4.身体なんてくれてやる
4.
途端に身体の変化は始まる。
内臓に焼けた鉄を直接打ち込まれたかのような違和感。ぐちゃぐちゃに捏ね繰り回され、身体の平衡感覚に異常が発する。骨という骨が軋み、膝や肘などの関節部に熱が篭る。あまりの痛さにのた打ち回りたくなるが、敵を前にしてそのような醜態をさらす訳にはいかない。冷や汗で濡れる瞳を閉じ、鋭く伸びた犬歯で唇を噛み締める。
あまりの痛みに地面に足を突き刺す。普段よりも力の込められたそれは土の地面を踏み砕いた。何時の間にか肩で息をしていたのか、喘息のように苦しくなる。貪るように浅い呼吸を繰り返し、次第に腹で息を出来るようになっていった。
クオーツの視界に入る腕には真っ白な毛皮に包まれている。両手共に手は大きくなり、指は長く太くなっている。腕の毛皮は特に分厚くなり、外敵から身を守るための機能を有しているように見えた。更に指先からは爪が伸び、蒼苔の薄らとした光を反射して鈍く輝いている。この爪は鋭くはないが、頑強に出来ている。もし岩に叩き付けても折れる事は無いだろう。
着ている衣服の上から包み込むように毛皮は展開されているらしく、胴体や下半身も例外ではなかった。
足の指先からも手と同様に爪が生え、毛皮で覆われている。手と違って足のほうの爪は地面に食い込むように伸び、足場を固定しているように見えた。更に腰から伸びた尻尾は一層伸び、地面に着くほどの長さになっている。もはや三本目の足と言えるだろう。
「――ふっ――はっ――はああ……ッ」
息を吐き、整える。
腹に力を入れて行うそれはクオーツの師匠が"息吹"と呼んでいたもの。人狼が変異する際には激痛が伴うので、その度にクオーツはこの儀式を行う。
何故か痛みが軽減される気がするのだ。
さて、クオーツがこの形態を取らなかった事には訳がある。
とても好戦的になるのだ。
戦闘の色香に釣られて尻尾は今も頻りに振られている。見つめているのは強大な敵だった。
溶岩を固めたような赤黒い鱗。天井に当たらないように低く屈められた体勢。縦に裂けた黄金色の瞳。振るわれれば全てを薙ぎ払う強大な尾。
前足は地面につかないぎりぎりのところで浮いており、それで獲物を捕食して喰らい尽くす。今もわきわきと握られ、鋭い眼で自らを挑発する愚物を見下ろしていた。
そして。
強者は誰なのか、知らしめるように尊大に。
「――オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!!!」
吠えた。
このドラゴン――名を地竜王タイタンと言う。
強靭な足から生み出される疾走は人には抗えないほど。地上を走る様は覇王と呼ばれ、幾つもの都を滅ぼした。
その所為だろう。
過去に存在した多くの勇者達が彼らに挑み、果て、そして終には打ち勝ち、辺境の地へと追いやった。
人間たちの中では知らない者がいないと言われるほど有名な英雄譚。決まってタイタンはやられる側だ。
今回はどうなるのか。
内心冷や汗を流すクオーツは当時タイタスレックスに挑んだ勇者達の気持ちを本当の意味で理解した。
背に守るものがあるから。
足の震えは正直だ。
――逃げたい。正直、今すぐ尻尾を巻いてこの場を去りたい。
許されない事だ。
ここで逃げればきっと自分に対して妥協し続ける事になる。
それだけはどうしても嫌だ。最も嫌う人と同類になってしまうという事実がたまらなく怖い。それに比べれば命など些細なものに過ぎない。
だから虚勢を張る。
左手から伸びた爪を美味しそうに舌なめずりして一言。
「来なよ」
指先をちょいちょいと動かして招いた。
それが合図となった。
タイタンレックスは前足でクオーツを踏み付ける。さも蟻を踏み潰すかの如く無慈悲に。
クオーツは"人狼化"によって強化された脚力で横に跳ね飛んで回避した。視認する事すら難しい超人的な速度の前では踏み付けなど止まって見えるのだが、どんな動きにも隙というものがある。凄まじい速度で駆けた場合、減速する時にも同じ力が必要となる。それらが拮抗した時にようやく止まれる。その時は確実に身動きが取れない状態になるのだ。
地上で武勇を誇った事のある――詩で脅威を詠われる事のあるタイタスレックスが見逃す筈もない。
大きく口を広げ酸素を貪る。それこそ台風のような轟音を立ててだ。そして体内にある魔力を口腔に抽出し、牙を思い切り打ち鳴らす。
吐き出されたのはクオーツの身体を包んでもなお余る大きさの火炎弾。蒼苔で薄く照らされる闇を切り裂き、クオーツへと飛来する。
だが所詮は炎。何かを伝染して燃え移るのならまだしも空気中ではどうしても動きが遅くなるものだ。優れた身体能力と鋭敏な五感を持つクオーツが避けれない筈もない。
体勢を尻尾で無理に整え、身を屈め、火炎弾と地上の間にある隙間にスライディングで滑りこむ。起き上がるにも尻尾を利用して跳ね起き、屈んだ姿勢で炎を吐き出したタイタンの頭上に躍り出た。
「はああああああっ!」
気合一閃。
鱗で覆われていない鼻っ柱を鋭い爪で切り裂いた。
どす黒い鮮血が迷宮に飛び散る。
その時だ。
苦痛に顔を歪ませるタイタンと目が合ってしまった。
黄金色の瞳には絶対者の憤怒が浮かんでいる。
タイタンの中で意識変革があったのだ。
先ほどまではクオーツの事を火の粉程度にしか思っていなかったのだろう。耳元で飛ぶ五月蠅い蠅といったところか。せいぜいが叩き潰して終わり、という感じだろう。だが、今明確にタイタンはクオーツの事を敵として認識した。
必ず殺してやる。
大きく開かれた口から放たれた咆哮には明確な殺意を孕ませていた。
音で空気が揺れている。ただそれだけの事なのにあまりの騒音に聴覚が麻痺し、内臓がかき回されるようだ。
総毛立つ。尻尾は嵩を増してぴんと張り詰め、全身怖気で小刻みに震えてしまう。
恐怖が身体中に伝染し、今にも泥沼に沈んでしまいそうだ。
金縛りにあった身体を動かす為、クオーツはやり返す。
「――――――――――――――――――――ッッ!!」
ドラゴンの咆哮にも負けない声量。
クオーツは肺の空気を全て絞り出すが如く叫んだ。
縦に裂けた黄金色の瞳がぎろりとクオーツを見下ろした。
油断など露程も残っていない真剣な眼差し。クオーツの一挙手一投足を見逃さないよう全身全霊で観察している。
頬に冷や汗が流れる。それほどの圧迫感。自分よりも強い相手に油断すらして貰えないとはどうすればいいのか。
クオーツの出した答えは単純明快。"隙を見出すまで逃げ続ける"だ。
踵を返して走り出す。全身全霊のダッシュだ。
対するタイタンは大地を踏み締め、迷宮に地響きを起こし、絶叫しつつクオーツに追い縋る。
歩幅のせいもあるだろう。速度はタイタンの方が明らかに上だが、小回りの利くクオーツが巧みにフェイントを混ぜ込み、タイタンに走る方向を勘違いさせている。
タイタンは幾つか引っかかるが、それでいて大広間からの抜け出る為の出口への進路方向だけは妨害していた。
クオーツがこのまま進めば壁しかなく、逃げるにしても左右しかない。絶体絶命の危機だ。後ろから追い縋るタイタンの嗜虐の笑みが脳裏に浮かぶようだ。けれど、敵の思うままに行動できるほどクオーツは人生を諦めていなかった。
壁があろうと全力で直進。そして、壁に足をつき、真上へと疾走する。
予定では壁に突き刺さったタイタンの頭上を飛び越え、隙だらけの背中に攻撃――いや、何とか戦闘本能を捻じ伏せて逃げ出す予定だったのだが、完全に当てが外れた。
蹴った感触からして岩の混じった壁は早々に砕けるものではないはずなのに、タイタンは壁をぶち破り、迷宮の大広間に凄まじい衝撃を与えた。それこそ天井の岩盤が揺れ、崩落するほどの衝撃を。
そして不運にも。
クオーツは天井から落ちてきた頭蓋ほどの大きさの石が腰に当たり、地面へと叩き付けられる事となる。
タイタンの背を越えるほどの跳躍。その高さから地面へと堕ちたのだ。その苦痛たるや筆舌に尽くし難く、痛すぎて逆に声が出ないほどの激痛だった。
「――――がっ! あぐ……」
視界が歪み、ぼやける。
傷ついた箇所は熱く、痛く、内臓を掻き回されているようだった。
肺には酸素を取り込むどころか、逆に吐き出す機能が付け加えられたようで、喘ぐようにか細く息を吸おうものなら咽てしまう。
――ああ、死ぬな。
痛みに壊れる思考はそう判決を下した。
思えばあまりに呆気ない幕切れである。
地獄の修行を課してくる師匠という魔の手から逃げ出し、世界を見て回る事にした。その為に資金稼ぎをする必要があり、迷宮くんだりまで来たのだ。
序盤は純情にいったものの、そこで出会った初対面の人の為に安易に命を賭けたのが間違いだったか。おかげででっかい魔物と戦って、死に掛けている。
傍から見れば間抜けでしかないのではないだろうか。それなのに後悔していない自分はどう言う事なのだろう。
「生来の馬鹿、だったのかな……」
歪んだ視界にはとうとう蒼苔の光すらも映らなくなった。おそらくはタイタスがクオーツを踏み付けようとしているのだろう。あの足の大きさがあれば光など全て遮るに違いない。
クオーツはきゅっと目を瞑り、最後を迎えようとした。
そして肌に感じる大地の揺れ。
あれ? とクオーツは首を傾げそうになった。
まず不思議に思ったのが地面の揺れを感じたのに自分が死んでいないという事。そして体重が無くなったかのような浮遊感に、背に回された温もり。
これが一体何を指すのか。
おそるおそる目を開いてみれば。
「サリー?」
闇よりも昏い髪と目をした少年がいて――
「帰り道を忘れたんだ。それだけ」
照れ隠しに嘯いていた。
腰に手を回されて抱き上げられる感触は存外に悪くないものだとクオーツは思った。
来た道を戻る時、サリエルの胸中は焦燥に満たされていた。
土が剥き出しに地面を一歩踏み込む度に熱が篭る。早く行けよと誰かに後押しされているような、そんな錯覚。
妄想する。
今にもタイタンに蹂躙されているだろうクオーツの姿を。
幻視する。
悔恨の果てに涙を流し、それでも潔く死に行くクオーツを姿を。
そうはさせない。
熱に浮かされた身体は限界を超えても機能を十全に発揮し、迷宮のなだらかな道を駆け抜けた。
額には汗がびっとりとつき、革製の装備などは燻製でもしているのかと言いたくなるほどに臭気を発している。
此処に来てからというもの、サリエルは走りっぱなしだ。
クオーツが勝手に走り出してそれを追いかけた時も、リビエラが攫われたと知って無我夢中で走り出した時も、ドラゴンと戦って逃げた時も、リビエラとハンナを連れて迷宮の入り口まで駆け抜けた時も。そして、また再びクオーツの後を追って疾走している今も。
振り回して、振り回されて、自分の意志で走ってるのかすらも定かではない。
ただこの熱の原因だけは自然と理解していた。
心で理解した熱の発生源だけを原動力にしてタイタンに立ち向かう勇気を振り絞っている。いや、それだけで十分なのかもしれない。
思い返せば迷宮に潜るまでの墓所での生活は地獄だった。
死刑の代行をさせられる。帰り道は石を投げられ、いざ戻ったとしても死体を埋めるだけの日々。リビエラには良くしてもらったのかもしれないが、彼女は決してサリエルを庇おうとはしなかった。何時だって"良いお姉さん役"で、周囲から嫌われないように行動していた。だからサリエルはリビエラが嫌いではなかった。安い命を賭けてもいい。そう思う程度には好きだった。
けれど、次に会った――迷宮で会った犬耳の女は全然違う。
自分の意見を押し付ける。世界を回るという漠然とした野望の為に迷宮へと身を捧げる。一所懸命今を生きている姿は素直に尊敬に値するものであり、まさに自由の象徴のように思えたのだ。
気づけば心奪われていた。
――恋慕か?
幻聴か。
――青春だなあ? 可愛い女の子の為に命を賭けるってか。安っぽい冒険譚にありがちな――陳腐なストーリーだぜ。
耳に纏わりつく粘着質な声は途切れない。
――地竜王タイタン。勝てないのに行くとか馬鹿だねえ。
放っておけ。
口には出さずに足だけを動かし、目的地に辿り着いた――と同時に轟音。
何か大きな物が粉砕されたような音と足の動きを阻む巨大な地震。それらが相まって一瞬だけ身体が硬直するが、見てしまった。。
崩落した石塊に腰を打たれ、地面に叩き付けられている。激痛に悶えて身体を丸めていて、虚ろな瞳でタイタンを見上げている――クオーツ。
今にも足を振り下ろそうとするタイタン。その足元にいて身動き取れないクオーツ。
このままでは死ぬ。
迷いはない。
身体は勝手に動いていた。
姿勢を低く保ち、疾走する。彼我の距離はそこまでなく、急げばすぐに着く程度だ。
――ああ、簡単さ、すぐにでも掬い上げてそこから走り出せばいい。それだけで万事解決で、女と二人で逃げ出せる……とでも思うのか?
幻聴が耳障りだ。
――見ろよ。今にも踏みつけられそうだ。この距離なら間に合わない。絶対に間に合わない。
間に合わせてみせる。
――無理だ。だからよ。手伝ってやるよ、息子の花道くらい飾ってやるぜ?
悪魔の囁きというのはこういう類なのだろう。
サリエルは迷わず頷いた。
すると意識が暗転する。
…………。
「サリー?」
目が覚めたのはクオーツの呼び声だ。
大きな瓦礫の裏側でクオーツを抱えて座り込んでいる。
この危機的状況で感じるのはクオーツの身体の柔らかさ。生死の境に立っているというのに意識が煩悩へと向かうのは男の悲しい性だろうか。
腕の中に小さく収まった彼女は自分を上目遣いで見ていて、「帰り道を忘れたんだ。それだけ」と吐き捨て、思わず目を逸らしてしまった。
その行動を不審に思ったのか。クオーツは訝しげにサリエルの顔を覗き込む。
「二人は?」
「――届けた」
「道は覚えてるじゃないか」
にっこりと笑ってクオーツは言う。
そして力を抜くとサリエルの腕に身を委ね、疲れた表情を浮かべた。
「――ああ、それにしても来ちゃったんだ。わざわざ来なくても良かったのに。騎士団とかは……期待してなかったんだよ?」
「わかってる。でも、お前の気持ち押し付けられたから……今度は押し付けようと思ってな」
「やはは、困ったな。死ねないや。でも……ごめん。腰、やられちゃって」
項垂れた耳と尻尾は元気がない。腰から下も感覚が無いようで、サリエルに抱かれているにも関わらず殆ど反応がない。
つまり、クオーツはこう言いたいのだ。
捨てていけと。
サリエルがそんな事を認めるなど無理だった。そもそも認めるような考え方をするのなら危険を冒してまでタイタンの前に立ったりはしない。
リビエラやハンナと一緒に騎士団を罵り、何だかんだと報酬を受け、自由の身を勝ち取れば良かったのだ。
「――グルアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
咆哮。
獲物を奪われた怒りに燃えるタイタンの威嚇の声。
人一人を抱えて逃げるのは容易ではない。歩幅が数十倍もある相手と競争をして逃げれる筈もない。瓦礫の陰から出て補足されればたちまちに捕食されてしまうだろう。
「抱き上げたまま逃げるよ」
それでもサリエルは言う。
「無理だよ」
クオーツは首を振って否定する。
諦めたような顔を見るのが、堪らなく不快だった。
誰かを救うために無理をする少女。献身的な事に対して一切の躊躇が無く、それが嫌いにならない理由だった。
その少女が肝心要の自分の命に対して諦めているとなれば、苛立ちしか湧かない。
「絶対に付き合ってもらうからな!」
サリエルはキレた。初めて声を荒げた。
クオーツは驚きのあまり目を丸くし、不可解なものを見るような眼差しを向ける。
「何で其処までして? 今日会ったばかりだよ、僕ら」
説得力が無い。今日会ったばかりの人の為に命を賭けたクオーツが言う台詞ではない。
「どの口が言うんだ」
「この口だけど」
「強いて言えば、お前の事が嫌いじゃないから」
告白のような言葉を受けたクオーツは一瞬だけ考え込む素振りを見せた。
「怖くないの?」
海のように深い紺青の双眸はサリエルの心を見透かしてくるようだ。
背後には怒りで地団太を踏むタイタンがいるというのに、この瞬間だけは全てを忘れてしまう。
魅入られてしまう。捉われてしまう。
今にも弱音を零しそうになる弱い心。それに対して己で喝を入れると頭を振り、無理矢理に勝気な笑みを浮かべてやる。
「――別に。全然。全く?」
「嘘。ちょっと口籠った」
「命を失うより怖い事があったんだ」
目を背けて言う。
真正面から言うにはあまりに恥ずかしかったから。
――男の子だねえ?
鬱陶しい声が茶化してくる。それは誰のものかはもうどうでもいい。興味の範疇外だ。
欲しいものが出来た。
考えるのはそれだけだ。
けれど、現実的な思考がきっちりと教えてくれる。
クオーツを見捨てないと生き残れないだろ、と。
目を合わせる。
腰から下の痛みもあるだろう。それなのに潤んだ青色の瞳。それは恐怖に彩られているのではなく、純粋にサリエルを心配してくれているものだ。
顔に血流が集まるのを感じる。
こいつの為なら死んでもいいや、とさえ思った。
頭の中でげらげらと下品に嗤う声。聞き慣れた、聞き覚えのある、忌々しい声。大音量で脳裏に響くが、最早どうでもよかった。
――助かりたいか?
「当然」
腕の中で丸まっているクオーツは目をぱちくりとさせた。
サリエルが突然独り言を言いだしたから驚いているのだろうが、今のサリエルにクオーツを気遣う余裕はない。
――身体を差し出す勇気はあるか?
「こいつが助かるのなら……身体なんてくれてやる」
――盲目! いいねえ。男はそんくらい馬鹿にならないとな!
「助かるのか?」
――へっへっ、どうにかしますぜ。旦那ァ。
深い暗闇に堕ちて行くように再び意識が暗転する。
黒い髪や黒い目はそのまま。けれど顔つきがあまりに違う。
厭らしく細められた眼。皮肉気に吊り上げられた口元。何処かふざけている力の入っていない姿勢。いや、何よりも変わったのはその身に纏う雰囲気だろうか。
肌に刺さるような冷徹な殺気。背筋に悪寒が走る。冷や汗が止まらない。
サリエルの容姿は変わっていないのに別人になったようにクオーツには思えた。
突如感じる浮遊感。
サリエルに放り投げられたのだ。
「ぎゅむっ」とクオーツは可愛らしい悲鳴を上げる。背中を地面に打って咽んでしまう。
見捨てろとは言ったものの、本当に捨てられるとなれば悲しいものだ。
このままサリエルは逃げ出すのだろう。
そう思ってぼやけた視界でサリエルを捉えたのも束の間――
岩陰から離れたところに飛び出したサリエルはタイタンと相対していた。
サリエルは地面に自分を中心にした真円を地面に刻み、右手を宙に掲げる。右手からは紫色の炎が噴き出て、それを円の中心に撃ち込んだ。
展開されるのは瘴気漂う方陣だ。
地面から幾多もの鎖が飛び出てサリエルに巻き付き、束縛していく。
「我が呼び声に応えよ。開け冥界の門! 闇に侵された漆黒を顕せ!」
紫炎が鎖を伝ってサリエルを包み込む。冥界の門から現れた魔が顕現し、サリエルを冒しているのだ。紫色の炎は熱は無く、呪いそのもの。呪いに縛られたサリエルは果たして人間のままでいられるのか。
呪縛から解放され、燻る紫炎を纏ったサリエルが姿を現す。
フード付の漆黒のローブを身に纏い、腰には下品な唸り声を上げる分厚い本が提げられている。何の模様もなかった無骨な大鎌には紫炎が走り、周囲には幾つもの鬼火が纏わりついている。
血臭のこびり付いた大鎌を持つ姿は――神話に出てくる死神の姿によく似ていた。
「へっへっ、若い身体は力に溢れてやがる。滾るよなあ」
背を曲げて狂笑。
その尊大さは強者のものだった。
自分より遥かに大きなタイタンを見下している。
その姿はタイタンにはどう映ったのか。
ぎりりと牙を噛み締めると大きく口を上げ、叫んだ。
これまでで一番大きな絶叫。
自分を小物としか判断していない愚者に対し、咆哮で自分の立場を解らせる。
――俺が誰かわかっているのか?
獅子吼の如き叫びは矮小な生物に対する詰問のように思えた。
それを受けても尚死神は笑い続ける。
「ぎゃはは! ぎゃはははは! いいね。そういうの。たまにはさ。命の遣り取りってのは重要だろ? 強すぎたせいで相手がいなくてよ。面白くないよなあ、そういうのって!」
タイタンの咆哮に負けない声量で挑発する。
それは決死の覚悟ではない。子供のように楽しそうに、さながら近所の子を遊びに誘うような気軽さで。
「なあ。爬虫類。お前もそう思うだろ?」
サリエルはタイタンに手を翳した。
瞬間、指先から幾多もの鎖がタイタンに向かって伸びる。
紫炎を纏うそれは凄まじい速度で、図体の大きなタイタンが避けれる筈も無い。
タイタンは前足を中心に身体を拘束されるが頭を揺らしてサリエルに向かって突進する。
手から伸びた鎖のせいで身動きの取れないサリエルは避ける事かなわず、大きな頭が腹を穿ったように見えた。
「サリー!」
クオーツの悲鳴が木霊するが、勢いの乗ったタイタンの突進は壁を穿ち、その轟音に掻き消される事となる。
だが。
「心配するな御嬢さん。おじさんは無敵だぜ」
突如空中に現れた紫炎からサリエルが飛び出した。
その紫炎はタイタンの背後で、大きすぎる的に鎌が振り下ろされる。
だが、鱗を断つ事は出来なかった。
「うおっと。何だ――ってこの鎌錆びてんじゃねえか! 手入れしとけよ……!」
文句もほどほどに再び手を中空に翳す。
すると地面から伸びた鎖がタイタンの片足に絡み付き、転倒させる事に成功した。
壁に頭をぶち込み、前足は拘束され、後足の片方は地面に巻きつけられる。
ようやく捕縛する事に成功すれば、サリエルはやや駆け足になってクオーツのもとへと来た。
「へっへっ。無理だわ。倒せねーわ。格好良いところ見せようと気張ったのに恥ずかしいなあ」
へらへらと笑ったままあっけらかんと言う姿は実に清々しいものだった。
だが。
「君は誰……?」
「あ? 俺? あーどうも、息子がお世話になってます、って言えばいいのかあ? へっへっ、それじゃただの意味不明なおっさんだあ」
性格が豹変しすぎている。
戦闘能力が向上しすぎている。
誰だ。こいつは。
疑問の言葉も適当にはぐらかし、誠意というものを感じられない。
信用に値しない相手だった。
「サリーは!? 君は絶対サリーじゃないだろ!?」
「まあ……違うか? けどそんな些細な事はどうでもいいだろ。説明するのも面倒だし――」
硬質な音が劈く。
タイタンを拘束していた鎖が千切られたのだ。
「うへ、あれを千切るとか化け物かよ。逃げるぞ、嬢ちゃん」
「えうっ?」
痛む身体を無理に抱き上げられると、凄まじい疾走感が身を包む。それなのに身体に揺れは全くなく、重力のない世界を走っているようだ。
いや、見れば周囲には紫炎が浮かび、クオーツを抱くサリエルを浮かばせていた。
空を飛んでいるのだ。
それは魔法と呼ばれるものだ。現代では殆ど使える者がいない――特別な才が無い限り扱えない技術。
「追ってきやがる。怒ってやがる。見逃せよなあ」
だが思っている事を口に出す余裕はなさそうだ。
背後には唸りながら追いかけてくるタイタンが一匹――容赦ない突進を繰り返してくる。
轢かれれば助かる見込みなどある筈も無い。問答無用で轢き殺され、迷宮の土の中に沈んでいく事だろう。
身を屈んで突進してくれば空を飛んで躱し、上から踏み付けられそうになれば地を這うように滑って避けた。
一瞬でも止まれば死ぬ。
大広間の出口がすぐそこまで迫った時、タイタンは身の丈を越える巨大な火炎弾を放ち、業火は炸裂した。
火炎弾によって巻き起こされた火の海をサリエルは上空へ跳躍して炎をやり過ごすが、そこへタイタンの尻尾が迫り来る。天井間近でこれ以上は上へも行けず、下は火の海。手元にはクオーツで――
「息、止めろよ」
紫炎が一瞬揺らめいたと思うと、空中を滑走した。
向かう先は火の海。土すら焼き尽くしている業火へとその身を投げ込んだ。
さて、当たり前の話だがタイタンの鱗は強靭だ。どんな武器をも弾き返し――あまつさえ自分の炎に焼かれる筈も無い。
タイタンは獲物を追う為にその身を炎に向かわせた。
「だよなあ!」
轟音。業火。
聴覚が麻痺するような感覚に炎に舐めつかれる焼き尽くされるような熱気。
汗は炎にくべられ気化し、今にも身体が直接焼かれそうだ。
けれど、サリエルと言えば楽しそうに嗤っている。こんなもの余裕だと、強者の余裕を見せつけている。
本当にサリエルなのかわからないけど、今のクオーツにはそれが有難かった。
「いいぞ! 吸え!」
炎を抜ければ息を吸う許可を与えられる。
出口はすぐそこ。大広間さえ抜ければもうタイタンの歩けるような天井はない。
「止まれよ、化け物」
サリエルは後ろへ手を翳すと地面から生えた鎖が再びタイタンへ襲いかかる。
ひたすら追撃を繰り返すタイタンに対しての嫌がらせのようなものだが、勢いの乗ったタイタンの足を絡めとる事は出来ず、あっさりと蹴り飛ばされてしまった。
効果が無い事を悟ったサリエルは舌打ち一つ鳴らすと黙り込み、少しでも空気抵抗を減らす為に身を屈め、疾走する。
「見えた!」
目指すのは大広間の出口。
残るは一直線。
後ろには狂気とともに突撃してくるタイタン。
クオーツはきゅっと目を瞑った。
「びびんなよ、嬢ちゃん。俺に任せとけば万事解決だ」
そんな時に掛けられた言葉は根拠も何もないものだったが、不思議と胸を打った。
「余裕だね……」
「こんな可愛い嬢ちゃんを抱いてんだ。そりゃ余裕でいきり立つわな」
尻を撫でられる。しかも硬く屹立した何かが臀部に押し付けられているように感じた。
顔が真っ赤になり、抗議の声を上げようとするが――
「うおっと!」
後ろから飛来した火炎弾――計三発に言葉は遮られる。
またもや火の海。それは大広間の出口に放たれ、炎が炸裂した衝撃で崩落が始まっていた。
上から落ちてくる瓦礫は人の身を越えるようなものばかり。
けれどサリエルは怯まない。
意を決して大きく息を吸いこむと、火勢に向かって突進した。
崩落する瓦礫は紫炎で粉砕し、それでも残っている瓦礫には身をかわして避けていく。
すぐ耳元を落ちていく石の砕片。恐怖を掻きたてるには十分なもので、出てくる冷や汗は全て炎に舐め取られる。
だが全て避け切り、粉砕し、大広間の入り口まですぐそこといったところまで来た。
残っているのは細い隙間。炎に飲み込まれたそれは直立したままでは通れない。そんな細道飛びつく為に神経を集中させ始めた時の事だ。
炎や瓦礫など全く障害にならないタイタンが隙間を塞ぐようにその巨体を滑り込ませたのだ。
「――グルアアアアアアアアアアアアアアア!!」
終わった。
クオーツは本気でそう考えた。
この状況で生き延びられると思えるほどクオーツは楽天的ではなかった。
そもそも一人で残ると言った時、それなりに死の覚悟というものをしていたのだ。
だからこれは順当な結果である。
けれど。
上を見上げていれば全く諦めていない男がいるのを知ったのはその声を聴いた時だった。
「吐くなよ?」
直進する。
紅蓮の焔の中ですら存在を主張する紫炎。
それらがクオーツとサリエルの身体に纏わりつき、飲み込んでいく。
思い出す。クオーツでも全く理解できない不思議な現象があった事を。
サリエルがタイタンの突撃を受けて死んだと思った時、突如中空に現れた紫炎からクオーツが出現したではないか。
これはもしかしたら――?
「あばよ。また今度会った時に殺してやるから、楽しみに待ってろや」
視界が全て紫色に染められ、次の瞬間に目に飛び込んできたのはタイタンの顔面だった。
「わっ!」
驚いて後ろに飛び退こうとしたが、下半身の言う事が利かない。見ればサリエルに抱えられているままだった。
タイタンも大広間の出口から顔を覗かせ、憎しみの籠った眼差しをこちらに向けているだけだ。顔すらも出口に入らないのだから、出る事は不可能なのだろう。もしかすれば思い切り突進すればぶち破れるかもしれないが、その場合は迷宮の低い天井に困る事請け合いだ。
途端に下品な笑い声が迷宮に響く。と同時にお尻を這い回る嫌な感触。
クオーツは顔を歪めて犯人を睨み付けた。
「へっへっ、良いケツしてるじゃねえか。処女か?」
「な、な、何が!? ていうかお尻撫でないで! サリー、君おかしいよ!?」
「重要だろ。息子が惚れた相手だあ。知る権利くらいあらあな」
「息子?」
クオーツは問うが、サリエルは答えない。
「――そろそろ時間切れか。お疲れ、だな……」
ばたりと倒れてしまう。しかもクオーツに覆い被さるように。
「何!? 本当に何なの!?」
身体が痛くて動けない。
周囲に魔物がいないのは幸いだが、これは近くにタイタンがいるせいだろう。タイタンを恐れて前に出て来ないのだ。おかげで身の安全は確保できたが――クオーツの腰の感覚が戻ってくるまでずっとサリエルに伸し掛かられる事となる。
その後は痛む身体を押してサリエルを負ぶって迷宮の外に出る事になるのだが、じんじんと痛む身体で無理をしたせいか、迷宮から出た瞬間にクオーツは倒れてしまった。
「疲れたよ……」
外に出れば太陽は燦々と輝いていた。