24話 衝突と反発
まるで、世界が凍りついたみたいだった。いきなり飛び込んで来たその言葉に俺はもちろん、リリアでさえも反応できずに、目を見開いたまま固まっている。
不思議な感覚だ。自分たちは止まっているのに、周りは相変わらず動き続けて騒がしい。
動き出せたのは、彼らが少し向こうに走り去ってからだった。
「……はっ」
詰まっていた息が漏れる。
遅れて、体が震え出した。
――あいつが……ここに、いる?
実際に俺は会った覚えはない。話に聞いたことがあるだけだ。でもその凄さは知っている。
教会の英雄で、聖教者で、リリアによれば悪魔でさえも殺しうる男。そんなやつなら俺なんて簡単に殺せるだろう。しかもたまたま出会ったら殺すわけじゃない。殺すために、探している。
そんなやつがこの街に、いる。
だんだんと息が荒くなるのを感じた。実際に出会ったわけでもないのに緊張してしまっていた。強く握られた拳には汗が滲み、爪が親指の下の膨らんだ部分に食い込んで赤い筋を残す。
――大丈夫だ。俺は今魔術で別人に見えている。バレるわけがない。
頭にこびりついた最悪な状況を振り払うように頭を振り、そう自分に言い聞かせた。実際相手は聖教者なんだから魔術を見破るかもしれないという可能性を考えながらも、必死に目をそらして。
自分の中の気持ちがある程度整理がついて、ようやくリリアに意識を向けれるようになった。
――そうだ。俺なんかよりもっと精神的に辛いのはリリアなんだ。
そう思いつき、チラリと横目でリリアの表情を盗み見てーー
「ーーっ!!」
思わず叫びそうになった。
そこにいたのは、ただただ無表情のリリアだった。動くことなく、虚空をじっと見つめていた。
無邪気に笑い、恥ずかしそうに頬を染め、子供のように目を輝かせていた彼女はどこにもいない。自分の目を疑いたくなるほどの豹変ぶりだった。
感情を感じない表情は石像のように動くことなく、赤いガラス玉のような双眸は、無機質めいていながらもその奥には煮えたぎる激情を感じさせる。
そんな彼女を見て、思い出す。
『あいつはーーアグネスは、私の両親を殺したの』
あれはあの依頼から帰った後、家でリリアが話していたことだ。
『魔女だからって母を。魔付きだからって父を殺した』
彼女によれば、それまでアグネスはそんなに魔に恨みを持つようなやつではなかった。なぜか急に、恨みを持ち始めた。
そう語っていたあの時の彼女は叫び出しそうな狂気をその目に宿していて。手を伸ばしてあげたくなるほどに苦しそうで。
『あの日私は無様に逃げ去った。自分の命を最優先に考えて、行動した。でもーー』
「はっ……ふぅ……ふぅ……」
「リリア……?」
彼女にだんだん感情が染み込み始める。体は激情で震え、目つきも厳しく息遣いも荒い。
彼女の中にどんな感情があるのか、考えなくてもわかる。彼女に宿るのは燃えるような怒気。その感情だけで人一人殺せてしまいそうなほどの殺意。
『私はもう逃げない。今度あいつに会ったら私はーー』
「私、はーー」
彼女の喉から小さく、声が漏れた。聞いているだけで胸が締め付けられるような、苦しい声。「やめろ」と言って抱きしめてあげたくなるのに、体はなぜか動いてくれない。
『あいつをーー』
「アグネスをーー」
両親を何よりも誇りに思っている彼女が、アグネスに何を感じるのか。
動いていないくせに、その身から発せられるあまりの迫力に思わず後ずさりしそうになるのを耐えた。
彼女の体に、力がこもった。ゆっくりと、しかし確実に、棒立ちのまま固まっていた彼女の体が、走り出そうと体勢を変えていく。
『殺す』「殺す!」
そう叫び、その瞬間彼女は脱兎の如く地を強く蹴った。
――ダメだ。行かせちゃダメだ。ここで行かせたら、殺される!
そう直感的に悟った。彼女が本気を出したらどれくらい強いのかわからない。最強と呼ばれるアグネスが、どれくらいの強さなのか全く知らない。
「リリア! 待て!」
だがここで何もせず行かせてしまったらもう帰ってこない気がして。気がついた時には俺は走り出そうとしている彼女の腕を掴んでいた。思った以上の力に、もう少しで倒れてしまいそうになる。
――身体強化の魔術使ってないのにこれかよ……!!
この力強さこそが、彼女がどれだけ本気か物語っていた。だけど行かせるわけにはいかない。行かせてはいけない。俺は必死に地面に足をつけ、思い切り踏ん張った。
「お前どこに行くつもりだ!」
「アレン離して! あいつを殺しにいけないじゃない!」
もはやいつもの彼女じゃない。周囲の人々のことなんて気にもせず、ヒステリックに喚き散らす。
まずい状況だった。よく通る声で殺すだの物騒なことを叫んだせいで、周りの視線を集めてしまっている。なんだなんだと野次馬が俺たちを囲み、見世物と化してしまっていた。
「こっ……の! 落ち着けっ……て!」
より一層力を込め彼女の腕を引く。「きゃっ!」と小さく悲鳴を上げ、彼女はこっちに引っ張られた。そのまま勢いを利用して、リリアを押し倒す。リリアは「ぐっ!」とどこか打ったのか呻き声を上げた。それに多少の罪悪感を感じながら、これ以上暴れないようにと両手を抑え込む。
「こ、の……離しなさい! なんで邪魔をするのよ! 行かせてよ!」
「行かせるわけないだろうが……! 落ち着け!」
「あいつを……あいつを殺すのを、諦めろっていうの!!」
押さえつけてもなお暴れまわる。
こんな華奢な体のどこにこんな力があるのか。女とは思えないほどの力だった。少し気を抜けば、この拘束からも抜けられてしまうだろう。
「違う! そういうわけじゃない!」
「じゃあなんで!」
「それ、は……」
俺は思わず言葉に詰まった。
別に止める理由はないのだ。なんとなく、このまま行かせたらダメな気がしたから。
むしろせっかく復讐相手がいるのだから、行かせてあげる理由はある。
彼女は感情的になることこそあれ、基本的には理性的な人間だ。感情で動いているように見えて、意外と論理的に考えていたりする。だから彼女を納得させる理由がないといけなかった。
そこで彼女の視線がより強いものになった。「まさかなんの理由もないのに、私を止めたのか?」と、言わんばかりに。
親の仇を見るような鋭い視線に、思わず身がすくむ。信頼する彼女にそんな視線を向けられていることが悲しくて、心がジクジク傷んだ。
「ば、場所が悪すぎる! お前、世界に追われる身になるつもりか!」
咄嗟に口をついてでたのは、そんなことだった。
「今じゃないと……ダメなのよ」
「あ?」
「私が普段何もしてなかったと思う!? なんで今まで復讐しなかったと思う!? あいつは英雄みたいな扱いだけど、情報だけは絶対に漏らさない! いつどこに行くかなんて、あいつにしかわからない! だから今までは手が出せなかった! でも、今運良く見つけることができた! このチャンスを逃すなんてーーできない!」
「それでもっーー」
やっぱりだった。もちろん復讐心故もあるだろうが、彼女が今ここで殺そうとしていることにはちゃんと理由があったのだ。
それなら、理由を持たない俺は彼女を止めることができない。
でも行かせたくなくて、なんとか彼女を止める言葉を口にしようとしても、開かれた口からは何もでてこない。
それに、いい加減にしないと本当に大変なことになる。もし俺が押し倒して直ぐに誰かが衛兵を呼びに行ったとしたら、もうそろそろ来る頃だろう。
相変わらず暴れるリリアを必死で抑えたまま、どうしようもない焦燥感が心中を焦がしていく。
彼女を説得できない。落ち着かせることもできない。かと行ってこのまま行かせるわけにもいかない。
もういっそのこと、やったことはないが腹でも殴って気絶させるか、なんてことを考え始めた時だった。
「……アレン、ごめん」
あれだけ暴れていたリリアの体から力が抜ける。
諦めてくれたのだろうか。納得してくれたのだろうか。
そんなことが脳裏をかすめ、リリアが小さな声で何かを呟いた瞬間ーー
「が……あっ」
体の前半分に強い衝撃。壁に勢いよく激突した時のような感覚が俺を襲う。俺は耐えきれずにそのまま五メートルほど吹き飛ばされる。飛んで行った方向にいた野次馬たちが、俺を避けるように道を開けた。誰もが何事だと俺に向けられる視線が鬱陶しい。
「ゴホッ! ゴホッ! ……な、なにが……?」
地に膝をつき激しく咳き込んだ。魔力耐性が高いせいか痛みはない。でもまだ衝撃のせいか、空中に投げ出されたみたいに頭の中がグワングワンしている。視界もぼやけ、体は重いし耳鳴りもする。
いきなりのことでグチャグチャになった頭の中を整理しようとした。
おそらく今のは魔術だ。衝撃を生み出す類のものだろうか。魔術の種類は膨大で、全てを知っているわけがないからその辺りは詳しくわからない。だがあれは魔術と断言できる。なら、聞き取れなかったが、小さな声でリリアが言ったのは呪文だ。
「そうだ……リリア!」
そう叫びながら未だガンガン痛む頭を振り、重たい顔を上げた。
「リ……リア……」
やはりというべきか、そこに彼女の姿はなかった。代わりに、さっきリリアが買って、嬉しそうに持っていた服の入った袋が無残に捨てられている。
「くっ……そ」
唸るような声をあげながら、恐ろしく重い体を持ち上げる。吹っ飛ばされた時に地面と擦れできた擦り傷がジクジク痛むが、気にもならない。
行かせてしまった。あれだけ止めようとしたのに、失敗した。
諦念が黒い靄になって頭を覆い尽くそうとした。ああもうだめだ、あいつは殺されてしまうと、全てを投げ出してしまいたくなる。
だが、そんなわけにもいかない。
リリアはアグネスがこの街にいるとしか知らないはずだ。詳しい場所までは知らない。だからリリアがアグネスの元にたどり着くまで、まだ時間がある。
――まだ、間に合う!
俺は立ち上がり、おそらくリリアが走り去って行ったであろう方向を睨みつけた。
「まだ殺させない。まだ、死なせない!」
自分に言い聞かせるように叫び、地を蹴る。
群がる群衆を押しのけながら、もう見えない彼女の背に向かって走り出した。




