第壱話 能心と伊武
――「いつ?」と聞かれれば「江戸時代」としか答えられないし、「どこ?」と聞かれれば「日本」としか答えられないが、とにかく! 昔の日本にはこんな侍がいたんだよっていうのがこのお話である。
海からほど近いとある場所に、その侍はいた。
姓は夏風、名は能心。
類い稀なる剣技の持ち主で、出生不明の郎党(※武士の血筋ではない者)ながらも主人(※武士)からの許しを得て、つい先日、剣術道場を開いたばかりの“なりたて師範”。
年齢は二十七歳で中肉中背、きれいに結われた髷の下には、決して“ぶ男ではない”顔つき。とっくに妻をもらっても良い年頃だが、出生が謎だということに付け加え、これといった良縁もなく、やむなく独身を貫き通している。
「いやー、まいった、まいった……頭が痛いなぁ」
庭の一角に咲いている向日葵を眺めながら、能心はため息ともつかぬ声を発した。
というのも、剣術道場を開いたのはいいものの、門下生が全然集まらないのだ。
「出世払いで譲ってもらったこの道場も、このままでは手放さなければいけなくなっちゃうな……」
この時代に“出世払い”という言葉があったのか?
細かいことは、気にしない。
とにかく門下生を一人でも多くゲットしなければ、道場の未来はないも同然。
築何十年になろうかという道場も、主人の心を表すかのように、寂しげに夏の朝日を浴びている。
数時間後、一人の男がこの“夏風流剣術道場”の門を叩いた。
「御免ください! ちょっとお伺いしたいのでやんすが……」
身長180センチはあろうかというこの大男は、その図体の割に気の弱そうな面持ち。
髷というよりは、ポニーテールのような、おおよそ侍とは言えないような髪型で、無精髭も蓄えている。
腰から刀をぶら下げていなかったら、ホームレスに間違われるかもしれない。
「瓦版は間に合ってるよ。いくら石けんや相撲の入場券をくれても、もう数年先まで読む予定はないし」
「いえ、そうではないでやんす。こちらの道場では門下生を募集していないかなと思いやして」
「おっ、入門希望者? ただいま門下生大絶賛募集中どぇーす!」
「それは良かったでやんす! あっしはここまで辿り着くのに……」
「その前に! あんたの腕を見させてもらおう。さあ庭へ」
「腕だったら中に入らなくてもほら」
大男は腕をまくりあげた。
(こういうボケは嫌いじゃないが、ここは甘やかしてはダメだ)
能心は黙って大男を庭へ促した。
剣術道場の割に狭い庭で、能心は大男に巻き藁を斬らせることにした。
巻き藁とは、現代でも良く見かける日本刀でスパッと斬られる藁の束。
ただ能心が用意した巻き藁は、芯の部分にちょっと固めの竹が入っていて、そう簡単には斬れない。
その巻き藁を適当に八か所に置き、
「あんたの好きなように斬ってみて。俺はちょっと離れた所から見させてもらうから」
大男は緊張した面持ちで鞘から刀を抜く。
その刀、かなり変わった形で、柄から剣先に向けて、刀身が徐々に大きくなっている。
(なんだあの刀。あんなの振り回せるのか?)
能心の食い入るような眼差しを感じながら大男は刀を構えると、いったん目をつぶり大きく息を吸った。
「せい!」
気合いの一声で大男の目つきは変わり、一本、また一本と、速度は遅いが力強く、確実に、八本の巻き藁を斬り倒した。
「お見事! 名はなんという?」
「見事だなんて、恐れ多いでやんす。あっしは伊武尭之助でやんす」
「ああ、そっちの名前ね。では尭之助、いま一度聞く。その刀の名はなんという?」
「あっ、刀の名前でやんしたか。鍛えた者が申すには“斧刀・紅葉颪”という名前だそうで……」
「もみじおろし? 人参とは関係ないよね?」
庭の一角に置いてある竹製の長椅子に並んで座り、西瓜を食べながらお互い自己紹介をしたところ、尭之助は高名な樵だったそうで、本名は秋野小助。地元の樵業界では小助の名前を知らない者はいないぐらいの腕の持ち主なんだとか。
樵時代に知り合いだった斧職人が趣味で鍛えた刀が尭之助の持つ“紅葉颪”。どうりで変な形をしているわけだ。
「そのまま樵をしていれば生活も安定し、きれいな嫁さんをもらって、子宝にも恵まれて、何不自由ない生活を出来ただろうに、なにゆえ侍になろうと思ったんだ? ぷっ」
「そこに、刀があるからでやんす。ぷっ」
「意味わかんねー。ぷっ」
西瓜の種を飛ばしながら二人は話す。
「では能心様は、なにゆえ侍になったでやんすか? ぷっ」
「私か? 女子にもてはやされたいからに決まってるだろ! 女子にモテたい一心で頑張ってたら、いつのまにか師範になっていたというわけだ。ぷっ。尭之助もモテたいだろ? な? な?」
「えぇ……まぁ……ぷっ」
「よし! 決まりだ! 今日から伊武尭之助を門下生として迎え入れる! 道場の名前も“モテモテ道場”に変える! ぷっ」
「え? いいんでやんすか? そんな名前に変えても……ぷっ」
「まず尭之助は、冗談部分と本気部分の見極めが出来るようになるのが当面の課題だな。……あいたたた、頭が……痛い」
「へい! 懸命に努力するでやんす! で、その急に来た頭痛は冗談でやんすよね? ぷっ」
「や、やはり……み、見極めが……」
額を汗でいっぱいにし、もがき苦しむ能心。
どうしたらいいのかわからずに、あたふたする尭之助。
油蝉のジージー鳴く声が、やたらと大きく感じられた。