日本人
新章……かどうか。
少年は、恐ろしかった。
ただ恐ろしかった。
召喚と同時に引き剥がされた幼馴染と妹。
そして、気づけば戦場に兵士として追い出されていた。
見目麗しい、あの優しげな姫が、彼を陥れたのだと分かって、慄いた。
ベーレン・ノーザという男の下——と言っても末端だが——そこで働かされ始めた。
ある日、自分を振り返って見た。
汚れた全身。貧弱な体躯。冴えない顔立ち。
おそらくは、己の同行者であった二人も、同じような目にあっていたのだろう。そう考えると、苦い思いが心の中に蘇る。
「……何もない」
ポツリと呟くと、胸の徴がふと痛み始めた。
「……なんだ?」
——盾となれ。
——盾となれ。
——盾となるのだ。
ざわざわと声が聞こえて、気づけば彼は大きな暗闇の前に立たされていた。むしゃぶりつくように他の人間を食らっているそれは、少年を見つけて喉を鳴らした。そして、一言漏らして、無感動な笑みを浮かべた。
気づけば、ただひたすら暗闇の中にいた。
孤独のみが加速して、いつしか狂い出した。
彼は自らが狂っていると自覚していて、なお孤独に、無為に、狂わずにはいられなかった。眠りも彼を守ることはできず、孤独のみが支配するその空間で、支えなど無いに等しかった。
そして、彼はようやく人と出会い、同時に殺されることになった。
——ああ、これで楽になれた。
安堵が体を包み、花が咲き誇ったような満面の笑みを浮かべたまま、その心臓は停止した。
その時もはや彼の頭には、彼を心配していたであろう妹や幼馴染のことはなかった。
「……うそ……だろ?」
ヌァザの物言わぬ骸の前で、ジギシャの顔色が蒼白となっていた。
「……我々の力不足でした。ヌァザさんが命を賭してくれたおかげで、我々はっ」
そこで不自然に途切れた声。
肩を震わせて、息を荒々しく吐き出すジギシャが、そこにいた。いつもの澄ました態度からは及びもつかないほどの激昂に、三人ともたじろいだ。
「……ふざけるな……あんたらどうして生きてんだよ!!どうして……どうしてっ……」
「討伐終わったか!!」
そこに駆け込んできたのは、ベーレン。ジギシャの怒りが悲しみに変わろうとしていた中で、その闖入者に対して顔色が真っ赤になっていく。
「……あ、あー……まあ、仕方ねえな。全滅しなかっただけでも、まだマシか」
「……マシ……?」
ジギシャが腕をふるった瞬間、その体が床に服を貫かれて縫い付けられていた。
血液が出ていないが、あと数ミリずれていたらジギシャは牢に放り込まれていただろう。
「……なんだよ」
「俺の育ての親が死んだんだぞ!?」
「そうだな」
「……ック……っ、お前、それでも人間かよ……!!」
絞り出した声には、すがるような声音とあらん限りの侮蔑が含まれていた。
「……俺ァ、別段その男に対してはなんの感慨も持って無いんでな」
「貴様っ、」
もう片方の手に持った武器が振り下ろされそうになった時に、トゥルシャナの手がそれを握る。
「……なに、するんだよ」
「私が止めさせました。ヌァザさんの伝言があります」
ハイルの言葉に、ジギシャの動きがピタリと止まる。
「……養父は、なんと」
「……何か伝言はあるかと問うと、わからぬと。ですが、幸せになってほしいと言われました」
その瞳の奥の感情は読みきれぬまま、揺らめいている。トゥルシャナは、その手を離した。
そこで、未だ下敷きになったままのベーレンが、苛立ったように舌打ちをするとその刃を引き寄せようとした。
「ッ、」
すぐに気づいたジギシャがそれを変形させて腰に戻す。
「……あんた、何しのうとしてるわけ」
「っせーな、お前がこの俺に指図とかすんじゃねーよ」
「お前はそれでいいんだろうぜ。だがな、てめーは殺させやしねえし死なせもしねえ」
「ハァ?冗談は顔だけにしろよ」
「……わかんねーかなァ!?」
その襟首をがっしりと掴んで、ゆすぶる。
「俺の最後の家族なんだよ!テメーが死にやがったら俺は何を生きる意味にするんだよ!確かにお前は憎いけどな……お前を殺すために今生きてんだよ、分かれよ!」
トゥルシャナは眉を困ったように八の字にすると、ジギシャを引き剥がして放り投げる。
「ぐべっ!?」
「全く、二人ともふざけないでくださいよ。戦いはまだ終わっていないんです。まだ、セグリアの馬鹿どもの始末を、つけていないんですから」
ベーレンとジギシャの両者がポカンとすると、そこに鈴を鳴らしたような笑い声がこだまする。
「くくくっ……確かに。トゥルシャナさんは、戦いが終わるまで、と言いましたからね。人が生きている限り永遠に、生殺与奪はトゥルシャナさんの手の内でしょう」
「な、……まじかよテレアン!?」
「マジです閣下」
頭を抱えてぬおお、と唸りだした男に、ジギシャは冷たい目を向けて、それから立ち上がった。
「……まあ、別に俺はどうでもいいですけど。トゥルシャナさんたちの、腕とか脚とか?色変わってますし、それだけ厳しい戦いだったってのもわかりますし」
言い訳のようなその声に、皆が笑った。
そして、話はとうとう討伐の状況にまで及び、中から出てきた少年の姿を見て、全員の顔色がざあっと変わった。
「これ……どこ、から出てきたって?」
「虚の落し子の中から、だそうです」
「……嘘だろ、そんな馬鹿な……おいっ、勇者の監視役はどうした!?」
「それが……担当者からはしばらく報告が上がっておらず。忙しそうでしたので、報告をわざわざするまでも無いこと、と……」
「っざけんな無能が!!」
異世界からの客人だ。それを戦いの最前線に駆り出して殺したとなれば、この場合ベーレンの科となる。
実際に指揮下においていたわけでは無いが、管理監督の責任は彼にあったはずだったからだ。
偶然だろうが、うまくやりおおせたなとセグリアのお偉方を恨むベーレン。
「……チィ、結局あのおっさんの言う通りかよ。胸糞悪いじじいだぜ」
「それはもしかして養父のことじゃあないですよねええ?」
明らかに絡んできたジギシャを無視して爪を噛み始めたベーレンに、さらに絡み始めて周囲に止められた。
亡骸はなぜか、この気候の中で腐りもしなかった。
亡骸の不思議。
そしてプロローグらしくない新章開始。




