第28章:変わるモノと変わらないモノ
見解の相違。
それは互いが人間であるならば避けることの出来ない大きな壁。
個々に個性があり、意思があるヒトは、真の意味で完全に分かり合うことなどできない。だからこそ人は時に交じり、時にすれ違う。
共感と反感は常に背中合わせ。どんなに相性が良かろうと、相容れないことというのは何かしら存在するものだ。
今回は、その相容れない意見が互いにとって簡単には曲げられない意志だったという、ただそれだけのこと。単純明快ゆえに、一度詰まれば簡単には解決できない。
場合によっては争いもやむを得ないと思う少年と、
何があっても争いをよしとしない少女。
どうあっても曲げられない意志が二人の間に強固な壁を作るというならば、
互いを求め合う主人公とヒロインは、どのようにしてその壁を壊すのか。
―――それは、二人がお互いを初めて意識した物語。
◇◇◇
「美夏、誕生日おめでとーっ!」
『おめでとーっ!』
パパン、とクラッカーが連続で放たれる。
「みんな……どうもありがとう」
至福の笑顔で美夏は言葉を紡いだ。彼女の目の前には吹き消されたロウソクが突き立つバースデイケーキ。明良が美夏のためだけに作った一品。毎年、美夏はこの瞬間が泣きたくなるほど嬉しかった。
「アキ、おじさん、それに雅人くんも。本当にありがとう。私、とっても嬉しい」
「うん、美夏ちゃんが喜んでくれてぼくも嬉しいよ。これからもずっと明良と仲良くしてやってね」
「姉貴と仲良くやってくのはすごい大変だと思うけど、見捨てないでやってください」
「ま〜さ〜と〜? あんた、そ――――んなにアタシのゲンコツくらいたいのか?」
「いてっ! マジで殴ることないでしょ!?」
「ふふ」
美夏は思う。アキと、この家族と知り合えて、本当に私は幸せ者だ。
上座に座っている中年の男性は春風直人。春風家の大黒柱。明良が小学生の時に奥さんを亡くして、以来男手一つで彼女達を育ててきた人物。しかし、天性によるものか家事などはなにをやってもからっきしで、明良の家庭的な面はそういう理由で培われたものらしい。
美夏の対面に座っている少し小柄な少年は春風雅人。明良の弟。現在は中学三年生でれっきとした受験生。そろそろ真面目に勉強を始めないといけないと最近よく嘆く、ごくごく普通の少年。
明良だけでなく、ここにいる二人も、明良の友達である美夏の誕生日を祝うためだけに時間を割いてここにいる。
たった四人だけの誕生会だが、昨日開かれたパーティなんかよりずっと楽しくて、嬉しくて、暖かい、と美夏は感じていた。
「そう言えば、今年は君のお父さん達は来ないのかい?」
「はい。一応、私の誕生日は昨日で終わってますし、二人とも今少し忙しくて……。あ、でも、来たくなかったわけじゃないですよ! お父さんもお母さんもここに来たいって言ってましたし!」
「そうかい、それは光栄だね」
「こんなボロ家に来たがるなんて、美夏先輩の親も変わってますね」
「雅人、ボロ家はないだろうボロ家は。父さん、この家を建てるためにどれだけ苦労したと……」
「はいはいそこまでにしろな親父。いっつもそうやって話してく内にお袋とのノロケ話になるんだから。
それよりも……ほら美夏、これ」
明良は床においていた包みを美夏に差し出した。
「わぁ……開けていい?」
「もち」
包みに入っていたのは手作りだと思われる首飾りだった。100円ショップなどでも売られているような材料ばかりだが、それでも手間隙かけてくれた品というだけで美夏は嬉しかった。
「ありがとうアキ。大切にするね」
「それじゃあぼくからも」
「あ、俺も」
続けて直人と雅人もプレゼントの包みを渡した。美夏は満面の笑みでそれを受け取る。少し、涙が出た。悟られぬように涙をぬぐう。
「さて、それじゃあそろそろ料理を食べようか。冷めるともったいないしね」
「そうしよそうしよ。あー腹減ったー」
「もう。雅人くん、これは私の誕生会なんだよ?」
「それとこれとはべつ。料理は早い者勝ちー!」
「ちょい待て雅人」
「うん? どうしたの姉貴?」
さっそくがっつこうとした雅人を明良が止めた。行儀が悪かったから注意するのかな、と美夏は思ったが、明良は時計と外を見るだけだった。そう言えばさっきからやけに時間を気にしていたし、よく携帯をチェックしていた。なんとなく美夏も時計に目を向けて見た。午後7時を少し過ぎたといったところだった。
「……あの野郎」
「姉貴まだかよー。俺マジで腹減ってんだよ」
「……そう、だな。よし! んじゃ乾杯!」
『かんぱーいっ!』
―――次会ったら絶対にぶっ飛ばしてやる。
食事の折に、美夏はそんな明良の言葉を聞いた気がした。
◇◇◇
来客を告げるチャイムがなったのはそれから一時間後のことだった。
「あ、俺が出るよ」
ジュースを飲んでいた雅人が玄関に向かう。楽しい談笑が一時的に途切れた。
「こんな時間に、一体誰なんでしょうか?」
「さあねえ。少しばかりうるさくし過ぎたものだから、隣の家の人が苦情を言いにきたんじゃないかな」
「わっ、ど、どうしましょうっ」
直人の冗談にも本気で動揺する美夏。いつもならそれを笑い飛ばす明良だったが、今ばかりは玄関に意識が向いていた。
―――雅人が来客を部屋につれてきた瞬間、明良の予想は現実になった。
「姉貴ー。なんか神代さんって人が来たから上がってもらったよ。友達? それともまさか彼氏?」
「待てこら。なんで俺がこんな男女を彼女にしなくちゃなんねーんだ。こんな奴と付き合うぐらいなら婚期逃したおばさんの方がマシぐばぁっ!」
「いっぺん死ぬ? マジであの世逝ってみる?」
「すでに半分逝ってます……」
美夏は、確かに一瞬思考のすべてを止めた。
「神代、くん……」
どうして。
―――どうして、こんな時に来ちゃうの?
◇◇◇
「いっつっ。本気で蹴りやがって……」
すげえ理不尽だ、と思いながら和輝は立ち上がろうとしたが、その前に明良が胸倉を掴んで強引に立たせた。
「今、何時だ?」
「……えっと、何時ですか?」
「8時だアホンダラ! 7時に始まるって言ったでしょうがこのスカタン! あんた、今度ばかりはさすがのアタシも―――ッ!!」
「待て。とりあえず俺の言い訳を言わせろ」
「言い訳だぁ!? 見損なったよ和輝! あんたそれでも男―――」
話を聞きそうにない明良に和輝は一枚の紙を突きつけた。
「これ」
「これがなに!」
「このメモ、住所間違ってんだよ」
………。
……。
…。
「え?」
明良は和輝からメモ用紙を引っ手繰って食い入るように見た。それは間違いなく昼間ファミレスで自分が手渡したメモで、そこに書かれていたのは……
「あ、それ俺の友達が教えてくれた定食屋の住所だ。そう言えば今朝電話で教えてくれてのをメモ用紙に書いたんだっけ。どこに行ったのか探してたけど、なんだ、姉貴が間違えて持ってったのぎゃああああああっ! 割れる! 頭が割れるーっ!!」
「納得したか?」
「……でも、それならなんで携帯で電話しなかったんだ」
「あー……それが、今朝ちょいとばかり通話のし過ぎで昼過ぎには電池切れになっててな。公衆電話で連絡しようにも、お前の携帯の番号なんて暗記してないし、家のなんて分かるわけない」
「じゃ、じゃあどうやってここに……」
「前に、大体どの辺に済んでるのかは聞いたことあったからな。走って探した。でも、やっぱ大雑把な位置じゃまったく分かんねえな。かれこれ二時間は走り回ったぞ。ほれ、このレンジでチンしたかのようなほかほか具合がその証拠だ」
「ご、ごめん……」
「謝罪はいいから、とりあえず飲み物くれ。マジで喉からからなんだ」
「わ、分かった。えーと……ほら」
「サンキュ……………ぶーっ!! テメェこれお酢じゃねえかっ!? 疲れた体にはお酢が一番ってか!? 余計に喉渇いたわっ!!」
「う、うっさいアホンダラ! ちょっとしたミスだろうが!?」
「なんでテメェがキレてんだーっ!!」
微妙な雰囲気が一転、いつものように騒ぎ出した二人。直人と雅人はきょとんとした表情でそれを見ている。突然のことにどう反応していいか分からないのだろう。美夏も呆然としていたが、こちらの場合はあまりにも予想外な展開に考えがぐちゃぐちゃになっているからだろう。
結局、和輝と明良が落ち着いたのはそれから十分後のことだった。
◇◇◇
軽く自己紹介を済ませた和輝は、直人の意向でパーティに混ざることになった。和輝としてもそのつもりで来たのだからなんら問題はなかった。
話のタネはもっぱら和輝達の学校生活だった。数学の授業で起きたカツラ浮遊事件、体育の時の殺人シュート、どこから見ても中学生にしか見えない担任教師、和輝と新城兄弟のバカ話の一部など……とても平和で普通な会話だった。
唯一普通でなかったのは、あまり会話に乗ってこなかった美夏だけだった。
美夏が意識的に和輝を避けていることは直人や雅人さえもすぐ分かった。和輝と視線が合いそうになるとすぐに逸らし、普通の会話にはしっかり応答しているのに和輝の話を振られると見ていて気の毒になるぐらい言葉に詰まる。料理をつつく箸もすっかり止まり、ただそこにいるだけの喋る人形のようだった。いつ美夏が「帰る」と言い出すとも分からない状況にアキも若干そわそわしていた。和輝も、そんな美夏になんて言葉をかけていいのか思い浮かばず、あまり彼女には話しかけられないでいた。
不意に、美夏が立ち上がった。
皆が一斉に息を呑んだ。
「―――少し、風に当たってきます」
そう言って美夏はリビングから出て行った。
「……ハァ」
思わず息をつく和輝。安堵している自分がひどく情けなくて殴ってやりたかった。
「おい和輝」
と、自己嫌悪に陥っているところに明良から脇を突かれた。
「何してんだよあんた。ようやく美夏一人になったんだ、話つけてこいよ。そのブツも渡さなきゃなんないでしょ」
明良が指差すのは家に入ったときから手に持っていた紙袋。ちらっと明良がのぞくと、大きなぬいぐるみの愛くるしい瞳が見えた。
「……うし」
一つ気合を入れた和輝は席を立つ。何を話せばいいのかはまだよく分からない。だがこのままにしておけないのも事実。とにかく今は、向き合わないと。
「ちょっと待ってください」
が、そんな和輝の決意はいきなり阻害された。春風明良の弟によって。
「なんだ?」
「神代さんと美夏先輩って、いつも『こんな』なんですか?」
「……いや。少なくともここまでぎくしゃくしたことはない」
「じゃあ、今のこの状況の原因……悪いのはどっちですか?」
「どっち、か……。それは見た人の意見によって違うからな。俺としては、間違ったことをしたとは思っていない。でも紅にとってはそうじゃない。お互いに意地を張り合ってるだけなのかもしれないな」
「意地、ですか」
「紅にはどうやっても曲げられない意地がある。もちろん俺にも。今回はそれが真っ向から対立しちまったんだよ」
「普通、そうやって対立する人は端から友達になんかならないと思うんですけどね」
「さっきからずいぶんトゲのある物言いだな。俺に文句でもあんのか?」
「ありまくりですよ」
ここにきて雅人の視線は『睨み』へと変わった。
「俺はね、姉貴ほどじゃないけど、美夏先輩とはそれなりに親密に関わってきました。あの人は俺のことをよくかわいがってくれるし、頼りになる。正直尊敬してます。でも神代さんがここに来て、先輩は悪い方向で別人になってしまった。
二人の間に何があったのかは知らない。でも俺にとって先輩をあんな風にしたのはあなたなんですよ。俺はこれ以上先輩のあんな姿、見てられないっすよ。だから、先輩をいつもの通りに戻してください。それができないなら、二度と先輩の前に現れるな」
「………」
その気迫に、和輝は少し息を呑んだ。
「ぼくからも一ついいかな」
続いたのは春風明良の父だった。
「紅グループのご令嬢に対して失礼かもしれないけど、ぼくは美夏ちゃんのことを実の娘のように思っている。あの子はとても穏やかで、優しい子だ。でも今の美夏ちゃんにはそれが見受けられない。とても思いつめた顔をしている。君も、ね。二人が何に悩んでいるのかは分からない。でもそれがぼく達が易々と首を突っ込んでいい問題ではないことは分かる。あの子を元に戻してあげられるのは、君しかいないんだ。
―――美夏ちゃんを、頼むよ」
「………はは」
和輝は、笑った。笑うしかなかった。
「紅の奴、こんないい人達に囲まれてんだな」
思わず、和輝は美夏を羨んでしまった。
「こりゃ、責任重大だ」
おかげで、気持ちが完全に固まった。
◇◇◇
紅美夏は、春風家の庭で月を見上げていた。
和輝は一度足を止め、数秒間その横顔を見た後、紙袋を持つ手に力を入れて歩みを再開した。
「私はケンカが嫌いです」
鋭い声が響いて、和輝はまた足を止める。二人の距離は、一歩踏み出して手を伸ばせばなんとか届くほど。その間には、目に見えない強固な壁が存在している。
「争いごとは、何も生み出さない。何も解決されない。憎しみや悲しみ、痛みの連鎖を広げるだけのとても愚かなことです。そんなこと、しちゃいけない。そんな悲しいこと、してほしくない。私のお友達には、特に」
ゆっくりと振り返り、今日初めて、美夏は和輝を真正面から見つめた。今度は逸らさない。とても強い意志を宿した視線が和輝を射抜く。だが、和輝には彼女の瞳が悩みに揺れているように見えて、なんとも言えない気持ちになった。間違いなく、彼女を悩ませているのは自分自身だ。だが理由が分からない。何をしていいか分からない。向き合っても、やはり適切な言葉は出てこない。
でも、知りたいと和輝は思った。
どうして彼女はあそこまで強い瞳を持つのか。あの意地は一体どこから来ているのか。
彼女のことが、無性に知りたい。
「紅は……どうしてそこまで、真っ直ぐにその意思を貫けるんだ?」
「“どうして”……よりによって、あなたがそれを言うんですね、神代くん」
「え?」
「私は昔、『ある人』にあることを教えてもらいました」
美夏は和輝に疑問に思う時間を与えずに、
「私達の周りには、人同士の衝突がたくさんある。少し見渡せば、誰かが争っている。この世界は大小さまざまなケンカが溢れている。それはとても悲しいこと。
……ちょっと考えれば分かることなんです。私達はべつに、最初から誰かを憎んで生まれてきたわけじゃないでしょう? 生まれたての人間は、言ってみれば絵の具の白。まっさらでなんでもないものだけど、なんにでもなれる。なんにでもなれるがゆえに、それは周りから数え切れないほど多くの色を取り込んでしまう。結果――人の心のパレットは、元が何の色だったのか分からないぐらいぐちゃぐちゃになってしまう。ぐちゃぐちゃになったパレットから溢れてくる意思は、その見た目どおり、ひどく歪んでいる。それは『悪』なんですよ。争いの素なんです。
だから、加える色は吟味しないといけない。いえ、むしろ色なんて加えなくていい。まっさらな白のままの方が、人は一番綺麗なんです。
ちょっとぐらいなら、他の色に染められてもいい。でも、私は出来るだけ、みんなに真っ白でいてほしい。そうなれば、この世から争いなんてなくなる。争いを起こす悪はいなくなる。この世界は平和になるんです。私は、そんな世界になってほしいと願っています」
「―――――――――」
和輝は、呆然とした。
美夏の言葉に、和輝はあらゆる言葉を失った。
―――俺は、紅美夏という少女を、とても大人びた子だと思っていた。
誰に対しても優しく、気立てもよく、お嬢様でありながら気取らない。でも、そんな庶民になじみやすい性質の中には、確かに気品があって、優雅で、考えがしっかりしている。この子は、きっと人の上に立てる人間になれる―――そう、思っていた。
バカだった。
出会ってまだ一月。そんな短期間で、彼女のすべてを判った気でいた。そんなわけはない。彼女が今まで見せていたのはほんの一部。それも表面だけ。その証拠に、彼女の真摯な言葉を聴いて、内面の一部を見て、和輝の中の『紅美夏』は呆気なく崩壊した。
初めて彼女を見たとき、綺麗だと、卑しい気持ちが起こる気配すらなくそう思った。どこまでも澄み切った瞳に吸い込まれそうだったことは今でも覚えている。どうしてこんな目が出来るのか、その頃から和輝はずっと疑問だった。でも、それはべつに疑問に思うようなことではなかったのだ。理由はとても単純で、分かりやすかった。それを今まで理解できなかったのは、紅の言うところの、『歪み』が俺の中にあったからだ。
「紅」
可哀想な子だと、思った。
綺麗だとは思ったけど、愛しいとは思わなかった。
「お前、その考えを俺以外の奴に話したことってあったか?」
「……ない、ですけど」
和輝は確信する。
俺が知る限り、同年代の中でもかなり大人びていると思っていた紅。でも違っていたんだ。彼女が綺麗なのは当たり前。だってそうだろ? 紅美夏は、俺の知る限り、同年代の中で―――いや、誰よりも―――
「お前、子供だよ」
「………え?」
見てて気の毒になるぐらいの、まっさらな色だった。
「紅は、なんでこの世から争いがなくならないんだと思う?」
戸惑う美夏に、和輝は言葉を紡ぐ。
「なんで……それは、だから、悪があるから……」
「違う」
即答。
「……っ! そんなこと、ない! 悪があるから人は争うんです! 悪が心にあるから醜い考えに支配されるんです! 悪があるから……!」
「違う。正義と悪があるから争いはなくならないんだ」
「え……」
何を言っているのか理解できない。
そんな表情を見せる美夏に和輝は言ってやる。
「こんなこと、観点を変えて少し考えれば簡単に分かることなんだ。童話の本があるだろ? 魔王に苦しめられている民達を勇者が助けるお話だ。ほとんどの人はこのあらすじを聞いただけでもう大体の内容は予想できる。そう、勇者が魔王と戦って倒すんだ。そして世界が平和になる。
……で、今言った戦いはなんで起こってしまったんだ?」
「……それは、魔王が民を苦しめたから……」
「違うんだよ紅。それは戦いが起こるまでの過程に過ぎないんだ。俺が聞いているのは戦いが始まることになったきっかけ。―――それは、勇者が登場したことだ」
「―――――え?」
「勇者が登場して魔王を倒すまで、確かに民達は苦しめられていた。だがそこに戦いはなかった。民達には魔王に対抗する術がなかったからだ。そこには一方的な暴力があっただけだった。それは争いとは言えない。もしそのまま何事もなく日々が過ぎていけば、民達は苦しむことにはなったが、戦争なんて起きなかった。
……だが、勇者の登場で民達は魔王に対抗する術を見つけてしまった。訳も分からないまま虐げられ搾取され恐怖を植え付けられ地を這う蟲ケラのように蔑まれ―――そんな不条理を押し付けてきた魔王に泣きっ面をさせることができるようになっちまったんだよ。だから民達はたまりにたまった鬱憤を晴らすために勇者にお願いしたんだ。魔王を倒して欲しい。魔王と戦って欲しい。戦争をして欲しい―――てな」
美夏の表情が青くなり始めた。それを見て和輝はつい言葉を止めそうになる。だが、ここで止めたら紅美夏は一生このままだ。そんなことに、してはならない。この子には、そんなことになってもらいたくない。
「紅。お前の理想には決定的な矛盾があるんだよ」
「……む、じゅん……?」
「この世界にはどうあっても覆せない法則がいくつもある。これもそのうちの一つなんだけど……あらゆる物事にはさ、必ず対になるものが存在しているんだ。そして、対となるものがあるからこそ、それは形として存在することが出来る」
例えば、それは幸と不幸。
例えば、それは理想と現実。
例えば、それは正義と悪。
「ここまで言えば、頭のいい紅には分かるよな」
「……悪がいるから、正義がいる。正義がいるから、悪がいる」
震える声で言う美夏に、和輝は頷いた。
「そういうことなんだよ。紅、もしお前の理想が仮に現実のものになったとしよう。この世から争いがすべてなくなり、みんながみんな笑っているような世界だ。
そこは確かに平和だろうさ。戦争もなければ小競り合いすらない、とても平穏な世界だ。理想郷と言えるだろうよ。でもな、俺はそんな世界に住みたいとは到底思わない。だって、そんな世界、気味が悪いじゃないか」
何かの拍子で誰かと肩がぶつかった時、その世界の住人は笑顔で謝罪を口にする。
何かの拍子で自分の大切な物が壊されても、その世界の住人は笑顔で許す。
何かの拍子で家族が目の前で車に轢かれても、その世界の住人は笑顔でその車を見送る。
「……まるで人形が暮らす世界だ。お前は、そんな世界に住みたいと思うのか?」
平和というものはどうして存在するのか。答えは簡単。比べるものがあるからだ。つまりそれは争いに溢れた世界。戦争という概念が存在しているからこそ平和という概念があるのであり、逆もまた然り。では、比べるべき争いがなくなれば平和という概念はどうなるのか。考えるまでもない。それはただの―――『無』だ。
「紅―――歪んでいるのは世界じゃなくて、お前なんだよ」
この言葉が、トドメだった。
今まで支えられてきた心は容易く折れ、膝から崩れ落ちた。
そこにいるのは、和輝によってパレットに色を加えられぐちゃぐちゃになってしまった少女。そのパレットは酷く醜かった。けれど、それは確かに『正常』だった。
「じゃあ……どうしろって言うんですか……?」
「……紅?」
美夏の体の震えはここに来てさらに増した。まるで寒さに凍える子供のように。
「私だって…最近、薄々は、感じ始めてた…。争いのない世界。誰もが笑っていられる毎日。そんなものを私は望んでいて――そんなものは、どこにもないと。それでも、私なりに努力をしてがんばって来たんです……」
声音は徐々に弱々しくなっていく。しかし、美夏は言葉を紡ぐことをやめなかった。そうすることで、必死に何かに抗うかのように。
「目につく争いごとはすぐに収めました。私自身、どんな些細なケンカもしないように努めました。中学の時は、戦争の悲惨さをテーマにした作文をコンクールに出して入賞しました。生徒会長になって、みんなの前でケンカやいじめがいけないことを真剣に話して禁止を促しました。
……けれども、私の周りにはやっぱり争いごとがあったんです。最初のうちはそれでもよかった。これからがんばっていけば必ずケンカなんてなくなると、信じていました。
でも、視野が世界全体に広がると、そんな考えは呆気なく砕かれてしまうんです」
どんどん弱々しくなっていく美夏は、とても儚く、軽く突いてしまえばそれだけで崩れ落ちてしまいそうなほど揺れていた。……良心が、痛む。和輝は何もかもを投げ出して、彼女を抱きしめてやりたい衝動にかられた。もういい、もういいんだ―――そう優しく声をかけてやりたい。
だが、それは許されない。それは優しさではなく、同情だ。そんなものでは、何も変わらないし、何も救えない。
「それでもね……それでも、私は納得できなくて、視野を狭めて、私だけの世界を作って、そこだけでも平和にしようと、争いをなくそうと、そう思ってしまうんです」
「……どうしてだよ。なんで、そこまでするんだよ……」
分からなかった。自分に嘘をついてまで『ある人』の教えを守っていこうとする美夏が理解できなかった。
「だって……それが、私とあの人を繋ぐ唯一の“つながり”だから」
「つながり……?」
こくり、と美夏は頷いた。
「私とその人との思い出は、とても短かった。そこに、何か特別なことがあったわけでもなかった。
ただ、公園で一緒に遊んだだけだったんです。
でも、でも……! 私は、あの時のことを忘れたことなんて一時もない! あれは、私にとって、他の何よりも大切な思い出なんです! ここにある今よりも、ずっと……!」
ようやく。
本当にようやく――少しだけど――紅美夏という少女のことが、わかったような気がした。
この子は、俺に似ているんだ。
昔の俺と同じ。
この子は―――過去の中で生きているんだ。
過去にすがることでしか前を向けない……そんな可哀想な女の子なんだ。
「紅、ひとつ教えてやるよ」
だったら。
まだ救いはある。
俺にだって。
―――救える。
「お前はその意思を、考えを、『ある人』とやらとの“つながり”だと思っているらしいが……」
何、簡単なことさ。
同じようにすればいいんだ。
過去にとらわれていた俺を救ってくれた―――あいつのように。
「それは、ただの一方通行の『依存』だよ」
えーと、はい、久しぶりの更新です。正確に言うと3ヶ月ぶりです。きゅーじゅーにちです。筆の早い作家さんならお話一本書ききっているような期間です。
告白しよう。すんげー遊んでました。
いやもう言い訳しません。というかできません。お前小説書く気あるのかと。その気持ちよーく分かります。作者もお気に入りの小説が突然連載休止にでもなったらよゆーでキレます。キレまくりです。盗んだバイクで走り出します。
とは言っても、これがわたくしめの性質なのだからしょうがありません。はい、今ご指摘なさったとおり開き直りです。こんなことじゃ読者さんが離れていくのは重々承知しているのですが……。
それはさておき。
今回の話、本当は一気に終わらせて次の段階に入りたかったのですが、思いのほか長ったらしく書いてしまって結構な量になったので二回に分けることになりました。うーん、やっぱりこういう深い心理描写は難しい。こういうシリアスが結構な頻度で出てくるものよりバカ一直線のギャグ小説でも書いてるほうが性に合っているんじゃないかと最近思ってます。まあ、それについては今後の精進次第です。
では、あんまり長々と後書きを埋めるとどんどん話が脱線していきそうなので、ここいらでいつものやつ、行っときますか。
〜〜次話予告〜〜
それまで信じて疑わなかった『道』が不意に途絶えたとき、人は失意のどん底に落とされる。そこから這い上がり前を見据えるのか、いつまでも立ち止まり自棄を起こすのか。―――和輝はかつて、後者だった。
美夏はかつての自分と同じ立ち位置にいる。そしてこのままでは、おそらく自分と同じ道を辿ってしまう。ならどうすればいいか。手を差し伸べるしかない。そして差し出す手を持つ人間は、今この場において和輝しかいない。ためらう必要など、どこにもない。
第29章「新しい始まり」乞うご期待。