37話 戦闘と契約
――間に合った。
思わず安堵の息が漏れる。
本当に間一髪だった。あと数瞬遅かったら全て手遅れだったかもしれない。それくらいにギリギリだった。
でも間に合った。俯いたまま肩を震わせるリリアの頭を撫でる。サラサラだった綺麗な赤髪は、ひどい扱いを受けたのかガサガサで傷ついていた。幾ばくか痩せたようにもみえる。
ごめんと言いたかった。でも、それは今じゃない。
とりあえずの危機は脱した。その喜びから体が震えそうになる。
でもそんな余裕もないのだ。
相変わらずの余裕の笑みを浮かべながら佇む男に目を向けた。俺と視線があって、さらにその笑みを深める。
今すぐにでもリリアを解放して逃げ出したかった。でもきっとそれは不可能だ。そんなそぶりを見せた途端に彼は切りかかって来る。
まだ、危機は目の前にいる。
「……君に助けに来るような度胸なんてないと思ってたんだけどね。あの時君は完全に俺に対して恐怖していた。それとも、俺の提案を受けに来たのかな?」
「提案? バカなこと言うな。受けるわけないだろ」
「ふむ……こちらは結構本気だったんだけどね……」
そういってこちらに向くその赤目には、もう俺は映っていなかった。その眼に映るのは、単なる殲滅対象である俺。
おそらくそれは本当だろう。俺が助けを求めれば、彼らは嬉々としてそれを受け入れた。そして俺は人間としての生活を手に入れた。
でも、そんなの俺は望んでいない。
一時期はそれを受け入れかけた。でも、もう迷わない。
「じゃあ、最後のチャンスだ。選ばせてあげる」
「は?」
彼はやけに芝居じみた動きでこちらに手を差し出した。こちらに来いとでも言うかのように。
「選べ。人間を取るか、悪魔を取るか。君は、何者だ? 悪魔か? 人間か? 答えてくれ」
アグネスは腰の剣を引き抜いた。シャリンと擦れて高い音が鳴る。
俺は小さく笑みを浮かべた。剣を抜いたと言うことは、もう俺のことを敵として扱っているのに、何を聞く必要があるのか。
だが、問われたのなら、答えるべきだろう。
もう一度リリアの頭に手を乗せた。彼女の温もりが手を伝ってくるようだ。俺はその温もりを噛みしめる。
「俺は、アレンだ。アレンとして、アレンのやりたいことをする。だから――お前を殺して、リリアを救う」
俺が言い終わると同時に、火の玉をいくつも作り出した。俺の周りを円を描くように浮くそれを、計八つ生成する。
そしてそれを――
「死ね」
アグネスに向かって全て発射させた。
人の頭程度の大きさのそれは、全て例外なくアグネスに向かって飛んでいく。
あれは一つでも当たれば地面が大きく削れるほどの威力を持つ。一つでも直撃すれば、もちろん致命傷だ。
だが、アグネスの余裕の笑みは崩れない。
左手に奇跡の剣を作り出す。もう少しで最初の一つが直撃する。そんな時に、彼が動いた。
「ふっ!」
そんな掛け声とともにアグネスは火の玉を撃ち落とした。否、斬った。
その火の玉は奇跡の対魔力の能力によって消滅する。しかもそれが連続で。全ての魔法を防ぎ斬った後には、火花と魔法の残りカスが宙を舞っていた。
さすがだと思う。上下左右、さらに奥行きまでも剣が自由自在に動き回り、だというのにアグネス自身はほぼ動いていない。しなやかに舞っている姿は、まるで蝶のようだ。
俺だってこんなのでやれるなんて微塵も考えていない。アグネスのほうも、まさかこれで終わりじゃないだろう? とでも言いたげにこちらを見据える。
俺は右手を何か棒のようなものをつかむような形で握った。そして、そこに鉄の剣を作り上げる。パキパキと何もないところから鉄が生まれ、剣の形へと変形していく。
そして、それと同じものを数本自分の周りにも作り上げた。ふわふわと宙に浮かんだそれらは、切っ先をアグネスに向けられる。
普通の聖教者なら尻込みくらいしそうな状況でも、アグネスに動揺は見れない。
「――リリア」
最後に、俺の隣で跪くリリアに目を向けた。
今にも泣きそうな、不安そうな表情で俺を見つめている。何が言いたいのか、簡単にわかってしまう。でも彼女は口にしない。それが彼女の優しさだった。
大丈夫。
そう伝えるかのように彼女の頭をもう一度優しく撫でた。潤んだ赤い瞳がさらに揺れる。
「――行くぞ」
そう言うや否や、剣を発射し俺は走り出した。地面近くを滑空するように体勢を低くし、距離を詰める。
俺とアグネスの距離が半分になったあたりで飛んでいった数本の剣がアグネスにたどり着く。アグネスはそれを鉄の剣で難なく防いだ。
「しっ!」
短く息を吐き、体をひねり、剣を全力で右下からアグネスに叩きつける。それを彼は難なく防ぎ、剣同士がぶつかって甲高い金属音が響いた。そのまま止めることなく、彼の首めがけて一閃。だがやはりそれも弾いた。
俺も止まらない。息つく間もなく連撃を浴びさせる。
アグネスに攻撃させるな。常に自分のターンにしろ。
そう自分に言い聞かせながら剣を振るう。
だがさすがはアグネス。少しでも俺に隙ができると、その隙間を縫うように剣戟を浴びせてくる。俺はそれをなんとか躱す。
アグネスは少し強めに俺の剣を弾いた。俺の体勢が崩れ、隙が生まれる。アグネスの笑みが深まった。それをみて、背筋に悪寒が走る。
「――っ!!」
アグネスは目にも留まらぬ速さでいくつもの突きを繰り出した。俺はそれをほぼ反射で躱し、剣で受け流す。それでもいくらかは防ぎきれず、紅の筋が一本、二本と肌に走った。
「こっ……の!」
焦りが生まれた。左手を変異させ、手のひらに火の玉を生み出した。それを突き出し、ゼロ距離で爆破させる。
ドガアッ! という轟音と振動が大気を揺らす。
そして、白煙が視界を覆った。どうなったのか、よく見えない。
――いや、やれてるはずがない。
それは確信に近いものだ。あいつがこの程度で死ぬわけがない。
と、その時だった。白煙の向こう側から、突き破るようにしてアグネスが現れる。上からの振り下ろしが白煙を切り裂き、俺に迫る。俺はそれを紙一重で横に躱し、強く踏み込んで、全力で鋭い突きを放つ。
――いけるっ!
アグネスの剣は今振り切ったところにある。だからそれで防がれることはない。
遮るものなど何もなく、俺の突きはまっすぐと彼の心臓へと向かった。
「なっ!」
だが、それが届くことはなかった。
アグネスが俺の剣の腹を左手で殴り、起動が大きく左にずれる。だがまだ彼の体から外れたわけじゃない。それをアグネスは体を少し横にずらし回避した。
そしてピンチになったのは俺だ。これでいけると思い全力で突きを繰り出したせいで俺の体勢は崩れ、前のめりになってしまっている。そしてそのまますれ違いになるように俺のアグネスの体が交差し、その瞬間に目に入ったのは、まっすぐこちらに向かってくるアグネスの剣の切り上げ。
――避けられない!
舐めるような悪寒が全身を包んだ。すぐそこまで迫った死が俺を見上げている。だが――
――ここで終わるわけないだろ!
そう思った数瞬後、ギャリギャリギャリ! と岩と金属をこするような音が鳴った。そしてついにアグネスの余裕の笑みが崩れ、代わりに驚愕を貼り付ける。そのまま彼は後ろに飛び退いた。俺も体勢を立て直すために追うことなくその場にとどまる。
俺とアグネスは、八メートルほど離れたところでにらみ合った。
「いや、驚いたよ。うん、純粋に感心した。まさか――そこだけ変異させるだなんて」
アグネスは余裕とは違う、純粋な興味からくる笑みを浮かべた。その視線の先にあるのは、アグネスの剣が切り裂くはずだった俺の首元。
そこに人間のそれはない。そこにあったのは、悪魔のそれだ。
俺は剣が切り裂くであろう場所だけ変異させたのだ。悪魔の甲殻は金属の剣なんて通すはずもないくらいに硬い。だからアグネスの攻撃を防ぐことができていた。
なら全身変異でいいじゃないか、なんて最初は思ったが、やはりそれだとダメなのだ。
全身変異すると、体の魔力濃度が極端に上がる。それだと奇跡の剣の攻撃をモロに受けることになる。
奇跡の剣自体が魔力を断つものだ。人間の状態なら、魔力濃度は常人より多くとも、奇跡の剣によって痛みを感じるほどじゃない。
だからこそ、首元だけ一時的に変異させるのだ。
「なかなか感覚的には難しいけどな。だからこそ、危険な時にしか使わないんだよ」
剣を防ぐという役目を終えた悪魔の甲殻は剥がれて地面に落ちた。
一部分だけ、しかもかなり小さな部分だけ変異するというのが、思いの外難しい。今まで変異自体そんなに自由自在でもなかったのだ。できることになったとはいえ、イメージ的にはまだ簡単なことではない。
「君には驚かされる。急にそれができるようになったのもそうだけど、変異もせずに魔法を使えるようになっている。それに剣の腕もおそらくかなり上がった。――悪魔と契約したことが関係しているのかな?」
「…………」
俺は何も言わなかった。わざわざ敵に答えを教える必要もあるまい。アグネスも俺が答えるとは思っていなかったのか、特に気にしている様子もなかった。
それに、アグネスの言ったことは事実正解だった。
右目の下にある、真紅の悪魔の印からわかるとおり、俺は悪魔と契約した。印の棘はきっちり三本。
願いは『力が欲しい』、なんてそんな単純なこと。
俺はそれによってアグネスの言う通り、魔法と剣の腕を手に入れた。
「まったく、相変わらず悪魔の契約はめちゃくちゃだ。摂理とか、真理とか、全部無視して願いを叶えてしまう」
「それについては同感だ」
俺はニヒルに笑ってみせる。
事実、能力ならともかく剣の腕なんていう技術でさえ手に入れてしまった。感覚としては初めて魔法を使った時と似ている。本能がどう動けばいいか知っているような、そんな感覚。
「でもね、それでもまだ、君は勝てないよ」
彼は奇跡の剣を地面に突き立てた。そして――
「……え?」
俺の近くの地面から三本の光が飛び出し、俺の体を貫いた。
「がっ!」
一瞬遅れて、体に激痛が走る。またあの痛みだ。怪我のそれではなく、どこか虚無感を伴う不思議な痛み。
俺は歯を思い切り食いしばり、爪が食い込むほど拳を強く握る。
「忘れちゃいけない。契約したのだから君はもう魔物だ。だから奇跡の攻撃も食らってしまう。悪魔ほどではないとはいえ、ね」
アグネスの言うことは事実だった。確かに痛みはあの時と比べれば大したことはない。
我慢できる。
我慢できると踏んだからこそ、俺は契約したんだ。
でも。
だけど。
やはり――届かない。
まだ一段階、足りない。
「さあ、来なよ。まだ、終わりじゃないんだろ?」
「くっ……」
思わず歯噛みをする。
アグネス自身もその差をきちんと理解している。だからこそのあの余裕。
このままじゃ勝てない。リリアを助けることができない。
だから――俺は覚悟を決めた。
「ああ、そうだな。まだ、終わりじゃない」
クルから貰った瓶を取り出し、中身を飲み干す。薬特有のあの嫌な味が口いっぱいに広がった。
半身を変異させる。一部じゃない。半身全部をだ。
パキパキとお馴染みの音を立てながら体を覆い、大きな翼が生える。
まだ一段階足りないんだ。
だったら、もう一段階上げればいい。
「……《我、魔より生まれし、魔を操りし者》」
そう唱えた瞬間、ブワッ! とあたりに何かが発生した。赤色に光る何かは空中に浮き、あたりを埋め尽くし始める。
「っ!! まさかっ!」
あのアグネスの顔が焦りに歪んだ。手に持っていた奇跡の剣を弓の形に変え、それを俺に向かって放つ。
奇跡の矢が俺に迫っているのに、俺の心中はやけに落ち着いていた。それが俺に届かないことを知っているから。
普通の矢の何倍もの速さでそれは突き進み――俺の少し前で消滅した。
「くそっ……やっぱりか」
だが彼は落胆こそすれど、こうなることはわかっていたようだった。長年悪魔と戦ってきている彼だ。それに、少年時代は魔女の母の住んでいたと聞く。耳に入れたことくらいはあったのだろう。
この通り、契約中は一切干渉されることはない。例えそれが奇跡だろうが、天使だろうが。
「《悪魔の盟約に則り、汝の願いを叶えん》」
宙に浮いた赤い光が俺を中心に回転し始めた。それはどんどん加速し、まるで竜巻のようになる。
「そうか……君は自分に契約を……」
納得がいったようにアグネスは呟く。俺に答え合わせを求めているようではなかった。どちらかと言えば、思わず漏れてしまったような。
そして、それは事実だった。
自分に魔法をかけ、自分と契約し、自分の願いを叶える。そんな矛盾に満ちた行為。
でも悪魔と人間のハーフという矛盾した存在の俺だからこそ、実際に実行することができる。
あとは、願いを言うだけだ。
そして、俺の願いはもう決まっている
「力をよこせ! 悪魔!」




