Valentine's Day Lost Love
「あの、さ、ごめん、それ受け取れない」
「そう……分かった」
「悪い、じゃ」
背中を向けて歩き出す彼が立ち止まった先にピンクのコートに身を包んだ小柄な女の子がいた。
そこで初めて私は、この一部始終を見ていた女の子の存在に気付いたのだ。
私は至って落ち着いていた。
本当なら、泣いたり、怒ったり、するものなんだろう。
自分でも、ただただ驚きだったのだ。
私は彼のことがたいして好きでもなかったことが。
足が何かに触れて、紙袋を持っていたことを思い出す。
中身は、チョコレートブラウニー。
あぁ、これどうしようか、なんてまた冷静に考えている。
自分で食べてもいいのだけれど、五回の練習で飽きるほど食べたうえに、味見でも食べた。
まぁ、取り敢えず家に帰ってから考えよう。
そう思って歩き出す頃には彼もピンクのあの子もホームにはいなかった。
滑り込んできた電車がやけに空いていると思えば、普通列車だった。
別に急いでいるわけでもないし、とその電車に潔く乗る。
ドアに近い席にそのまま座り、紺の鞄と白い紙袋を膝に置いた。
景色が流れている。
見るともなく見るそれは、何だか私と彼の日々に似ていた。
目に留まるものもなくて、当たり前のように過ぎた日々。
例えば今過ぎたビルが、鉄塔であったっていいような曖昧な日々。
彼と行った場所が思い出せないわけではない。
それがただの記憶であって思い出じゃないだけだ。
昨日覚えた英単語と同じ。
ええと、なんだっけ。
そう、fragile。
意味は、思い出せない。
きっと、彼との日々も忘れちゃうんだろうな。
そのことを惜しいとも思わないのは、不思議なようで、どこか当然のような気もした。
だって、一つの英単語を忘れるたびに悲しんだりしないから。
家の最寄り駅に着いて、降りようとしたときに鞄に本が入っているのに気付いた。
お菓子のレシピ本。
バレンタインにブラウニーを作ろうと、図書館で借りてきたものだ。
返さないと。
一駅後で降りて図書館に向かう。
この駅から図書館までは5分程度。
ちなみに家からだと30分くらい。
バレンタインでも、ここだけは変わらずに金曜日の午後の空気が溜まっている。
返却のカウンターに本を持って行くと、メガネをかけた若い男性が受け取った。
この本を薦めてくれたのも、この人だ。
名前は広田さん。
「おいしくできましたか?」
優しい目をして広田さんは私を見た。
「はい、でも……」
私の言葉を遮るように、閉館の音楽が流れだした。
時刻は5時20分。
広田さんが事務室に向かって何か言ったけれど、よく聞こえなかった。
私は続きを言わず、挨拶だけをして図書館を出た。
そもそも、何て言うつもりだったのだろう。
でも、食べてもらえませんでした?
でも、ふられちゃいました?
でも……失恋しました?
わからない。
失恋は英語で何ていうんだっけ。
Broken heart。
でも、ブレイクした感覚はない。
壊すにはあまりにも脆すぎた。
「結城さん」
振り返ると、見慣れた黒縁の男性がいた。
「広田さん、どうしたんですか?」
「結城さんが予約してた本、届いてたのにさっき言い忘れちゃって、これ」
広田さんは鞄から写真集を取り出した。
それは風景ばかり写っているもので、私が二週間前に予約した本だ。
「ありがとうございます、わざわざ」
「好きなの?」
「えっ?」
「この写真家さんの本、よく借りてるから」
「あっ、本の話ですね、はい、好きです、とっても。高いところから見た風景が多いんです。山の上とか、タワーの最上階とか」
広田さんはなぜだか嬉しそうに笑った。
「結城さんも見に行ったりするの?」
「見に行きたいんですけど、あまり高いところ、無くて」
広田さんは、少し黙って、俯いた。
そして、ふいに顔を上げて口を開く。
「あの、これは、図書館の職員としてじゃなくて、その、ただの一般人として、言うんだけど、二駅先に見晴らしのいい場所があって、だから、見に行きませんか?」
今日は家庭教師の先生が来る日じゃないし、お母さんの帰りも遅い。
メールしておけば大丈夫だろう。
「あっ、すみません。今日、バレンタインでしたね。忙しいですよね」
「いや、忙しいわけではないんです」
広田さんはせわしなくばたつかせていた手を止めた。
「Broken heartって言うんですよね? 失恋のこと。何だかそんな感じはしないんですけど」
「Lost loveとも言います」
「あっ、そっちの方が近いかもしれない」
私と広田さんはどちらからともなく笑い出した。
「そうだ、広田さん、もう一つ聞いてもいいですか?」
「かまいませんよ」
「fragileってどういう意味ですか?」
「脆い、だったと思います」
「あーっ、昨日覚えたのにもう忘れてた」
「結城さん、私からも一ついいですか?」
「えっ?」
「その紙袋の中身、僕がもらっちゃだめですかね?」
私は一瞬呆気にとられて、それから、笑って紙袋を差し出した。
広田さんも笑っている。
二駅先はたいして遠くもないのに、行ったことがなかったと気付いた。
電車を降りると、私は驚いた。
「観覧車!!」
「意外と大きいでしょう、結構遠くまで見渡せるんですよ」
普段はそれほど人気があるように見えないこの観覧車も、今日は短い列ができている。
順番がきて、私たちは小さな箱の中に納まった。
ぐんぐんぐんぐん上がっていく。
おわりを知らないみたいに。
「わぁ」
「きれいでしょう」
「はい、なんだか、壮大なイルミネーションみたいです」
私は夢中で窓に張り付いた。
どれが、何の光なのかなんてどうでもよくなって、私が今見ている景色全体が一つの大きな輝きのように見える。
ここからしか、見られない景色だ。
とてつもなく美しく見えるこの景色は。
この場所にあるのが、ビルでも鉄塔でもなく観覧車じゃなきゃいけないように、この景色を見るのも、広田さんとじゃないといけない気がした。
てっぺんを過ぎて、観覧車は私たちを地上に近づける。
「広田さん」
「はい」
「ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ、ありがとうございます」
広田さんの頬にはチョコレートブラウニーがついていた。
「広田さん」
指で自分の右頬を指して言うと、広田さんはあわてて、頬を拭った。
「せっかくなので、この景色を見ながら食べたかったんです」
恥ずかしそうに言う広田さん。
私たちはまた、小さく笑いあった。
ブレイクしない強さがほしい。
今ここにあるすべてを、ロストしたくない。
私に、わかるのはそれだけだ。
それだけで、充分だ。
最後までお付き合いくださりありがとうございます。
よろしければ感想などいただけると嬉しいです。