他人事の様に感じる。
「ああ……そうか、俺は……俺はっ……!!」
だがだんだんと喜びが湧き上がってくる。目の奥が熱い。鼻もツンとする。
今にも泣いてしまいそうだった。
「リリアを……助けないと」
リリアの元に向かった。
まだ体は痛い。傷こそないが身体中がズキズキと痛み、足を引きずりながら前に進んだ。
何度も転びそうになりながらもなんとか高台にたどり着き、引きずる様にしてそこに登る。
そしてそこには、縛られ跪くリリアがいた。
「リリア……」
「…………」
彼女はじっとこちらを見つめていた。戦っている間もずっと見ていたのだろう。赤い綺麗な瞳をウルウルと潤わせながら、じっと俺を見つめる。
湧き上がる今にも抱きしめてやりたい気持ちをなんとか抑えながら、リリアの手を結び付けられている棒から離してやる。
「リリ――うわっ!」
その瞬間、リリアは俺に抱きついてきた。俺が痛みを感じるくらいに、強く、強く抱きしめてくる。まるでその存在を確かめるかの様に。
少し遅れながらも、それに答える様に背中に手を回した。
彼女は震えていた。よく聞いてみると、彼女の小さな嗚咽も聞こえた。
「ごめんなさい……アレン、ごめんなさい」
ごめんなさい、ごめんなさいとリリアは繰り返す。何度も、何度も壊れたおもちゃの様に。
「いいって。俺がそうしたかったんだから」
俺はそう言って彼女の頭を撫でてやった。綺麗な赤髪は少し乱れてしまっていた。
すると、さらに震えは大きくなり、嗚咽もまた大きくなった。
リリアは泣いていた。肩を震わせ、その感情に身を任せて。
俺はそれを受け止める様に彼女を撫で続けた。
「リリア……俺は――がっ!」
「え?」
突然俺の腹あたりに違和感が湧き上がる。リリアを抱きしめたまま視線を下げると、彼女の背中から輝く剣が突き出ていた。
――奇跡の剣!?
リリアは何もおかしな様子はないし、それで正解なのだろう。
だが不可解だった。
俺も痛みは感じていないのだ。奇跡の剣もすぐに消えてしまった。
だがなんだ。
なんだこの違和感は。
「ぐっ!」
突如、頭が割れるほどの頭痛と目眩が俺を襲った。
なんだ今のは。何が起こっている。
「アレン!? どうしたの!?」
リリアは俺の腕から抜け出し、正面から俺を見据える。
だが俺はそれどころじゃなかった。わけのわからない違和感を感じたまま、体の力が抜け始め、そのままついに倒れてしまう。
「アレン!?」
俺の体をリリアがそのまま受け止める。この体勢では辛いと思ったのか、彼女は座り、膝に俺を寝かせた。
「こ、れは……いっ、たい……」
もはや声すらまともに出ない。だんだんと体の力が抜けていく。
「まさか……アグネスッ!!」
リリアが彼を睨みつけた。俺もつられてそちらを見る。
「クク、ククク……」
アグネスは笑っていた。いつもの様な余裕の笑みじゃない。狂ったように気味が悪いくらいに口角を釣り上げている。
「アグネス!! あなた、何をしたの!!」
「な、に……なんてことはないさ……ただ、人間にしてあげた、だけだよ」
人間にする。それは二週間前、彼が言っていたことだ。俺の中の悪魔を殺し、人間にする。
二週間前はそれで問題はないと彼は言っていた。
そう、二週間前は。
「でも今君は、悪魔と契約していたね。なら、これで、君は死ぬはず、だ」
「アグネス……ッ!!」
リリアは憎らしげにアグネスを睨みつけた。
だがアグネスは倒れたまま、笑い出す。狂った様に笑っていた。
「ぐっ……」
「アレン!? アレン! しっかりして! っ……!! 印が……!!」
右目の下がひどく冷たい。リリアの様子を見るに、もうそれは青色に染まり始めているのだろう。
悪魔と契約したものは、片方が死ねばもう片方も死ぬ。それが普通だ。
だからもうすぐ俺は死ぬのだろう。
ハッとして、リリアは自分の横を見た。そこにはまだ俺が通ってきた門が開いたままだ。
「ここから戻れば……でも……!!」
ここから急いで戻って封魔の魔術をかければ俺は助かるかもしれない。
だが彼女の視線は次はアグネスに向いた。
今はアグネスを殺す絶好のチャンスだ。彼はリリアにとっての両親の仇であり、長年追い求めてきてようやく今絶好の機会に巡り会えている。でもアグネスを殺していたら、俺を助けることはできない。
俺の薄れゆく視界の中で、彼女は迷っている様だった。涙目になりながら、門とアグネスのを忙しなく行き交っている。
「私は……私は……!!」
彼女の顔が悲痛に歪んだ。
リリア、そんな顔をしないでくれ。
俺はリリアの笑っている顔が、一番好きなんだ。そんな苦しそうな顔、見たくない。
俺は彼女の頬に手を添えた。
彼女と目が合い、その赤い瞳から涙がこぼれ落ちて俺の手に当たる。
「私は――」
そこで俺の意識は途切れた。




