間章:手のひらの人生
26章?いいえ、間章です。
そこは、一般人がたどり着くことは100%不可能の絶対孤立の要塞だった。
人目につかず、認識されることもなく、空気のように存在し、幾重にも及ぶセキュリティとトラップの張り巡らされた、その場所の中枢。内側から引き裂くように上へと進むエレベーターの中に、水城氷助はいた。
「……………」
幼い頃からの環境によりすっかり定着してしまった無表情のまま、無言で、身動き一つせず、立ったまま寝ているのではないかと思うほどの静かな空気の中、氷助は若干の苛立ちを覚えていた。
「なぜ、任務の途中でここに戻ってこなければいけないんだ」
“あの男”から電話があったのは昨晩のことである。あらゆる過程を飛ばしてただ「一度本部へ戻って来い」とそれだけを言って切れた通話。これから神代和輝をどう攻略するか、また一から計画を練り直していたところにこのわけの分からない招集。さすがの氷助もこれには文句の一つも言いたい。
(まあ、文句の言葉を並べたところで、一蹴に伏せられるのは目に見えているがな)
不幸中の幸いだったのは悠島魅風がとある任務でここにはいないことであった。最近は何かと絡んでくる回数が増えている気がするし、馴れ馴れしさも徐々に上がってきている。こんな時にまたあの女に突っかかられては、うんざりするにも程がある。
そうこうしている内に、氷助を乗せた電動の箱は頂上に着き、氷助は部屋の中へと踏み入った。
その瞬間に異変に気づいた。
「………ぉ」
「ぁ……ぐぇ……」
「ひ――ぃ――ぁ――」
地の底から這い出た死体が呻くような声。そして部屋に充満する独特の臭い。無駄であると分かりながらも、何かから必死に逃れようとする意思が肌に突き刺さる。
氷助はその臭いと意思を知っている。
血の臭いと恐怖だ。
「遅い。予定より三分の遅刻だ」
ろうそくの僅かな光で輪郭だけがおぼろげに見える男は、この異様な空気の中でもまったくいつも通りに言った。まるでこれが日常だとでも言わんばかりに。
「……こいつらは、なんだ?」
氷助の問いに、男は言葉にする時間ももったいないとでもいうように面倒くさげに、
「いつもと同じだ。任務に失敗した者達だよ」
「やはりそうか」
対する氷助の言葉も実に淡白なものだった。だがそれも致し方ない。この程度のことはこの場では本当に“日常茶飯事”なのだから。
氷助の属するこの組織は、表沙汰に出来ない舞台の裏側での事件を『任務』と表し、速やかにかつ確実に解決することで膨大な組織をまとめる資金を得ている。簡単に言ってしまえば、この組織は裏社会でトップに君臨する団体なのだ。
それ故に、その団体の中で生きていくためには『力』を示すしかない。
力のない弱者など、何の役にも立たないゴミ以下の存在なのだから。
ゴミは捨てられて当然の存在なのだから。
つまりは、今この部屋で転がっている数人の人間は、組織に“必要ない”と判断された弱者以外の何者でもない。大方、何かの任務で失敗して完全に信用を失ったのだろう。いや、元々信用などなかったのかもしれないが。
氷助は、無様に転がる者達を哀れとも、また男を恐ろしいと思うことはなかった。この光景に『慣れて』しまったというのもあるが、この場で行われていることは、表社会での常識とさして変わらない。どこの一流企業でも、結果を出せないものはクビが飛び、力のない者は疎まれる。それはもはや現代の社会において覆せない法則なのだ。
「ところで、この血生臭い空気と鬱陶しい声はどうにかならないのか」
「何をいまさら。既に嗅ぎ慣れ聞き慣れたものだろう?」
「どれだけ慣れようが、不快なものに変わりはない」
「確かに」
男はパチンと指を鳴らした。すると暗闇から音も気配もなく二人のスーツ姿の男が現れた。おそらくは、男の従者だろう。彼らは床に転がる『物』を軽々と拾い上げると、近くの壁にあるダストシュートのような穴へと放り込んだ。
いや、『ような』という表現は適切ではないだろう。あれはまさしく役目を終えた『物』が捨てられるゴミ箱に他ならない。
あの穴は何層も下へと続いており、潜り抜けた先には、血に飢えた狂乱者や拷問をすることに快楽を覚える者達がぞろぞろと待ち構えている。まさにこの世の地獄だ。あの『物』達はこれから、肉を引き裂かれ、眼球を抉られ、舌を抜かれ、爪を剥がされ、歯を強引に抜かれ、鎖に繋がれ、張りつけられ、死ぬまでいたぶられ、そして最後に残った臓器を売り飛ばされ金に変わるのだろう。あの穴に捨てられた『物』の末路など、それ以外存在しない。
「それで」と氷助は一つ間をおいてから問う。
「何故任務の途中で俺を呼び戻した?」
「………」
男は無言で、ファィルに納められた用紙を投げて寄越した。顎で「読め」と催促したのが雰囲気で分かる。
氷助は素直にそれを開いた。どんな重要書類かと思えば、今まで自分が本部へ定期的に送っていた、神代和輝に関するデータと任務の現在状況を記載したものだった。
「……これが一体どうし」
シュン
ザクッ
「……っ!」
手に持っていたファイルが、高速で飛来したナイフによって引き裂かれた。それに遅れて、鋭い針で刺されるかのような威圧が全身を突き刺した。
「どういうつもりだ?」
男は逆に、問うた。
「一体、いつまでそんな意味のない報告を続けるつもりだ?」
氷助の背に、大量の冷や汗が流れ落ちた。
「くっ……か、は……!」
無意識の内に息を止めていたのか、思い出したかのように呼吸を開始して少しむせた。
(これ、は……!)
震え出しそうになる膝を必死に押さえながら、氷助はそのあまりにも強大な威圧をこう感じた。
圧殺。
まるで周囲の重力が一気に重くなったかのような負荷。汗ばむ体。軋む心臓。一歩も動くことなく、ただの威圧だけで殺されるのではないか。氷助は本気でそんなことを思った。
「私がお前に与えた任務の内容を覚えているか?」
「……」
氷助はなんとか言葉を返す。
「言ってみろ」
「……神代和輝を、出来うる限り傷を与えずに捕獲すること」
「では質問を変える。その任務を受けてからどれだけの日数が経過した?」
「………っ」
この時になって、ようやく氷助は男が言いたい事を理解した。
「待て。確かに、今回の任務は長引いている。だがそれは慎重に事を進めているからだ。
神代和輝は覚醒者であることを除けば一般の学生に過ぎない。そいつを捕らえるためにはどうしても表の世界に姿を現さなければいけないが、俺達の存在が一般市民に知られるようなことが万に一つでもあるわけにはいかない。ならばどうしても慎重に慎重を重ねなければいけない。ある程度の遅れは仕方がないことで―――!」
「言い訳を吐かせるためにここへ出向かせたのではない」
男は静かに、重く告げる。
「水城氷助。死ぬことを恐れているな?」
「な、に……?」
死ぬことを、恐れる?
幾多もの生死の境を潜ってきた、この俺が?
「馬鹿な。そんなことあるはずが」
「なら何故神代和輝と直接対峙しない」
氷助は言葉を返せなかった。そのことに氷助自身が愕然とした。
俺は、恐れている。
当時、組織内でも最強と謳われた戦士達を一瞬の内に葬ったとされる“緑柱の悪魔”に、なんの抵抗も許されず殺されるのではないかと、無意識の内に恐れていた。いや、その恐れを隠していた。
戦士にとって、勝負を挑む前から死を恐れるなど、愚の骨頂に他ならないというのに!
「いいか、水城氷助。自覚がないようだからもう一度言っておく。
お前らは“駒”だ」
以前、任務を受けたときにも聞かされた言葉。
「駒には意思もなければ、感情もない。もちろん死を恐れるようなことがあってはならない。将棋の重要な場面において、捨て駒に逃げられることをお前は許せるか?」
氷助は完全に沈黙する。黙るしかない。この男は、要は俺に『お前が生きようが死のうがそんなことはどうでもいい。問題なのは任務が果たされるか果たされないかだ』と暗に言っているのだ。そして、任務を果たせなかったとき、俺はあの『物』達と同じ運命を辿ることになるのだろう。
悪魔に挑んで生死を分かつか、組織の資金源へと還元されるか。
選択肢が二つしかないなら、前者を選ぶほかない。
「長くても一週間だ。それ以上は待てん。あとで隠蔽できるレベルなら多少強引に事を運んでも構わん。神代和輝を捕獲しろ」
「……分かった。一刻も早く、奴を確実に捕獲する」
氷助は拳を固く握り締めていた。
◇◇◇
降下するエレベーターの壁に、氷助はずっと握り締めていた拳をぶつけた。そして、自分の置かれている今の状況を客観的に見て、あまりの滑稽さに笑えてきた。
いくら力を高めても、どれほどの結果を出そうとも、俺達の人生と、そして神代和輝の人生さえも、すべてあの男の手のひらで踊らされている。奴が俺を用なしと判断すれば俺は死に、奴が神代和輝を殺せと命じればあらゆる手段を以って神代和輝は殺される。
悠島、お前は以前言ったな。神代和輝を道化師と。
俺達は、その神代和輝と、どう違うと言うんだ?
答えが返ってくることは、なかった。
すぅぅぅいませんでしたぁあああああ!(ジャンピングスライディングからの土下座決行中)
はい、ご覧の通り間章です。26章じゃありません。またしても作者の構成ミスです。というわけで、26章は次回ということになります。次回予告も前回のということで。
ちなみに次回は、パロディネタが乱舞します。