第参話 くノ一
尭之助は目をつぶり、大きく息を吸った。
「せ……」
「隙あり!」
能心は蝉時雨で尭之助の頭をこつんと叩いた。
「いててて! 痛いでやんす!」
「打ちどころによっては、人を殺めることができると言ったろう?」
「そういうことでなく……」
「お? なんだ? 反論か? 俺が卑怯だとでもいいたいか?」
「そんなに“?”で攻め立てられても……。卑怯とは言わないでやんすけど、気合いぐらい入れさせてほしいでやんす」
「はぁ? じゃあさ、お前が戦国時代に生まれてたとして、目の前に敵将がいたとするよね? その時に『今から気合い入れるからまってくれでやんす~』とか言うわけ?」
「それはそうでやん……そうでございますけど」
(“やんす”を真似されて、意識したら変な敬語になった)
「まあ良い。いいか尭之助、刀の道を極めようと思うなら、敵の前で決して油断するな! もう一度だけチャンスをやろう。今度は油断するなよ」
「へい! わかりやした!」
今度はじっくりと能心の目を見つめ続ける尭之助。
「いきやす! せい!」
本気で紅葉颪を真上から能心に向かって振り下ろす。
能心は口元に笑みを浮かべながら体を少しだけ横に動かす。
「縦からの剣は横へ避ける」
「なんの!」
今度は横方向へ刀を走らせる尭之助。
それに対して少しだけ後退しつつ体をそらす能心。
「ほら尭之助。かすりもしないよ?」
「ぬう! じゃあこれはどうでやんすか!」
体から真っ直ぐ前へ刀を突き出す。
能心は素早く身をかわした。とその瞬間、尭之助の真横に移動した。
「そんなんじゃ、紅葉颪に蝿が止まっちゃうよ?」
と言いながら、蝉時雨を尭之助の背中に向けて斜めに素早く振り下ろす。
「ひ、ひえぇ~」
前のめりになる尭之助に蝉時雨が襲いかかる。
体に当たるか当たらないかギリギリの所で、蝉時雨はピタッと止まった。
「俺が真剣を持っていて、殺そうと思っていたら、お前は死んでいた」
尭之助は息を乱し、顔中に汗をかいている。
「蝉時雨でも本気で当ててたら、背骨は粉々だったね」
「へ、へい……」
「どうだ尭之助。侍っていうのは、ほんの些細な失敗で命を落とすんだ。お前はそれでも侍になりたいというのか? そこに刀があるから? もしお前が、山に帰って樵に戻るって言っても俺は非難しないぞ」
尭之助はすっかり意気消沈している。
「どうした? 返事ができないか?」
尭之助はこくりと頷いた。
「そうか。ゆっくり考えてくれ。正直な所を言うと、夏風流剣術道場も住み込みはキツいんだ。でも尭之助が“やる”と言うのなら迎え入れる。武士に二言はないからな。俺は先に帰ってるから、もし続けるなら、戻ってこい。辞めるのなら、このまま山に帰れ」
能心は尭之助に背を向けた。
尭之助はずっと俯いたままだ。
(もうちょっと少食なら大歓迎なんだけどな)
能心が砂浜を去ると、尭之助の耳には波の繰り返す音だけが響いた。
日が西に傾きかける中道場に戻ると、能心は何者かの気配を感じた。
(んー、殺気はない。物とりでもなさそうだな。では何奴?)
「ただいまぁー。あ、俺一人暮らしだから、誰もいないんだった。失敬失敬。って誰に謝ってんだよっ! 俺!」
道場の方から押し殺した息が聞こえた。
「さーてと……お父さんは厠に行くとするか。あ、俺独身で子供もいなかったわ。失敬失敬」
「くすくすくすくす」
今度は笑い声がハッキリと道場の天井の方から聞こえた。
「で? 屋根裏にいる人? 何してるの?」
「にゃおーん」
「なーんだ。ただの鼠か」
「猫だ!……し、しまった!」
女の声だ。
「ほほう、女子か。恋文ならば屋根裏からではなく、草履箱に入れてくれないかなぁ。あ、手渡しでもいいよ。出てきてごらん」
能心は刀に手をやった。攻撃されない自信はあったが、念のためだ。
「見つかってしまっては仕方ない」
梁から人が飛び降りてきた。
足音もなく着地した女はその場にしゃがみ込んだ。
「お前……くノ一か」
夏だというのに長袖の深紫色をした装束に身をくるみ、左右の腰にはそれぞれ小太刀を一本ずつ差している。頭には同じく深紫の頭巾、顔には口当て。長い睫毛にぱっちりとした二重瞼、そして茶色い目だけが露出している。
「何故あたいがいるとわかった?」
くノ一は立ち上がりながら言った。身長は150センチぐらいと小柄だ。
「うーん。なんとなく?」
「完全に気配を消していたのに……」
「で? 俺の家で何をしてたの?」
「しばし身を潜めていたんだ。道場のくせにがらんとしてたからな」
(がらんとしてて、悪かったな!)
「今は出稽古をしていたんだ。お前も稽古をつけてやろうか?」
「“お前”じゃない! あたいには“芭風ありん”っていう立派な名前があるんだ!」
「ばふうありん? じゃあ“ありん”でいいな。どうだありん」
「くっ、呼び捨てか。あたいに稽古をつけるって言ったよね? やめといたほうがいいよ。こう見えて、里では師範代の一歩手前まで行ったんだから」
「へぇー、すごいじゃん。まあ、俺は師範だけどね。ところでありんって何歳?」
「何歳でもいいだろう! どうすんるんだい! やるのか? やらないのか?」
「どーしよっかなぁ……。でも女子には優しくしないとなぁ」
「おい、お前! あんまりふざけてると本気で怒るよ!」
「“お前”じゃないし。俺には“夏風能心”っていう立派な名前があるんだよ」
「ふざけやがって……」
ありんは能心を睨みつけた。
「能心様ー! あっし、やりやす! 立派な侍にしてくださいでやんす!」
(尭之助の間の悪さは天下一品だな。おっ! そうだ!)
「おう! じゃあ早速だが、このくノ一と立ち合ってみてくれ」
「えぇ?」
「えぇ?」
能心の期待通りステレオで「えぇ?」が聞こえてきた。
二人の視線が能心の両横顔に突き刺さった。