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32話 復活と別離


「……え?」


 動いた。少しではあるが、確かに動いた。

 その後も辛そうではあるが、モゾモゾと動いている。


 ――まだ……死んでない?


 心の中でほのかな希望が熱を持ち始める。


「リリア……リリア!?」


 俺は痛みも忘れて、必死に呼びかけた。

 叫ぶたびに体のどこかが悲鳴をあげる。体を少し揺するたびに、体が張り切れそうになる。でもそんなこと全く気にならなかった。

閑散とした街の広場では、その声はやけによく響く。アグネスのことだって、今は完全に頭から離れていた。

 リリアが生きているかもしれない。

 その可能性にしがみつくかのように、リリアに呼びかける。


 その呼びかけに答えるかのように、リリアの頭がゆっくりとだが動いた。

 グググ……と辛そうに上を見上げ、俺と目があった。

 思わず息を飲む。確かにリリアだが、普段見ていた彼女とは別人のようだった。

 綺麗な肌にはいくつもの傷が刻まれ、土や血で汚れている。ガラス玉のようだった赤い目だって、光を失って濁っているように見えた。正気はあまり感じられず、いつもよりやつれているように感じる。


「ア…………レ、ン…………?」

「――――ッッッ!!!!」


 生きていた。リリアは死んでいなかった。

 さっきとは違った意味で涙が溢れそうになる。感極まって抱きつきたくなる衝動に駆られたが、体が痛くてそこまではできなかった。


「なんで、あなたが……――ああ、そういうこと……そうなって、しまったのね……」


 意識がはっきりし始めたのか、その瞳に光を取り戻し始める。驚愕から目を見開き、そのあと何かを悔やむかのように目を伏せた。


「よかった……本当に、よかった……てっきり、死んだものかと……」

「そう、ね。私も、そう思ったんだけど」


 リリアはそのままヨロヨロと倒れそうになりながら、体を持ち上げた。立つことはできないが、地面に座るだけなら可能なようだ。

 俺もそれに習って体を持ち上げる。


「アグネス。あなた、一体何したの?」

「え?」


 リリアはアグネスを睨みつけた。

 この街にアグネスがいると聞いた時のような、厳しいなんて言葉じゃ言い表せないような目つき。

 それを受けても少し離れたところで立っていた彼は、少しの動揺も見せなかった。

 リリアが何したのか、と聞くのだから、何かしたのだろう。


 そう考えた途端、今更のように違和感が湧き上がってきた。


 ――なんでリリアはこんな平気そうなんだ?


 もちろん元気なわけじゃない。息は荒いし、顔は出血のせいか青白い。座ったまま体を支えている腕はプルプル震えている。

 俺が感じたのは、なぜこの傷の割に平気そうなのか、ということだ。

 彼女は腹を剣で刺された。それは確実だ。なのに普通に起き上がり、普通に話している。それが異常なのは考えなくてもわかった。


「なに、そんな大層なことはしていない。奇跡を使っただけさ」

「奇跡っ……!!」


 脳裏にあの狂いそうになるくらいの激痛が蘇る。痛すぎて叫びたいのに叫べない。苦しすぎて意識を失いたいのに失えない。そんな痛みを思い出した。

 それをリリアに使った? 敗者に鞭打つようなその行動に、そして何よりリリアにそれを行使したということに、俺は沈んでいた怒りが再燃し、冷静だった頭が熱くなるのを感じた。


「アレン君そう睨んでくれるな。奇跡とは本来人を守るものだ。あんな痛みを感じるのは、悪魔くらいだ。だから君が思っているようなことはない。ただ、回復させただけだ」

「回復……?」


 俺は訝しげに彼を見た。表情には特に変化もなく、どうも嘘を言っている様子ではない。むしろ疑いの視線を向けているのに気づいて、呆れたように肩をすくめているほどだ。その様子が、彼は嘘をついていないということを如実に示していた。

 だとすると、ますますわけがわからない。

 だって実際に、リリアを傷つけたのは――こいつなわけで。そのアグネス自身がリリアを回復させるなんて、矛盾している。

 その困惑が俺の視線に含まれていたのか、アグネスは中傷気味に小さく笑みを浮かべ、口を開いた。


「ああ、良心にかられて、なんてことはないから勘違いしないでくれ。俺が魔女に情をかけるだなんて、あり得ない」

「なら……なんで」

「ただ単に、リリアにはここで死んでほしくはないからさ」


 俺は首をかしげた。やはり矛盾している。

 死んでほしくないというのは、情をかけているということじゃないのか?


 思慮にふけっていると、隣から荒い息遣いに混じって、悔しそうに唸る声が聞こえた。リリアだ。悔しそうに、さらに目つきを厳しいものにしてアグネスを睨みつけている。


「ああ、そういうことね……」

「リリア、わかったのか?」

「ええ。アグネス、あなた、私を公開処刑するつもりでしょ」


 ――公開処刑

 

 その単語を耳にして、ヒュッと息を飲んだ。


 過ぎ去った恐怖の波が再び押し寄せる。手が細かく震え、歯がガチガチとなった。頭も急速に冷えていくように感じる。


 ――公開処刑? また、殺されてしまうのか?


 頭に浮かぶのは、崩れ落ちるリリアの姿だった。人混みを飛び越えて来た時に感じた絶望感が蘇る。


「な、んでそんな、こと……」


 未だ脳内が落ち着かず震える中、なんとかそれだけを口にした。

 それは蚊が鳴くような声だったが、きちんとアグネスの耳に届いたらしく、また呆れたように肩をすくめた。


「決まってるだろう。宣伝だよ」

「宣……伝……?」


 無意識に漏れた俺の声は、ひどく弱々しいものだった。本当に自分の声かと疑ってしまうくらいに。

 ただ、ひたすらに困惑する。何を言っているのか、理解ができなかった。『宣伝』という言葉が、今この状況にどう関係するのか、全く見えてこなかった。


「ようするに、私を見せしめで殺すってことよ……!!」

「教会といっても、俺たちはあくまで営利団体だ。世界を管理しているが、もちろんそれにはお金も人も時間もいる。悪魔や魔女が減り、人々から教会への信仰が失われつつある今、なんとかまた信仰を深めさせる必要がある」


 悔しそうに漏らされたリリアの声も、淡々と説明するアグネスの言葉も、どこか遠くの出来事のようだった。耳の上に何かをかぶせた時のような、くぐもった声。

 理解が追いつかなくて、頭が回らない。


 ――宣伝? なんだそれは。宣伝のために公開処刑なんて、人間の扱いじゃない。俺は置いといて、リリアは確かに人間だ。そんな彼女をそんな風に扱うなんて、こいつは狂っている。


 そこまで考えて、思いついた。


 ――ああ、そうか。リリアは、人間じゃないんだ。


 そう、少なくとも、この世界の人間にとってはそれが事実だった。

 彼らにとって魔とは全て駆逐されるべき存在であり、だから魔女であるリリアもそれと同類になる。

 だから狂っているのはアグネスじゃない。狂っているのは、世界だった。


 俺は世界の仕組みなんて本当に大雑把にしかわからない。教会の仕組みも知らない。

 だから詳しくは理解できなかったが、リリアが殺されることだけは、これ以上ないくらいに身に染みていた。


「逃げ、ないと……」


 そうだ。それしか道はない。このままだと殺される。

 他の聖教者たちは全員死んでいる。敵はアグネス一人だけだ。彼は俺では太刀打ちができないくらいに強いが、リリアもいることだし、逃げることだけ考えていればなんとかなるかもしれない。


「……無理よ」


 ポツリと、リリアはそう呟いた。

 え……と声をこぼし、リリアの方を向く。

 憎々しげに、アグネスを睨みつけていた。だがさっきまでとは明らかに違う。その表情には、確かな諦念が滲んでいた。


 無理だと、彼女は言った。逃げるのは不可能だと、そう言い切った。


 確かにそれは事実だ。逃げようなんて反射的に口にしただけで、それが可能かどうかなんてわかりきっていた。

 敵は五体満足の無傷で、俺たちは瀕死状態。逃げるどころか走ることさえ――立ち上がることさえできない。

 バカでもわかる。俺たちが逃げるなんて、夢物語でしかないと。


 ――でも、だからって諦めろと言うのか。


 それだけは嫌だった。せっかく見つけた俺の居場所。あの森の中にただ一つ佇む家に俺は戻りたい。他でもないリリアと一緒に、帰りたかった。

 じゃあ、どうするのか。


「戦うしか、ないじゃないか……!!」

「アレン……」


 痛みは引いていない。傷こそ見えないが、体を引き裂くような激痛は健在だ。それに耐えながら、膝に手をつきグググ……と軋む体を立ち上がらせた。


 リリアが戦うのはもう無理だ。戦わせるわけにはいかない。なら、俺がやるしかないじゃないか。


 体を変異させようとしても、どうにもうまくいかない。悪魔の甲殻が体の一部を覆っては、崩れ落ちていく。足に力が入らず、気を抜けばそのまま倒れてしまいそうだった。


「ようするに君は……俺の提案を断る、ってことでいいのかな?」

「当たり前だ……っ!!」


 俺はもう決めた。アグネスを倒して、あの家に帰ると、決意したんだ。


「やめてアレン。もう、限界よ……」


 背後のリリアは弱々しくそうこぼしながら、俺の足をつかんだ。それには驚くくらいに力は込められていなかった。だけど、俺はそれを無視して一歩踏み出した。彼女の手は、簡単に俺の足から離れた。

 俺はまっすぐアグネスを睨みつける。


 不可能なんて知らない。無理なんて言われても止まらない。何があっても、俺は止まるつもりはなかった。


「そう……わかったわ。それなら……私は……」


 背後でそんなつぶやきが聞こえた。声が小さくて、よく聞こえない。俺はそれを無視して痛みに泣き叫ぶ体に鞭を打って、前に進んだ。

 なんとか右手の変異はできた。そこに力を込め、帯電させる。バチバチと、さっきの魔法よりは規模は小さいが、確かに雷の音が響いた。

 アグネスも迎え撃つように奇跡の剣を発生させ、それを構えた。


「――――え?」


 突如、アグネスの目が大きく見開かれた。初めて見た、彼の余裕の笑みが崩れた瞬間だった。

 その目はまっすぐ俺に向けられて――


 ――いや、違う?


 俺じゃない。その視線の先は、きっと俺じゃない。


「なんてことだ……君はもう、魔力はほぼ無いし、体だって限界なはず……魔術(・・)

なんて使えないはずだ!」


 その視線は、まっすぐ俺の背後のリリアに注がれていた。

 俺は反射的に振り返る。

 リリアは、座り込んだ状態で胸のあたりで腕を組み、祈るような体勢をしていた。はっきりとは聞こえないが、血の涙を流しながら何かを呟いているのか口元は忙しなく動いている。

 俺は確信した。あれは魔術の呪文だと。

 今まで聞いたことがないような長さの呪文だった。基本、複雑な魔術であればあるほど呪文は長く複雑なものになる。そう考えると、今からリリアがやろうとしているのはかなり高度なものになる。


「リリア!」


 俺は踵を返してリリアのもとに駆け寄った。


 無茶だ。そんな状態で魔術なんて使ったら、ただじゃ済まない。


「リリア! やめろ! やめてくれ!」


 俺は形振り構わずリリアの肩を掴み強く揺らした。痛みも感じていることだろう。それに耐えるように眉をひそめるも、呪文を止めることはなかった。


 そして、彼女の口は止まった。おそらく、呪文を唱え終わったんだ。

 途端に、左手にしていた指輪が光を放ち始めた。赤く、紅く、まるで夕日のように輝いていた。すっかり忘れていた。これはちょうど都に来る前にリリアからお守りと言ってもらったものだ。変異や魔法に耐えていたこの指輪の強さに、少し驚いた。


「ぐっ……」


 急に堪え難いめまいが俺を襲う。頭は内側から殴られているかのようにズキズキ痛み、体の感覚が徐々に失われていく。

 ゾワリと背中を舐めるような寒気や強烈な吐き気も感じた。


「ごめんね……」


 おかしな状況に困惑する中、リリアはそれを確認するとそう呟いて笑みを浮かべた。


 それはこの状況には不釣り合いなほど優しいもので。むしろこちらが泣きそうになるくらいに痛々しいもので。そして何かを諦めたかのように儚げだ。


 一体、リリアは何を諦めたのか。

 わからない。リリアが何を考えているのか、一体この魔術はなんなのか、わからない。


 意識は薄れていき、視界も周りからだんだん闇に覆われていく。何が何だかわからず、ただただ狼狽えていた。


「なんだ、これ……リリア、一体何をしたんだ!」

「ごめん……ごめんね……」


 綺麗な瞳にうっすらと涙を浮かべながら、リリアはただ「ごめんね、ごめんね」と繰り返した。


 もう視界は真っ暗になってしまった。意識もほとんどなくなった。吐き気だって堪え難い。

 まるで、どこか真っ暗な別の世界に、一人放り出されたようだった。


 ――なんだここは。ここはどこだ。リリアはどこだ!


 暗闇の中にプカプカ浮かんでいるような感覚だ。その中でただひたすらに謝るリリアの声が聞こえた。

 手を伸ばしても何も掴めない。

 何か言おうとしても、何も言葉は出てこない。


 どうしようもない不安感が俺を襲う。不安で、潰れてしまいそうだ。

 これがどんな魔術なのかもわからない。リリアが何を考えているのかもわからない。これからどうなるのかもわからない。

 わからないことばかりで、どうしようもない。


「なあ、リリア。俺は、俺はお前を――」


 そこから先は、口にすることができなかった。






「ねえ、アレン」

「ごめんねこんなことして。でも、こうするしかなかった。これ以外に、方法はなかった。これが私の、限界だった」

「だって、あなたが大切だから」


「最初は、本当にただあなたが半魔だから家に置いていた。でもそれもだんだん変わっていった」

「嬉しかったのよ? あの依頼の時、私を信じてくれるって言ってくれて。私を――守るって、言ってくれて」


「一緒にいた期間は二ヶ月もない短い間だったけど、あの時間が今となってはどうしようもなく愛おしい」

「私がいて、クルがいて――アレンがいて」



「半魔だからじゃない。アレンだから」

「アレン――あなただから、私は一緒にいてほしい」



「駆けつけてくれたアレンを見た時、私はとても嬉しかった。泣きそうになった。それと同時に、ごめんねって、そう言いたくなった」


「ごめんね、あなたを巻き込んでしまって」

「ごめんね、私のせいで傷つけてしまって」

「ごめんね、あなただけを残してしまって」

「ごめんね」

「ごめんね」

「ごめんね」


「ごめんね。こんな私でも、こんなひどい私でも――私は、私はっ……あなたのことが――――」


「いえ……そんなことを言う資格なんて、私にはないわね」

「だから、私が言うのはたった、たった一言だけ」



「――またね、アレン」

「――あなたが幸せになることを、祈ってるわ」




 おぼろげな、今にも途切れそうな意識の中、はるか遠くから、そんな声が聞こえた。

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