30話 最強と奇跡
俺が走り出したのと同時に、アグネスも足を進める。こんな状況だというのにゆっくりいつも通りに歩いていた。それがどれだけの余裕を持っているかよくわかる。
それが俺の心を苛立たせ、それに呼応するように体の大きさにしては頼りない尾が揺れる。
俺とアグネスの距離がどんどん縮まり残り数メートルになったところで、俺は思い切り飛んだ。
人間の何倍もある脚力。嵐のごとく突風を巻き起こす翼。その全てを総動員させ、魔法なんて使うこともなく、純粋に真っ直ぐ突進した。
数メートルなんて距離はゼロに等しい。俺にとってそれは一瞬の合間に、一回の瞬きの間にゼロにすることができる距離。
風を切る音が耳元で響き、地面が砕ける叫びが少し後ろから聞こえてきた。
あっという間に距離はゼロになり、アグネスの姿は大きくなる。
俺は魔法も使わず、命を刈り取るために心臓に向かって右手を突き出した。
「――ッ!!」
だがその突きは宙を切った。
消えた。アグネスが突然、その姿を消したのだ。
――躱した!?
信じられなかった。今の俺は自分ですら反応できるか怪しいスピードなのだ。
それをしっかり見て反応し、かすり傷一つ追うことなく躱してみせた。
行き場をなくした右手はそのまま突き進む。いかに悪魔といえど、その身体能力が人間を超越しているといえど、基本的には人間と変わらない。ただ絶対値が増加しただけだ。
自分の全てを持って繰り出した突進は、人間と同じく急に止まることはできない。
――きっと右手はそのまま突き進み、地面をえぐることだろう。えぐった後は急いで振り返り、アグネスの姿を探そう。
俺はそう考えた。今更都を破壊することになんの罪悪感も感じない。
だが、右手の向かう先を見た時、心臓が止まりそうになった。
――リリアッ!!
そこにあったのは、緋色の泉の中心で横たわる彼女だった。
俺は反射的に尻尾を地面に突き刺した。
本当は尻尾なんて今まで自在に動かせなかった。もともとなかった機関だ。動かせるはずがない。
でも今回は動いた。本能に従って体が勝手に動いたのだ。
ガガガガガガッ! と地面を削りながら、それでも勢いがゼロにならず進んでいく。
――ダメだ。このままじゃリリアに直撃する!
俺は無理やり体を回転させた。地面に突き刺した尻尾を中心として、駒のように回転させる。そのまま勢いを利用して横に飛ぶ。
不恰好なことこの上ない。形振り構わずリリアのことを第一に考えて行動した。
「グ……ゥ……」
そのまま数メートル離れた場所に落ちた。
痛くはない。痛くはないが、体を打つような衝撃はどうしようもなかった。
横目でリリアの様子を伺うと、何も変わった様子はない。
とりあえず彼女をこの手で傷つける、なんて事態は避けられたようだ。
安心して顔をあげれば、少し離れたところで俺を見下ろすアグネスが目に入った。
相変わらずその顔にはムカつく笑みを浮かべている。
―それを見た瞬間、安堵は消え去っていた。アグネスに対するイラつきだけが、俺を突き動かす。
「さあ……来なよ」
言い終わると同時に、ガンッ! と砕ける音が響く。俺は彼に向かってまた走り出した。
さっきみたいな突進はしない。避けられたとき、思い切り不利になるからだ。正直さっき避けられたのも半信半疑だが、警戒するに越したことはない。
それでも俺のスピードは人間のそれじゃない。一般人なら反応もできずに木っ端微塵になってしまうほどだ。
「ガアッ!」
丸太のような腕を横薙ぎに払う。赤い稲妻のように放たれたそれは、真っ直ぐアグネスの顔めがけて飛んでいき――
「……ア?」
――綺麗に宙を切った。
少し視線を下にずらせば、そこには避けるためにしゃがんだアグネスがいる。
考えるまでもない。彼は完全に悪魔の身体能力についてこれている。
――なるほど。たしかに伊達に最強と呼ばれてないな。
頭ではそう冷静に分析しながらも、内心焦りを感じていた。
まだまだと、次々攻撃を繰り出す。
両手を組んだ叩きつけは地面を破壊するだけ。空気を切り裂くような蹴りはヒュンと空気を鳴らしただけ。アグネスを切り裂くはずの突きも何もない宙を突き進むだけ。
俺の全ての攻撃は、掴み所のない空気のようにぬらりくらりと躱されていた。
――なんでだ! なんで、当たらない!
当たるどころか、かすりさえしない。
俺の焦りは頂点に達し、攻撃もだんだん大振りになっていく。
冷静にならないといけないなんてわかっている。
だがわかっていても、感情の化け物たる悪魔の今、どうにも自分の感情を制御できなかった。
そして突然、アグネスはその笑みを崩した。
「さて、そろそろやるか」
小さく呟かれたそれは俺の耳にはっきり入ってきた。
それに反応するよりも早く、アグネスは前進した。
「――ッ!!」
前進する。それは普通のことのはずだ。
今までなんの反撃もせず、蝶のようにヒラヒラ舞っていた彼が、避けることに徹していた彼が、一歩踏み出した。
たったそれだけのことなのに、俺はひどく狼狽した。
だが彼は何をするわけでもなく、俺の横を通り過ぎた。俺に向かって剣を振り下ろしたわけでもない。そもそも剣を俺に当てても、悪魔の甲殻が体を覆っている時点で無駄なのだ。
「一体何――ガッ!!」
彼が俺の横を通り過ぎて数瞬。瞳に激痛が走り、視界が真っ赤に染まる。
燃えるような痛みが、俺の脳内を支配した。
「ガッ……アァァアアア!!」
両目を抑えたまま、俺は暴れまわった。
足をジタバタさせ、尻尾を鞭のように振り回す。
刺された。
両目を、潰された。
あの一瞬でやったというのか。そんなことが人間にできるのか。
悪魔の甲殻は前進を覆っているが、眼球などはカバーできていなかった。
そのことはもちろん俺は知っている。だが迂闊とは思わなかった。
誰が予想できるだろうか。
眼球を、眼球のみを攻撃するなんて。
「グゥ……グゥゥウウウ」
未だ治らない痛みに唸りながら、眼球に意識を集中させる。
すると、どんどん痛みは引いていった。
次第に、視界を占めていた赤色も無くなっていき、最終的に全て元どおりになった。
まるで魔法にでもかかったかのように。
「ふむ、やっぱり使えるよな。悪魔なんだから、治癒魔法くらいは」
「ク、ソガァァアア!!」
俺は獣のように叫び、空気が揺れる。
気に入らなかった。今アグネスが口にした言葉が、まるで実験でもしているようだったから。俺を、全く見ていないようだったから。
尻尾を地面に突き刺し体を固定し、思い切り息を吸い込んだ。
その吸い込んだ息に魔法をかける。するとそれは、悪魔ですら感じる熱を発するようになった。
それを俺は、アグネスに向かって吐き出す。
俺の口から出てきたのは、灼熱の炎。それは一本の柱のようになって、容赦なくアグネスに襲いかかる。その余波で、俺ですら皮膚がチリチリ焼ける感覚がした。
鉄すら溶かす炎だ。それに避けられるほど小さくもない。
これなら殺せると確信していた。避けることはできない。だからと言って真正面から受ければ焼け死ぬ。
これで勝ったと、全て出し切って黒い煙に包まれた前方を見て、俺は内心ほくそ笑んだ。
「ほぉ、さすが悪魔。なかなか強力な魔法を使うね」
だが、そんな声が煙の中から聞こえた。
「…………ハ?」
間抜けな声が漏れる。
あれを凌いだ? どうやって? 声は前方から聞こえるし、躱したわけじゃなさそうだ。
煙が晴れ、アグネスの姿があらわになった。
はじめに目に入ったのは、アグネスじゃなかった。アグネス自身じゃなくて、光の盾。前進をカバーできるほどの光でできたタワーシールドだった。
――奇跡っ……!!
前にリリアから聞いた話を思い出した。
奇跡は普通の人に対しては、殺傷能力を持たない。なんなら、奇跡の剣で切りつけたところの傷が治ることもあるくらいだ。
だが、魔に対しては絶対的な攻撃力を持つ。最強ともなれば、全ての魔術、魔法を打ち消し、魔物や悪魔にとっては触れることですら危険な行為であると。
だから彼は最強とも言えるその奇跡で魔法を全て打ち消した、ということだ。おそらくリリアが負けたのもこれが原因だ。彼女の強さは魔法ありきだ。だからそれが全て打ち消され、無惨にも敗北した。
わかってはいる。思い出しもした。
でも、納得はできなかった。
悪魔の魔法を、なんてことない様子で打ち消すなんてそれはもう人間と呼べるのか。
何かの間違いだと思いたかった。
俺は呆然とした。今まで信じてきたものが崩れ落ちたような感覚がしていて、目の前が真っ暗になって気がした。
だからこそ、目の前まで迫ってきているアグネスに気がつけなかった。
「今度はこちらからいくよ」
「ッ!!」
光の盾は剣に変形していた。
それをアグネスは横薙ぎに振るおうとしている。
なんとか受け止めようと、体の前で腕をクロスした。
だが、それも無駄だった。
そして、それがダメだった。
奇跡の剣は、悪魔の甲殻を切りつけることなく通り抜けた。
まるでゴーストのように。まるで朧げな幻のように。
俺の体をすり抜けた。
――何が起こった?
そう考える間も無く、激痛が体を走った。もっと詳しくいうなら、奇跡の剣がすり抜けた部分に。
――熱い熱い痛い痛い痛い!!!
肉体のその部分に熱された鉄板を打ち込まれたような感覚。そこが焼けるように熱く、傷口を何度も刺されたかのように痛かった。
しかも、そこの部分の感覚が消え、そこがなくなったかのような喪失感が俺を襲う。
――やばい! これはやばい!
今度こそ俺は恐怖を感じた。
奇跡の剣が今まで経験した何よりも恐ろしい物のように感じる。
魂が言っていた。これはやばいと。
本能が言っていた。これに触れてはダメだと。
――逃げないと!
初めてそんなことを考えるが、アグネスの動きの方が早かった。
奇跡の剣がなんのためらいもなく、一撃、二撃、三撃と打ち込まれていった。




