第弐話 蝉時雨
「お、おい尭之助……た、頼む! 道場の神棚に薬があるから取ってきてくれ」
「へ、へい! わかりやした!」
オロオロしながらも脱いだ草鞋をきっちりと揃えて置き、板の間の道場に上がる尭之助。
そして神棚に二礼二拍手一礼をする。
「そんなことどうでもいいから、早く薬をくれ!」
「どうでも良くないでやんす。神様を雑に扱ったらいけないでやんす。それで薬はこれで?」
手に持っているのは塩が盛ってある皿だ。
「そうそう! それって舐めるとしょっぱいんだよね! ってちがーう! それは塩!」
「ええと、じゃあどれでやんすか?」
能心がきちんとノリツッコミをしてあげているのに、尭之助はイライラしている。
その様子を見て、能心もイライラしている。
油蝉の鳴き声が二人のイライラを増幅させる。
「もういい! 自分で取る!」
能心はすっと立ち上がると、草鞋を脱ぎ捨て道場に上がり、踏み台を神棚の前に置いた。
そしてその上に乗り、神棚にあった“薬”と書いてある濃紺の巾着袋を取った。
「あれ? 能心様、歩けるんでやんすか?」
「当たり前だろ! 歩けないほどだったら、一人の時はそのまま死んじゃうじゃないか!」
「なるほど……」
その理屈はあっているのか?
薬を飲むと、能心の顔色は途端に良くなった。
「その薬、本当に効くんでやんすね」
「まあな。ところで尭之助、ここまで来るのになんだって?」
「そんなこと言ったでやんすか?」
前回を読めばわかるが、確かに言っている。
「あー……。言いやした。ここまで辿り着くのに相当大変だったんでやんす。住み込みの門下生を受け入れてくれる所なんて、そうそうないでやんすから」
「えっ? 住み込み?」
「へい。本当に能心様は心の広い方でやんすね!」
「き、聞いてないけども。聞いてないけども」
「大事なことなので2回でやんすね。へい、言ってやせん。でも、受け入れてくれるんでやんすよね? 武士に二言はないでやんす」
「お、おう」
(くそ。“武士に二言はない”なんて言葉を持ち出すとは!
まあ、いいか。尭之助は腕も立ちそうだしな。でもこの体格だから、大食いなんだろうなぁ)
昼食の時間になり、道場でもある板の間で食卓を向い合せにして二人でご飯を食べると、能心の予想通り尭之助はばくばくとご飯を食べた。
「やっぱり米はうまいでやんす」
この一言に能心はカチンときた。
「あのさ尭之助。そりゃあ米は美味いよ? でもさ、そんなに一気にかきこんだら、味もなにもわからないだろう?」
「わかりやすよ! 米と芋の違いはいくらあっしでもわかりやす!」
「そういうことじゃなくて……。あのね“武士は食わねど高楊枝”って言葉知ってる?」
「ほほう。そんな言葉があるんでやんすね。さすがは能心様。で、どういう意味でやんすか?」
「武士は食べられなくても、楊枝をくわえろってこと!」
「変な言葉でやんすね。でも、覚えておくでやんす!」
(いいんだ? それでいいんだ?)
「さて、腹ごしらえも済んだし、いっちょ気合い入れて稽古でもするか!」
「待ってました! でやんす」
「よし! じゃあまず、海へ行こう!」
「へい!」
稽古と言いながら、なぜか海へ向かう二人。
15分ほど歩くと、それほど広くもない砂浜に出た。端から端まで1キロぐらいであろうか。
着流し姿の二人組が砂浜に立ち、潮風に吹かれている。
「では尭之助。まずはこの砂浜を走って往復するぞ!」
「へい! 砂浜は足が取られて走りづらいでやんすから、筋力を付けるには持ってこいでやんすね」
(言いたいことを言われた……)
「ごちゃごちゃ言ってないで、着いてこい!」
能心は言うなり猛スピードで走りだした。
「あ、いきなりずるいでやんす!」
尭之助は慌てて後を追いかけた。
「はぁ、はぁ、はぁ。どうだ尭之助。キツいだろ?」
「はぁ、はぁ、はぁ。へい、キツいでやんす。もう足が動かないでやんす」
「これぐらいで音を上げてたら、侍なんかにゃ到底なれないぞ!」
「へ、へい! で、次は何をやるんで?」
「ちょっと休憩」
「へい……」
砂浜に打ち上げられていた太めの流木に腰掛けて、暫し潮風に打たれた後、能心は立ちあがった。
その姿を見て、尭之助も慌てて立ちあがった。
「よし! 次は素振り! と思ったが、尭之助、俺の腕前を見てみたくないか?」
「ええ? 見せていただけるんでやんすか? もちろん見たいでやんす!」
「そうだろう、そうだろう」
能心は袖をまくり上げて、腕を見せた。
「それ、さっきあっしがやりやしたけど……」
「お、おう」
能心は腰に差した二本の刀のうち一本を鞘から抜いた。
「ええ? 能心様! その刀……いや、木刀はなんでやんすか?」
尭之助がビックリするのも無理はない。能心が鞘から抜き出したのは、金属製の刀ではなく、木製の刀だったのだ。
太陽の光を浴び赤黒く光ったその木刀は、鋼でできた刀よりも美しく見える。
「この蝉時雨は、それはそれはありがたい刀だ。琵琶の木から作られているのだが、見ての通り鋼の刀と同じ長さ、同じ厚みをしている。こんな細身の木刀だからと言って侮るなよ! 当たり所によっては人を殺めることだってできる! では尭之助、かかってこい!」
「かかってこいって……。あっしはこの紅葉颪しか持ってないでやんすけど」
「もみじおろしでも大根おろしでも、なんでもいいからかかってこい!」
ゴクリと固唾を飲みながら紅葉颪を鞘から抜く尭之助。
蝉時雨という名の木刀を両手で構える能心。
寄せては返す波の音が、二人の呼気をかき消した。
見つめ合う二人の間に、暖かく、少しべとついた潮風が流れた。