36話 処刑と救出
「……そう」
クルはふわりと、柔らかい笑みを浮かべた。いつもみたいに小さな笑みだが、そこには確かに彼女の気持ちが込められていて。
これで正解だったのだろう。別にこれは自分の本心だし彼女に合わせたわけじゃないが、それでもよかったと思えた。
「ありがとうな、クル」
「大したことしてない。バカを矯正しただけ」
「こいつ……」
「本当にありがたく思ってるなら、プレゼントの一つでも持ってきて」
「お前なぁ……」
礼を言ったのにこの返しである。もちろん本気で言っているわけじゃないということはわかっている。
結構大事で真剣な話をしたというのに、彼女は全く変わっていたなかった。飄々として、俺たちをからかって。
それがなんだか安心して、小さく笑ってしまう。
そこでふと、あることを思い出した。
「そういえばクル、さっき俺を大切な人って言ってたけど……」
「…………」
「それって――がはっ!!」
腹あたりに重い衝撃。目にも止まらない速さでクルの拳が繰り出されていた。
思いの外その威力は強く、ゲホゲホと数回咳き込んだ。
「お、い……クル……なにするんだよ……」
「……違う」
「違うってなにが」
「……バカみたいなこと言うアレンが悪い」
「理不尽だ……」
あっけからんとした表情をしているクルを恨めしげに睨みつけた。そんな視線を向けられても、やはりクルの表情は変わらない。
「どうせお花畑なこと考えてたに決まってる。アレンだから、そうに決まってる」
「ひどい偏見だなおい……」
まあ、否定はしないが。でもしょうがないとは思う。こっちだって男なんだ。ややこしいことを言うクルにも少し原因はあると思うが、わざわざ口にすることもないだろう。
「……こんなバカみたいなこと話してる場合じゃない」
「お前が始めた気がするんだけど」
「うるさい。わすれてない? なにも問題は解決してない。アレンがアグネスより弱いのは変わってない」
「うぐっ……」
図星を突かれ、言葉に詰まった。
確かに決意こそしたが、俺の実力はなにも変わっていないのだ。俺がアグネスより弱いことも、理性が食われてまともに魔法を使えないことも、なにも変わっていない。
「なあ、何かないのか?」
「何かって? アグネスに勝てる何かのこと言ってるなら、ない。そんなもの、あったら自分で使ってる」
「だよなぁ……」
特に落ち込みはしなかった。
もちろんクルにそれを求めるのは筋違いだとわかっている。でも、クルならもしかしたらと、変に期待してしまっていた。
どうしたらいいのかと、再び頭を回転させる。
そこに、クルが「でも……」と言葉を挟み込んできた。
「勝てる何かはない。でも、勝てる可能性をあげるものなら、ある」
「なに!?」
もはや、それでも構わなかった。別に確実じゃなくても確率が上がるならそれでいい。何しろ、今の状態じゃほぼゼロなのだ。
クルは、懐から三つの瓶を取り出した。手のひらくらいの大きさのそれのなかで、全て同じ、綺麗な紫色の液体がチャプチャプと揺れている。
見覚えがあった。いつもリリアがクルに渡していたものだ。
「それは?」
「これは封魔の薬」
「封魔……?」
俺はその瓶をマジマジと見つめた。
封魔ということは、これはリリアが作ってくれた眼帯と同じ効果があるということだ。
「と言っても、アレンがしてた眼帯より効果は弱い。でもこれを使えば理性が食われるのは防げる……多分」
「また適当な……」
だがもしそれが本当なら、確かに少しはマシかもしれない。感情のままにじゃなく、きちんと考えて魔法が使えるということだ。それだけで、だいぶマシになる気がする。正直、本当にそうなるのかすらよくわかっていないが。
「でもなんでお前がそんなの持ってるんだ? 何かに使ってるのか?」
「…………これ」
クルは自分の右目――正確にはその下を指差した。そこにあるのは、横たわった三日月に三本の棘が生えたような、どこか閉じられた瞳のようにも見える青い模様。ようするに、魔付きの証である、悪魔の印だった。
「これを、抑えるため」
「ってことはやっぱり……」
「そう。私と契約した悪魔はもう死んでる」
わかっていたことだった。その印が青いということは、悪魔がすでに死んでいるということだ。
だがわからなかったのは、なぜクルが生きているか、ということだ。
その棘が三本ということは、クルと悪魔はかなり強い契約をしたということになる。それこそ、命の共有とも言えるくらいの。
だから悪魔が死んでクルが死んでいないのは、どう考えてもおかしかった。
「私はとある病気にかかってる。発症したら、死より恐ろしいことになる呪いの病。だから私は悪魔と契約した。その発症を抑えるために」
クルは瓶を軽く揺らした。綺麗な液体が揺れる。
いつもと変わらない調子でしゃべっているが、内容が内容だ。俺までいつもどおり、というわけにはいかず、思わず黙り込んでしまう。
「この薬の効力はリリアが作った眼帯よりも弱い。だから、アレンも力が使えなくて倒れこむ、なんてことにはならないと思う」
結局、共死の呪いなんて言ってもそれは魔法の一種だ。封魔の魔術で抑えることができる。だがあの眼帯レベルだと、病気を抑える魔法まで抑えてしまう、ということだろう。
そんなギリギリを攻めた魔術を作るとは。改めてリリアの凄さを実感する。
「だからこれでリリアを助けて。他でもない、あなたが助けてあげて」
そして、クルはそれを俺に手渡そうとした。
それを素直に受け取ろうとして――だがしかし、ふと違和感が浮かび上がった。
彼女はかなりのペースでこの薬をもらいに来ていた。それこそ、二日に一度のペースで。
それはこの薬自体の効力が長くは続かないってことじゃないのか? 今この現在でも、かなりギリギリということじゃないか?
どうしてもそれを否定できず、俺は差し出すクルの手を一度押し戻した。
「だけどクル、お前それを俺に渡したらクルは……」
「…………」
クルはわかりやすく顔をしかめた。珍しい。だがそれはさっき俺が言ったことが事実と認めることと同義だった。
「……そう。もう、それ以外にあまりはない。リリアが新しく作ってくれないと、明後日にはその病気が発症する」
「だったら――」
「だから!」
突如上がった彼女の叫び声に、俺は文字通り体を固まらせた。彼女の声が小さくこだまし、それが消えた頃には時が止まったかのようにあたりはシンと静まり返り、音を出すものは何もない。
――クルが……叫んだ?
信じられなかった。珍しいというレベルじゃない。ありえなかった。
彼女の顔は、俯いていてよう見えない。
だがすぐに彼女が顔を上げた時には、いつもの彼女に戻っていた。
「だから、あなたがリリアを助けて。そうすれば、全てが解決する」
ああそうかと、俺はようやく納得した。
彼女を助けたいと思っているのは、俺だけじゃない。命をかけて救いたいと思っているのは、彼女も同じだった。
俺はゆっくりと、確かに頷いた。クルは満足そうに、小さく笑った。
でもすぐにいつもの無表情な彼女に戻る。
もったいない。いつもそんな風に笑ってればいいのに、なんてそんなことを考えていた。
「それに多分それだけじゃ敵わない。だから……私に、考えがある」
「考え?」
彼女は小さく頷いた。
「でも、これはさっきよりも確実じゃない。もしかしたら、できないかもしれない。それでも……やる?」
そう言ってクルは首を傾けた。まっすぐ俺の目を見るその双眸は真剣で、俺が断るだなんて微塵も思っていないかのようで。
だが、実際その通りだ。俺がそれを断るわけがない。これは単なる事実確認だ。
だから俺は、ゆっくりと頷いた。
「リリアを助けられるならなんでもやる。さあ、その方法を教えてくれ」
◆
ここに入れられてから、どれくらいたっただろうか。ここは教会本部ではないが、確かに教会の地下牢だ。わざわざ見張りが教えてくれるわけもなく、日光をも拝むことができないここでは、時間の程度なんてわかるはずもなかった。
岩を削りそこに鉄格子をはめただけといったような、ただ人を入れる入れ物のような場所だ。ゴツゴツとした岩肌は座り心地の良いものではなく、どうにか良い具合にならないかと何度もお尻をよじらせる。
「はぁ……」
小さく息を吐いた。
私のため息に見張りの聖教者が反応することはない。私に背を向けたまま、もしかしたら寝ているのかと思ってしまうくらいに動きが少ない。
――まあ、眠っててもどうにかできるわけじゃないけど。
自嘲気味に笑い、両手をつなぐ鎖に目を向けた。少し動かせば、ガチャガチャとうるさい金属音な鳴り響く。幸い足は繋がれていないが、だからと言って何かできるわけでもない。
今思い出しても身の毛のよだつ様な持ち物検査をされ、魔源は全てが奪われた。身体強化のような、自分自身を魔源として使える魔術もなくはない。でも、どちらにしろ使えない。その原因こそが、この腕輪と鎖だった。
この腕輪には、奇跡がかけられていて、魔法を使えないのだ。私は魔女だけど悪魔ほど体内の魔力濃度は高くないから、奇跡に触れるだけで痛みを感じる、なんてことはない。でも魔術が使えないだけで、魔女の私はこんなにも不安に感じてしまうだなんて思いもしなかった。
ただただボーっとして、与えられる犬の餌のような食べ物を胃に押し込み、死ぬまでの時間を空虚に過ごす。それが今の私だった。
もう公開処刑になることが決まっているのに、どうして希望なんて持てようか。心残りがないといえば嘘になるが、もはや諦めの境地に達していた。
そのとき、ギギィィイイと金属同士を擦り合わせたような、不快な音が鳴った。それは誰かがこの地下牢に入ってきた合図だ。
――誰? まだご飯には早いはずだけど……。
別に日数は分からなくても、大体の時間はわかる。腹時計というやつかもしれない。
それとも、見張りの交代の時間という可能性もある。
するとその予想が当たったのか見張りをしていた人が立ち上がった。
だが様子がおかしい。普段の交代なら、やはり疲れからか猫背になりながらすぐどこかにいってしまう。それなのに今の彼は背筋をピンと伸ばしてその場でまっすぐ立っている。
だがそれがなぜなのかはすぐにわかった。
彼がきたのだ。
「やあ」
彼――アグネスは、鉄格子の向こう側からこちらに笑いかけた。その笑みの向こうに何を思っているのか知っているせいで、その好青年の笑みですら薄ら寒いものに感じる。
「久しぶり。二週間もほったらかしにして悪かったね」
「本当よ。女性をこんな場所に放置だなんて、男の風上にも置けないわね」
「それなら心配はいらない。ここに人間はいないからね」
あっけからんとそう言い切る彼に、怒りとかそういう感情を通り越して、もはや呆れを感じていた。
これだ。こういう人間なのだ、彼は。彼がこういう人だとわかっているから無駄な感情は抱かずに済んでいる。
「それで? 今更、何の用?」
「何の用か、なんてそんなの一つしかないだろ? 君だってわかっているはずだ」
「――――っ」
公開処刑。
その四文字が確かな存在感を持って頭の中に浮かび上がる。
「みんな私の髪を見ればあなたと兄妹ってわかるでしょう。妹殺しは流石にまずいと思うけど?」
「妹だからこそだよ。たとえ妹でも、それが魔に関わっているのなら殺せる。それをみんなに示せるんだ」
嫌だ。死ぬのは嫌だ。諦めていたというのに、今更のようにそんな感情が湧き上がる。でも私にはどうすることもできなくて、ただただ鉄格子越しに彼を睨みつけることしかできない。
でも彼はそんなこと歯牙にもかけなかった。
見張りをしていた人に「出せ」と命じると、「はっ!」とお手本のような返事をして見張りの人は私の牢を開けた。
「さあ、着いてきて」
それだけ言ってアグネスは歩き出す。
これが最後のチャンスだ。何か方法はないかと見渡すが、見張りをしていた青年がこちらを睨みつけていた。余計なことはするな、ということらしい。
「くっ……」
小さく呻きながら、私はアグネスの背を追った。
外は雨が降っていた。冷たい雫が、遠慮なしに私の肌を打つ。不思議と冷たいとか、不快だとかは感じなかった。そんな余裕はないと言ったほうが適切かもしれない。
連れてこられたのは、教会を出てすぐのところにある広場だった。何かしらの催しをしたり、市民を含めた集会に使うような場所で、なかなかの広さがある。そういうイベントがないと人はそんなに集まらないような場所だが、ガヤガヤと騒がしい。私の目の前には私が殺されるであろう高台があるせいで、群衆がどれだけいるのかはよく分からない。でも数が多いということはよくわかる。
アグネスに連れられ、その高台に登る階段に足をかける。そこはただの高台で処刑器具も何もない。
もしかしてアグネスが直接手を下すのか、なんて自分の死に方を想像しているのに気がついて、ブルリと体を震わせた。
階段を登りきり、私はひざまずかされた。そして私の周りに立っている四人の聖教者が、両手をもともと高台に立ててあった二本の棒にくくりつける。地面はゴツゴツした岩で、雨で濡れているのもあって不快だ。これで完全に身動きが取れなくなった。
そこで初めて広場の全貌が目に入った。
人。人。人。
見渡す限り、人ばかり。ひどい雨だというのに、誰しもがこの催しを見たいがためにここにやってきた。広場に押し込まれたかのようで、想像よりかなり多い人数だった。
そして私とアグネスが彼らの目に入ったところで、大気が揺れんばかりの大歓声が湧き上がった。
――ああ、やっぱりこの世界は狂っている。
改めて、そう実感した。人の死をこれほどの人たちが見物に来る。しかも皆が皆、まだかまだかと待ちきれないというような表情を浮かべている。中には殺せと叫ぶ奴だっていた。彼ら全員は、私に人ではない何かを見るような視線を向けている。
アグネスが手を挙げた。落ち着け、ということらしい。それに呼応するように先ほどまで湧き上がっていた歓声が、幻のように消え去った。
そして彼は何かを語り始める。どうせ私が聞いても鼻で笑いたくなるようなことだろう。今更聴く気にもならなかった。
そしてアグネスのありがたいお話が終わり、こちらに向き直った。そして私の側に立つ。
首元にヒヤリとした無機質な冷たい感触。
ついにやってきてしまった。すぐそこまで迫った死が恐ろしくて、目をきつく瞑る。
「言い残すことはないかい?」
なんの気まぐれか、アグネスはそんなことを呟いた。
「……あるわけ、ないでしょ」
嘘だ。山ほどあった。やり残したことも、伝えたいこともたくさんあった。
アグネスを殺せなかった。
封魔の薬を作れないクルは、今後どうなるのだろうか。
そして何より頭に浮かんだのは、アレンのことだった。
――ちゃんと……逃げきれたのかしら。
あの時、私は彼に魔術を使った。
お守りと言って彼に渡した指輪が魔源の魔術だ。
それは、家を出口に設定したワープの魔術。新しくワープの門を作るから、かなり高度な魔術だった。だから材料は山のようにいるし、呪文はかなり長い。消費する魔力だって、バカみたいに多い。だからこそアレンしか逃がせなかった。
でも後悔はしていない。彼を助けられたのだから、未練なんてない。
「そうか。じゃあ、これで最後だ」
首元の冷たい感触が消えた。今は剣を振り上げているのだろう。アグネスが振り下ろせば、私の人生は終わる。
私はもう未練も何もない。
でも。
それでも。
――やっぱり、死にたくないなぁ。
あの愛しい日々に戻りたい。アレンとクルと、一緒に過ごしたい。笑い合いたい。
でもそれはもう叶わない夢で。
それでも、死にかけた今になっても諦めきれなくて。
「…………ねぇ」
気がつけば震えた声が漏れていた。
「……助けてよ……アレン」
「――ああ、助けてやる」
瞬間、私の周りでガガガガガ!! と地面が削れるような音が鳴り響き、地が揺れる。
それに次いで湧き上がる悲鳴と断末魔。
そして、いっこうに来るはずだった衝撃はやってこない。
私は思わず目を開いた。
「――え……なに、これ……」
私を中心として円形に、まるで開いた花のように鋭いトゲがいくつも生えていた。それは周りにいた四人の聖教者をことごとく貫いている。その傷口から漏れ出す真紅の液体がトゲを伝って流れている。考える必要もない。どこからどう見ても即死だった。そしてそのトゲ達は崩れ落ちた。
だがただ一人、アグネスだけは離れたところで信じられないものを見たかのような表情で固まっている。おそらく一人だけとっさに反応して跳んだのだろう。流石、というべきなのだろうか。
「何、これ……魔術――いえ、魔法?」
何が起こったのかわからない。頭が全く状況についていかない。
群衆も私と同じだった。目を大きく見開きながら、何も言わずにこちらを見つめている。だがすぐに頭は状況を理解し始め――
「う、うわぁぁあああ!!!」
「せ、聖教者様達が……し、死んで……!!」
「逃げろ! 逃げろぉおおお!!」
群衆達は皆逃げ出した。脇目も振らずに我先へと。広場を埋め尽くしていた人間は、二分と経たずに全ていなくなった。
だというのに、私は未だに何が起こったのか理解できていなかった。まるで助けを求めるかのように、アグネスに視線を向ける。
「ああ、そういうことか。君が来るなんて……予想外だったよ」
その顔には笑みが浮かんでいた。楽しそうに口角が上がり、狂気すら感じる。そして、その赤い双眸は私に――いや、私の横に向いていた。
私はその視線を縫うように視線を向けた。体は動かないから、顔だけを動かして。
「え……?」
空間が割れていた。
何もない一メートルくらいの空中に、小さくヒビのような線が引かれている。
ビキッ! という音とともにそれが上下に広がり、二メートルほどの高さにまでなった。そしてその空間のヒビが開いた。
そこに広がったのは、縦に長い楕円形の何か。その楕円は真っ黒で向こう側に何があるのかわからない。ゴォォオオオ!! と音を立てていて、そこに吸い込まれるかのような感覚を感じる。
「これは……」
間違いない。《門》だ。今まで何度も見てきた、ワープの門だった。
「あの時、俺は約束した」
突如、そこから声が聞こえた。
聞き覚えのある声。この場において異様なほどに落ち着いたその低い声は、すんなりと心地よく耳に入ってくる。
「リリアは俺を助けてくれる。だから、俺はリリアを助けるって」
奥が何も見えない門から、何かが出てきた。人型のそれは、ゆっくりと歩いて出てくる。
私は胸が焼けるように熱くなった。自分の目を疑いそうになった。
「リリアは俺を助けてくれた。だから、今度は俺の番だ」
門から出てきた男は、私の頭に手を乗せる。そして、ワシャワシャと撫でた。その手つきが優しくて、その声が懐かしくて、おかしくなってしまいそうだ。
彼は、アレンは来たのだ。その黄色の猫のような右目の下に、真っ赤な悪魔の印を携えて。
「なん、で……なんで……」
喉が震えて、まともに声も出さない。視界がぼやけて、彼の姿すらよく見えない。
「なんで……なんできたのよ!!」
私は叫んだ。喉が張り裂けんばかりに。
頬を雫が伝う。それが雨なのか涙なのか、私にはわからない。
だってそうじゃないか。
私はなんのために彼を逃したんだ。なんのために死の覚悟をしてまでアグネスに捕まったんだ。
自分の決意や行動が全て無駄だったと言われているようで、はらわたが煮えくりかえるような気分だった。
でも、確かにうれしくも感じていた。
危険なのに来てくれた。一度アグネスに殺されかけているのに、来てくれた。
私を助けに来てくれた。
王子様と呼ぶにはあまりにも悪役じみている。でも彼は今の私の目には何よりも英雄のように映っていた。
相反する感情が胸の奥で渦巻いて、私はただ優しそうに私に視線を向ける彼を見つめて言葉を待った。
「……しょうがないじゃないか。俺が助けたいと思ってしまったんだから。何もかもを捨ててまで救いたいと、願ってしまったんだから」
「――っっ!!!!」
私はたまらずに俯いた。
この感情を示す言葉を私は知らない。
感動と呼ぶにはあまりにも深すぎる。
幸福という言葉さえ幼稚に感じる。
私はそんな爆発のような強烈な感情の前になすすべなく、ただただ体を震わせた。
かといってそれが不快というわけでもない。むしろ逆。
いつまでも浸っていたいほどで、これは甘美な果実のように私の心を溶かしていくようだった。




