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28話 憎悪と変異



 俺は目の前の状況を目の当たりにして、思わず蚊の鳴くような大きさの、素っ頓狂な声を漏らした。


 まず始めに目に入ったのは、一人の男の背中だった。燃えるような赤髪の男。多分、多分あいつがアグネスだ。赤髪の男なんて彼以外に考えられなかった。

 そしてその肩越しにリリアの顔が見えた。いつもの見慣れた彼女。でも、様子がおかしかった。ガラス玉のような赤目を飛び出んばかりに見開いて、焦点はあっておらず虚空を見つめている。そこから涙の跡のように赤い一筋の線が流れ、口は窒息気味の魚のように開かれていた。

 アグネスは無傷で汚れすらないというのに、リリアは痛々しい傷が散見される。

 二人の距離は近く、リリアは顎をアグネスの肩に乗せているのもあり、まるで抱き合っているように見えた。

 でもそんなこと有り得ないのは、誰もが知っている。


「リリ……ア?」


 小さなつぶやきだったが彼らには聞こえたのか、アグネスはピクリと反応した。


 おかしな様子の彼女を見て、まさかと頭の中の緋色の予感が彩度を増す。


 いやだいやだ。そんなことはあり得ない。


 必死で振り切ろうとして、頭がズキズキ痛む。


「ア…………レ、ン…………?」


 遅れてリリアの光の薄い瞳が俺の方を向いた。

 それは声とも言えないほど小さく弱々しいものだったが、不思議と一言一句はっきり耳に入ってくる。


 もう俺の中では悪い予感はほぼ確信と言っていいくらいにまでなっていた。だが俺は認めない。

 まだ、見ていないから。もしそう(・・)だとしたらあって当たり前のものを、俺はまだ見ていないから。


 そんな俺の悪あがきに等しい駄々も、小さな音によって打ち砕かれた。


 ピチャンと、液体が落ちる音がした。

 この距離で聞こえるはずがないのに。聞きたくもないのに、なぜか俺ははっきりと聞いてしまった。

 つられるように二人の足元に視線を移す。


 血。

 真っ赤な、血。


 小さな緋色の水たまりがそこにはあった。そこからレンガの溝を通って、いくつもの赤黒い線が伸びている。


「はっ…………かっ…………」


 走っている時とはまた違った息苦しさが俺を襲う。

 もう一度、リリアに視線を移した。

 まだ、信じられなくて。まだ、信じたくなくて。


「……あ」


 だが現実は非情だ。まるで俺がリリアを見るのを待っていたかのようだった。視線を移した途端、声も立てずに彼女はゆっくり倒れこむ。


 顔を思わず背けそうになりながら、そして俺は、初めて現実を目にした。


 横になった彼女の腹のあたりに大きく広がった緋色のシミと、アグネスの持つ赤黒く染まった直剣。

 そしてゆっくりと、今までこっちに背を向けていたアグネスが、顔だけこちらに向けた。

 その返り血で赤く染まり、薄く笑っている。

 それを見て、何かが爆発した。


「――――ッッ!!!」


 ゾワッ! と全身の毛が逆立つようだった。


 動揺、悔しさ、憎しみ、怒り、悲しみ、疑問、屈辱、恐怖、怨み、嫌悪。


「あ……あぁ……リ、リア……」


 頭の中がグチャグチャで。

 もうどれが自分なのかわからなくなって、涙を流した。

 彼女の死から目をそらしたいのに、俺はうつ伏せで倒れるリリアから目を逸らさない。


 いろいろな感情が爆発的に俺の中に広がり、そして一つの感情に収束する。


 それは――殺意。


 もう、理性なんてものは擦り切れた。感情の激流に耐えきれず、消し飛んだ。

 今あるのは、純粋なる殺意のみ。


 ――あぁ、リリアは死んでしまった。


 バキバキと、遠くの方で音がした。それはもはや聞き慣れた、あの忌々しい音で。


 ――俺が不甲斐なかったせいで。俺があの時止めなかったせいで。俺が、弱かったせいで。


 変異はどんどん広がって、俺の体を覆い尽くしていく。

 赤黒い甲殻が足、腰、胸が、腕と包み込んでいく。


 ――俺も助けると、あの時約束したのに。それすら俺は果たせなかった。


 それを拒もうとはなぜか微塵も思わなかった。あれだけ忌み嫌ってきたものなのに。フツフツと煮えたぎる殺意でさえ今ではどこか愛おしい。


 ――誰だ? リリアを殺したのは、誰だ?


「俺だよ」


 前方から声がした。それはシンとした俺の心中に、確かな波紋をもたらす。

 俺が口にしたわけじゃない。心を読んだわけでもない。

 視線をあげ改めて視界に入ったアグネスは、それが見当違いの言葉ではないと確信しているようだった。


「あァ、オ前か」


 ――なら、迷う必要はないよな。


 そしてついに、悪魔の甲殻が俺の顔をも包み込んだ。それに終わらず、少し体も大きくなる。


 周りから悲鳴が上がる。取り囲んでいた群衆も、散り散りになって逃げ出した。

 化け物だの、悪魔だの叫びながら。


 そこで俺は初めて実感した。


 完全変異。

 今までどれだけそれを恐れてきたことか。そうなった時こそ、自分という存在が死ぬものだと思っていた。

 だがなってしまえばそんなことはない。意識ははっきりしているし、なんならいつもより体の調子も良く感じた。


 そして、あの依頼の時にも感じた万能感が、麻薬のように頭に染み渡る。


 改めてアグネスに目を向けた。

 その表情は驚きに染まっているが、街の住人や他の聖教者ほど狼狽えたものではない。

 まさに最強と呼ばれるだけの余裕は持ち合わせているようだった。


 ――だけど、何が最強だ。


 今の俺ならあいつを倒すことができるはずだ。そうとしか思えなかった。

 悪魔の強さは身をもって知った。

 あれほど強力な魔法を、おそらく俺よりも上手く使える純粋な悪魔達。なんならなぜ悪魔と天使の戦いで負けたのかわからないくらいだ。

 いくら最強と言われていても、所詮は人間だ。

 なら、勝てない理由はない。


 一歩踏み出した。ズンと重い音と振動が辺りに伝わる。他の聖教者たちは怯えるように後ずさりをした。

 だがアグネスはむしろ一歩前に出て、その顔に薄い笑みを浮かべている。


 その余裕の笑みが、おそらくリリアを殺した時に浮かべていたであろうその笑みが、何よりも憎らしい。


 あの笑みをグチャグチャにしてやりたい。

 彼を殺し尽くしてやりたい。


 興奮にも似た高ぶる殺意に、口角が上がるのを感じる。


「なあ」


 アグネスの凜とした声が、悲鳴や人々の声で騒がしいここでやけにはっきりと響く。


「君は――何者だ?」


 俺が、何者?

 そんなの決まっている。


 人間? ――否。


 半魔? ――否。


「俺ハ――悪魔ダ」

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