影と消える前に
陽が沈むのが早くなったねぇ、と職場で言いあっていたのがつい3日前だった。この街でもかなり大きい通りの、定休日で閉まっている美容室の入り口に腰を下ろして車や人の流れをぼんやりと眺めていると、夕陽がビルの向こう側へ沈んだのがよく分かる。街灯は車道を既に明るく照らし、居酒屋の看板はつい先ほど灯されたところだった。僕の横を前かごに買い物袋を入れたおばちゃんが通り過ぎたが、どれほど目を凝らしてもその袋にあるはずのスーパーのロゴは水に溶かしたように滲んでいて読めなかった。それだけではない。僕が腰を下ろしている美容室の、ショウウィンドウに掲げられた最新技術のトリートメントを紹介する手書きの看板も、その隣にあるラーメン店の暖簾に太い黒字で描かれたはずの店名も、通りを挟んで向かい側にあるはずの区役所の前の無駄に大きなモニュメントの輪郭も、全てが少しずつ歪み、蕩けていた。見えているはずなのに見えない視界なんて、ずっと視力2.0だった僕にはとてもなじめるのものではなかった。
今のところ、いちばんはっきりと思い出せるのはこの近くの病院の、暗く静かな一室に横たわる自分の姿だ。顔に白い布をかけられた身体がもはや自分のものではないことを分かるのにどれだけ時間がかかっただろう。壁にかかった銀色の時計の真っ白な文字盤の上を回る針がどれくらい回ったかがどうやっても思い出せない。しかも困ったことに自分の手で部屋のドアを開けようとしても、手がノブをすり抜けてしまってどうやっても開けられない。ならばドアをすり抜けられるのではないかと思い、意を決して歩みを進めても何か大きな力で押し返されてしまう。幸いお医者さんが入室したすきに飛び出ることができたが、あのまま自分の体を暗い霊安室で眺め続けるなんて考えただけでうんざりした。
廊下のベンチには赤井さんが座り込んでいた。眉の付け根を親指の先で掻くのは困った時の癖だ。僕が話しかけようとしたその時、携帯が鳴りだし、人気の無い廊下に不釣り合いなぐらいにぎやかなメロディが響き渡った。
「あぁ部長、すみません急に…はい、くも膜下出血らしいですけど、脳の血管が、はい…いや、今朝の今朝まで元気やったし、持病も特に無いっていうてましたし…」
僕が息をのんで身を固めた気配は赤井さんには伝わっていないようだ。思わず手を伸ばして赤井さんの肩を叩こうとしたが、僕の手は赤井さんの肩をすり抜けた。
「今、ですか…いちおうお母さんには連絡を取るよう店のスタッフには言ってありますけど、たしか海外のはずやから、はい時差が、ええ」
母は離婚をきっかけにアメリカの東海岸に移り、むこうでポーランド系3世のバツ2と再婚したせいもあってこの数年会っていない。しかも出張であちこち飛び回っているから、おそらく捉まえるのにはそうとう手間がかかるだろう。
「いや、ま、明日以降の配達はなんとか、店のスタッフでなんとかしますわ。」
リサイクルショップ「あしたや」の真っ青なスタッフジャンパーのポケットに使い捨てライターをしまいながらなおも話す赤井さんを、僕はすぐそばで見つめるしかなかった。
もっと意地になって、というか精神を集中させて思い出そうとすると、5ドアの冷蔵庫を市営住宅の5階まで運び上げて、梱包に使った毛布をたたんでいるときの、軽トラックの荷台に転がっていたタバコの空き箱がかろうじて見えてくる。あぁ重かったな、喉乾いてへんか、と赤井さんが階段から降りてきて、大丈夫です、とそれに答えようとして振り向いた瞬間、ジェットコースターがいきなり発進するような、天地がいきなりひっくり返るような、グラリとしたねじれが僕を持ち上げ、同時に目の前が真っ暗になった。何も聞こえなくなるまでのしばらくの間、おそらく赤井さんだったのだろう、おぉいどないしたんや、足にきたんか、という声が遠くで響いていた。
病院を出てしばらく歩くと以前の配達で行ったことのあるマンションの、その一階にある美容室が目に入ったので思わず腰を下ろしたが、ここまでたどり着くのもなんだかひと苦労というか、味わったことのない気怠さで足が重くなった。自転車が真っすぐ僕のほうに走ってくるのをちゃんとかわさないと、自転車とそれに乗っている人は何にも感じないようなのに僕の体はどういうわけか、走り去る風にさえもぐらりと揺さぶられる。ということはきっと、うっかり長距離輸送のトラックにでもぶつかったりしたら想像もできないほど思いっきり吹っ飛ばされてしまうだろう。僕の姿は誰にも気づかれていないようで、歩行者もその飼い犬も、ラーメン屋のドアも道路工事のカラーバーも容赦なく僕をめがけて突っ込んでくるから何度もけつまずき、街燈の柱に叩きつけられる。痛みを感じないとはいえ、ごく普通に真っすぐ歩くだけの道がここまで危険極まりないものだとは思いもしなかった。
このまま歩くのもだんだん嫌になり、かといってどこに行ったらいいのかも考えつかず、しばらくは通りの反対側にある工具店の、灯りの消えた看板を眺めていた。その横の、何度か足を運んだことのあるオーディオショップに目を移すと、店の奥であの金縁メガネをかけた店主が、なにやらニヤニヤと薄笑いを浮かべながらアナログレコードを磨いているのが見えた。いつ見てもむかつく顔だよな、とつい口に出てしまったが、次の瞬間に気づいたことがあった。オーディオショップの中は照明が落とされていて薄暗いのにちゃんと、店主が今触っているのが真空管アンプの音量つまみだということまで分かるのに、その3つ隣の宅配ピザの店先に停まっている配達用のスクーターに描かれた店名はにじんで読めなかった。僕の前を通り過ぎる人達の、子供の泣き声はずいぶん遠くに感じられるのに、着信のメロディは距離に関わらずやけにクリアに聴こえ、それがヴァン・ヘイレンの「ジャンプ」なのがすぐに分かった。
もしかして、と考えが浮かび、意を決して通りを渡り、オーディオショップに足を踏み入れた。この時間まで運送業者が出入りしていて助かった。僕の気配に店主は全く気付かず、見たこともないふやけ顔でパソコンの画面に見入っていた。店にはラリー・カールトンのアルバムが流れており、聴き覚えのあるメロディは「スリープウォーク」だった。この店主は一週間前にも僕の店に来て、売り物の国産のスピーカーに、やれ中古なのに値段が高いだの、コーン紙がへたっていて音がいまいちだの好き勝手言っていたのを思い出し、なんだか無性に腹が立ってきた。自分なりに指先に思いっきり力を込め、アンプの音量つまみを右に回した。すると、まるで僕の願いが通じたかのようにつまみはスルスルと音もなく僕の指に従い、店内は耳をつんざくような大音量のギターに満たされた。店主を見ると、まるで昼寝をクラクションで邪魔された猫みたいに飛び上がり、傍にあったマグカップをひっくり返した。自慢の金縁メガネは鼻先にずり下がり、それを戻すと手元を探ってリモコンを見つけ、首をかしげながら音量を元に戻した。
僕の心は少しだけ満たされ、アンプの上に飾られていたLPのジャケットを眺めた。カールトンが満足そうな顔でギブソンのES―335を弾く姿の、ギターだけがまるでルーペか何かを使ったようにくっきりと目に入ってくるのに、そのギタリストの顔はどれだけジャケットに顔を寄せても、キャロル・キングと見分けがつかないぐらいまでぼやけていた。
自販機のコーヒーを買いに店を出る店主といっしょにドアをすり抜けた後、僕は通りを歩きだした。ここから勤務のリサイクルショップまでは自転車でも少しかかるから、たどり着く頃には店は閉まっているだろう。だけど、今はどんなことがあっても行かなければだめなんだ。
僕の思ったとおりだった。僕にとって価値があること、興味関心があることについてははっきりと見え、聴こえるし、コーヒーの香りまで嗅ぎとることが出来る。しかも、どれくらいの力をかけられるかはわからないけど、強く念じれば手や指を使ってものを動かせるようなのだ。
僕が今こうなっていることはきっと何か意味があるはずだ。しばらく考えているうちに、これはやり残したことがないように与えられた時間であり能力なのだと気づいた。僕がやり残したことといえば、もちろん数え切れないほどあるけど、今やっておかないといけないことならすぐに思い当たった。
でも困ったことに、道端に座り込んでいた時と比べても明らかに手足の感覚というか、足や指までの間隔がやけに遠く感じられるようになっていた。それに、すでに夜の暗がりのなかにいるはずなのに、何の灯りもないはずのその闇がなにやら光を発しているかのように明るく、それが徐々に僕を包み込むように広がっているようだった。光の先には何も見えず、何かがいる気配も無かったから、きっとあの中に吸い込まれると僕はここから、いや、どこにも居なくなってしまうんだと直感した。
「あしたや」の入口を施錠しようと店先に出てきたのは赤井さんだった。いつもなら鍵束の中から自動ドアの鍵を探し出すのにもたつくことなんて無いのに、今日だけはやけに手間取っていた。眼をこすりながら鍵束を探る赤井さんのそばをすり抜けて店内に入ったと同時に分厚いガラスのドアが閉まり、その下でサムターンが軽い音を立てて回った。シャッターを降ろそうと顔を上げた赤井さんの首筋に湿布がちらりと顔をのぞかせたので、あぁ肩がまだ痛いんですね、と言おうとしたけど、眼元が赤く腫れあがっているのにすぐに気づいて、僕はシャッターが完全に降りてからもしばらくその場に立っていた。
気を取り直して店の中に歩き出した。盗難防止のためと称して閉店後も照明をいくつか点けておくこともあって、営業時間中ほど明るくはないものの、どこに何が置いてあるかはちゃんと分かった。赤井さんの机の上には、電話は明日の夕方にかけなおしたほうがよさそうです、という池原君のメモが置かれていた。書かれていたのは僕の母の電話番号だった。
作業用のカウンターの裏をのぞき込む。あった。二日前に松野さんが買い取ったエレキギターとアコースティックギターだ。今日の配達が終わったらこのふたつを調整していておいてな、と、商品の荷積みが終わった直後の赤井さんの言葉がはっきりと耳に蘇ってきた。
照明が届かない暗がりを見回し、先ほどのくすんだ光が少しずつ僕のほうに向かって浸みだしてくるのを見ていると、この2本のギターを仕上げるのが精いっぱいだろうという予想がつく。急がなきゃ、とつぶやきながらカウンターの下の工具箱を取り出す。レンチやらニッパーやら色々入っていてそこそこ重いはずの工具箱がなぜか親指と人差し指だけでつまむようにして持ち上げられたのに、いつもなら片手でネックを持って運べるエレキギターがなぜか両手で運ぶのが大変なくらい重かった。カウンターに厚手の足ふきマットを置き、その上に大判のバスタオルをかければ楽器に不要な傷をつけなくてすむ。1年前に買ってからほとんど弾かずにしまい込んでいた、という前の持ち主の言葉どおりキズがほとんどないキレイな状態だが、フレットがくすんでいていた。音程を決める杭としてのフレットが金属である以上、指の汗にさらされて錆びるのは避けられない。これを磨き上げるだけで売値は他のリサイクルショップよりも3割は上げられますよ、なんて大きなことを言ってしまった以上、きちんと仕上げておかないと。
弦を6本とも緩めて指板から外し、ネックの側面までずらしておいてマスキングテープで留める。本当は指板もマスキングテープで覆い、フレットだけを研磨したほうがキレイに仕上がるんだけど、入門用の安いギターにそこまでの手はかけていられない。僕には、今朝までの僕ではなく今の僕にはどうやらあまり時間が無いみたいなんだから。
金属磨きの白いクリームを小さく切ったタオルにつけて指板を、ありったけの力を込めて磨く。「怒りと不満をぶつけるように」磨け、と楽器店時代に上司に教わったのを思い出す。そんなこと考えなくたって力をかければいいでしょ、とその時は笑ったけど、今の僕のありったけの力を注いでもフレットはなかなか光ってくれず、普段の軽く3倍近い時間がかかったようだった。
新しいタオルの切れ端に、オレンジを精製した木材保護用のオイルで指板を軽く拭くと真っ黒になった研磨剤の粉が取れるから、先ほどずらした弦をもとの位置に戻して少しだけマシンヘッドを巻き上げて弦を張っておく。店頭に並べるときには弦を緩めておくように伝えてあるし、うっかり者の山内を除けばみんなしっかりと守ってくれるから安心だ。
エレキギターをカウンターから降ろしてスタンドに戻し、次のアコースティックギターを手に取って眺める。こちらは15年近く放置されていたそうでたしかに状態が良くなさそうだ。工具箱から交換用のセット弦とニッパーを取り出してカウンターに置いてからふと眼を上げると、闇の中の光は既に僕の数歩先まで近づいていた。まずいぞ、どこまで出来るかな、と口にする間も惜しく慌ててペグワインダーを工具箱から探り出す。楽器屋時代に気に入って買い、そのすぐ後にメーカーの取扱が終わって手に入らなくなった貴重品だ。先ほどのエレキギターではマシンヘッドを指で回して緩めた弦を、このペグワインダーを使って大急ぎで回す。弦が完全に緩んだら6本の弦をまとめて、真ん中からニッパーで切る。金属の線がたてる軋みを聞きながら、マシンヘッドに巻き付いた弦を全て外す。
ブリッジに留められた弦を外すのは、長く放置されたギターの場合は厄介だ。弦の根元を留めつけるブリッジピンが、樹脂にありがちな劣化のせいでブリッジの孔から抜けなかったりするし、ひどいときは孔の中に残ったまま折れてしまうことがある。予想どおり、ブリッジピンは最も太い6E弦をがっちりとくわえ込んで離してくれなかった。ペグワインダーの頭に備えられたピン抜き用のくびれを使ってもピンはスルリと抜けてしまうし、なによりいつもの僕とは比べものにならないくらいの弱い力ではピンも弦もびくともしてくれなかった。
頼むよ、抜けてくれ、と思わず独り言が口をつく。と、視界がふいに滲んでくるのに気づき、はっとして眼を上げて周囲を見回す。光はまだ作業用カウンターの少し先までしか浸透していなかったけど、ギターもピンも、交換用の弦のパッケージもぼやけている。もはや何をどうしていいか分からなくなった僕は覚悟を決めて、ゆっくりと目を閉じた。おそるおそる眼を開けると、先ほどよりもはっきりとギターが見え、そのブリッジで人を小ばかにしたようにぶらりと垂れ下がる弦が見えた。呆気に取られてしまったがしばらくして思い当たった。もしかして、これって涙か。今の僕の眼に涙が溜まることなどすぐには信じられなかったが、それくらい意地になって楽器の調整をしたことなら今まで何回もある。きっとその感情、感覚かな、それが襲ってきたのだろう。
眼をこすってピンを見つめているうちに、そうだあの手だ、と思い出した。弦をあえてボディ内部にねじ込むように押し込んで、ボディ内部にサウンドホールから手を突っ込んでピンの根元を押し上げるというやり方だ。いつもならサウンドホールの縁に擦れて腕が痛むのだがそれが全く無いのがありがたかった。弦をボディの中から引っ張るとズリズリという音とともに弦が入っていき、ピンを中から押し上げるとクキッという軽い音とともに孔から飛び出してきた。これならいける、と確信した僕はそのまま、他の5本の弦も全てボディの中からピンを押し上げるやり方で外した。
フレットはどうやら以前に磨かれたようでさびやくすみが無く、オイルを含ませたタオルで拭けば指板も艶を取り戻した。ボディをタオルで隅々まで磨いたらあとは新しい弦を張るだけだ。「あしたや」にはギターのチューニングが出来るスタッフは4人、ギターとアンプのつなぎ方を知っているのは2人いるが、ギターの弦交換が出来るのは僕だけだ。だから、他はともかくこのギターの弦交換だけは済ませておかないと。周囲を見回すと光はすぐ隣の赤井さんのデスクを飲み込んでいた。もはや僕に残された空間はたたみ一畳ほどで、その先はただ真っ白に塗りつぶされたようで、明るいはずなのに何も見えなかった。
弦のパッケージを開けて、最も太い6E弦をつまむ。弦の根元の、ボールエンドという輪っかをブリッジの孔に入れ、先ほど苦心して抜いたピンをその上から押し込む。あまり力をかけすぎるとついさっきの僕みたいに、次回の弦交換でまた悪戦苦闘することになってしまうし、かといって弱すぎると弦を巻き上げた時に、弦の引っ張る力にピンが負けてまるでロケットのように勢いよく飛び出してくる。普段なら店の天井にぶつかって落ちてくるピンを、すみませぇーんと笑いながら回収すればいいのだけど、もしピンがあの光のほうに消えてしまったらもう僕は拾い上げることが出来ないみたいだ。ここは初心に戻って、きっちりと留めておかないと。
いつもなら6本全ての弦をピンで留め、太い弦から順にマシンヘッドで巻き上げていくのだけど、今回は慎重に一本ずつピンで留めては巻き上げ、を繰り返した。おかげでどの弦もしっかりとブリッジに留まってくれたけど、弦を巻いているときにブリッジから、弦やピンがこすれたときのピンッ、とか、キンッという音が聞こえてくるたびにビクッとして弦とピンを押し込まねばならなかった。まるでギターを買ってから初めて弦を交換した高校生に戻ったみたいだった。
マシンヘッドの端に余った弦を切ろうとして手にしたニッパーがもはやバーベルのシャフトのように重かった。しかも切り落とした弦を放り込むダストペールがすでに光の中に浸されてどこにも見当たらなかった。仕方ない、カウンターの隅にかためておくから、明日出勤する誰かに捨てておいてもらおう。チューニングのために手に取った音叉も、いつもは二本の指でつまめるのに両手で、歯を食いしばって持たないと落としてしまいそうだった。しかし、カウンターの端を叩いて振動させた音叉からは耳を覆いたくなるような凄まじい金属音が轟きわたり、そのすぐ後に弾いた5A弦が聴こえづらいほどだった。もう僕の腕ではギターを抱えることが出来ず、カウンターに横たえたまま弦を軽く押さえ、ハーモニクスを鳴らしてはマシンヘッドで弦を巻き上げた。
僕を取り囲む光がマシンヘッドにたどり着こうとするその直前、1E弦と6E弦のうねりが消えた。音が合った。チューニングが完了した。僕の口から洩れたはずの大きなため息は僕の耳には聞こえなかった。眼を閉じて何度か深呼吸を繰り返し、ゆっくり眼を開けると何も見えず、真っ白な光が僕の全身を包んでいた。全てが光の中に包まれ、溶けて流れ出していくようだった。
(了)