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血罪エスペランザ  作者: 鈴木一郎
序章.旅立ちの時
3/9

2.嫌な声

     2.


 馬車にいたのはサリエルを除くと一人だけだった。先ほど領主に質問をしていた肝の太そうな――犬耳の少女である。つくづく縁があるようだ。

 ほとほと縁があるものだとサリエルは身構えていたのだが、当の犬耳はだぼっとした服の襟元を暇そうに弄びながら、馬車の窓から落ち着きなく街の様子を見ているだけだ。青色の瞳を細めて興味深そうに街を見る様は子供のようで、今にも街中へ飛び出して行きそうである。

 これから迷宮に向かうというのにお気楽な様子の犬耳の少女を見て、サリエルはくすりと笑ってしまう。それを見て取った犬耳の少女は顔を顰めた。


「何を笑っているんだい?」


 突然笑われたら気分が良いものではないだろう。


「何度か会ったろう」

「――あの時の! 身体は綺麗にしたんだね。服が立派になってるからわからなかったよ」


 少女は気まずそうに耳を項垂れさせながら誤魔化し、にへらと笑った。羞恥を隠しているようだ。


「僕はクオーツ。クオでいい。見ての通りの気高い人狼さ!」


 犬だと思っていた、などとは口には出さない。


「サリエルだ」

「サリエル! ん、なんか呼び辛いや」


 よくよく考えれば、少年の名を呼んだのは母以外でこれが二人目となる。

 一人目はエルフの娘で、次は人狼の少女だ。つくづく人外と縁のあるものだ、と少年はやや皮肉気に口元を歪める。

 人狼の少女――クオーツは肩ほどまである内巻になっている癖っ毛を指で弄ぶと、舌の上でサリエルの名を転がしていた。何を画策しているのか。何度もサリエルと呟き、ふと思いついたようにきらきらとした潤んだ瞳をサリエルに向けた。

 その迫力にサリエルはやや身構えたが、結論から言えば毒気を抜かれるだけとなる。


「サリーだ! サリーって呼ぶね!」


 愛称のつもりなのだろう。

 まるで女性の名前のようだが、サリエルはさしたる反抗もせず、すんなりと受け入れる。


「それにしてもこの町は活気があるね。僕のいた村なんて森の中だったから、石造りの家なんてものはなかったよ! 人なんてこんなにいなかったし、綺麗な服なんてもちろんなかった。毎日動物を追っかけて、厳しい修行に耐えるだけの日々……。辛かった! でもね。とうとう師匠の魔の手から脱走する事に成功したんだ。おかげで今は自由の身なんだけど、困った事にお金が必要なんだよね。世界を見て回るつもりだったんだけど、資金がないからこうしてここに仕事を求めてやってきたんだ」


 横目で窓から遠くを見つめながらの独白は期待に満ち溢れていたが、ふいに真ん丸とした瞳は細められ、活発な雰囲気は寂しげな空気へと変わっている。物憂げな表情は郷愁の想いの表れか。ぺたりと沈んだ耳と尻尾は顔以上に感情を表しているように思えた。

 人狼とは森の中で群れを成して暮らす種族だ。

 どちらかと言えば臆病な性質を持ち、狩りや採集などで独立した生計を立て、人とは関わらずに生きていくものが多い。故に仲間への想いは強く、離れた仲間の事を想う事もあるのだろう。けれど、それよりも冒険心を選んだのだ。世界を見て回ると言っているのだから。

 好奇心が胸の内で芽吹く。


「修行とは何をしていたんだ?」

「んー、森の声の聴き方や自分より強い奴から逃げる方法、果てには川の探し方や方角の見極め方とかいっぱいやった。罠の造り方とかもいろいろしたけど、一番時間を費やしたのはやっぱり体術かなあ」

「体術を学ぶ目的は?」

「んや、僕はもともと孤児だったからね。昔はこういう都市の治安の悪いところでゴミを漁ってたんだけど、それを見つけた師匠に拾われて……ご飯食べさせて欲しいから黙って言う事を聞いてたら修行ばっかりさせられてた」

「大変な人生だな」


 今一度見ればクオーツの身体にはところどころ傷痕があった。

 背丈はサリエルよりも幾分か小さいだろうに、身体の姿勢や重心は安定している。馬車の揺れで揺るぎすらしないのは日頃の鍛錬の賜物か。

 毎日穴を掘って死体の運搬をしているサリエルも常人よりは体力がある自信はあったが、それを容易に踏み越えているに違いない。

 拳にも拳ダコが出来ており、見られている事に気付いたクオは恥ずかしそうに拳を隠した。


「やはは、拳ダコができるのは半人前の証らしいから見られるのは恥ずかしいね」


 ちょっとした沈黙の後、クオーツが口を開いた。


「君は何でこんなところに来たの? あのおっちゃんは危険だって言ってたけど、死ぬかもしれないのに何で迷宮なんかに?」

「世話になった人がいてね。その人が連れ攫われそうになったから、代わりに来たんだ」


 感心した目で見られ、サリエルはさっと目を逸らす。


「それにその大きな鎌。使い辛そうなのに何で選んだの?」


 何故と聞かれれば困るものだ。

 触れた時、父を思い出したからなどと恥ずかしくて言えるものではない。だから言葉を濁した。


「縁、かな」

「エン?」


 馬の嘶きとともに馬車の揺れが収まった。

 見れば町からは随分と遠のいており、話し込んでいる間に目的地に着いてしまったのだろう。

 まだ話を聞きたそうに不機嫌に唇を突き出しているクオを苦笑して見つつ、サリエルは傍らに置いていた大鎌を持つと馬車から降りた。

 大鎌を背につけた留め具に固定し、胸いっぱいに息を吸う。

 目の前にあるのは石で出来た小さな祠。周囲には何もなく、ただそれだけがある。その扉を開けば、きっと迷宮の中へと続いているのだろう。


「うおっし、行くよ! サリー!」


 クオーツに背中をばんと叩かれる。楽しそうな快活な声で。


「一緒に行くのか?」

「うん、だってサリー弱そうだもん。僕が守ってあげるよ」

「何故?」


 男だからか。守ってあげると女に言われて気分が良くなる筈もない。

 やや棘の含んだ声音で返してしまったが、クオは全く気にしていないようだった。


「お師匠様が言ってた。良い奴は友達にしとけって。相手が男なら骨の髄までしゃぶり尽せって。骨ってのはよくわからなかったけど、僕は君が良い奴だと思ったから、友達になるんだ」


 そうして手を差し伸べられる。


「行こう?」


 差し出された手を握る事なく、サリエルはクオーツの額に指を弾くと、黙って迷宮の扉を開いた。

 その先に続くの地下へと続く階段だ。

 クオーツから見ればサリエルは自分を無視して一人で迷宮に入ろうとしているように見えるだろう。

 尻尾はかわいそうなくらいに活力を失っていたが「守ってくれよ」とサリエルが零した言葉を聞き取り、ぱあっと顔を輝かせる。

 こうして二人は迷宮へと足を踏み入れた。




 カーマインが迷宮への挑戦者を全員見送り、ほっと息を吐いたのもつかの間の事だ。

 上司であるルイセがくすくすと笑いながらエントランスのソファーに掛けているのだから。


「相変わらず神話の引用が好きな狸爺です事」


 領主の事だろう。

 彼は何を話すにしても決まって神話を引用する。

 貴族とは得てしてそういうものだが、彼が神話好きなのは周知の事実であった。何故なら神話に関する文献を貪るように読むのが趣味な男なので、その知識をひけらかす事を何よりの喜びとしているのだ。

 エントランスに飾られている絵画なども神話に類するものばかりである。

 ルイセはあまり神話の類が好きではなく「趣味が悪い」とソファーに体重を預けて言った。


「ルイセ様、もし誰かに聞かれたらどうなさるんですか」

「民衆の前で素っ裸になって、すいませんでしたぁ、って酒を呷りながら言ってやろうか」

「戯れが過ぎます。彼らを命を懸けて迷宮に潜ろうとしているのですよ」


 ルイセは罰の悪い表情を浮かべる。


「む、すまない。不謹慎であったな。……で、面白いと思った子供とは?」


 カーマインが奴隷達を連れ帰った後「面白い子供がいる」とルイセに報告していたのだ。

 その話を詳しく聞くためにルイセはここへ来たわけである。


「黒髪黒目の子供です。あの鎌を持ち出したそうです。調べる必要もありませんね……。忌人の息子です」


 カーマインは意地が悪い顔になると、腕を組んで楽しげに話す。

 忌人の息子。それは最大の禁忌を犯した父の代わりに奴隷という罪を被せられた哀れな子羊の事だ。

 彼の者はあまりに命を摘み取り過ぎた。

 生まれ持った特別な"力"を用いての反抗すら許さない圧倒的な殺戮。

 直視したものならば例外なく心を折られるというもの。


「――受け継いでいるのか?」


 ルイセが興味を持つのはその"力"だけだった。

 未だに迷宮の原理はわからず、兵を疲弊させながらの討伐を繰り返すだけの任務。危険が多い割には得られる名誉は殆どなく、閑職を言われても無理はない役割だ。こんな仕事に未来は無く、惰性で続けるにしては失うものが多すぎる。

 その為には改革が必要だ。


「それは、未確認です」

「確認が出来次第報告を頼む。もし力の発現が為されれば手元に置きたいところだ」

「危険です!」


 人を殺戮せしめた"力"が必要だ。


「だから欲しいんじゃないか」


 閑散としたエントランスに響いたルイセの言葉は多量の毒が含まれていた。




 階段は螺旋状のものだった。

 下に行けば行くほど入り口から遠ざかり、重低音を奏でて扉が閉じる音が迷宮に響く。おそらくは迷宮の入り口を閉じた者がいるのだろう。魔物が迷宮から町へ飛び出さないようにする為に。

 二人は無言で薄暗い螺旋階段を降り続ける。

 靴と石床が当たるたびにかつんと軽い音が鳴り、無音の迷宮に靴音だけが響く。


「地下なのに明るい……」


 無言に耐えられなくなったか、クオーツが立ち止まり、小さな声で呟いた。

 サリエルはクオーツの隣まで降りると、螺旋階段を覆う石壁にこびり付いたものを毟り取り、クオーツの前に差し出す。

 毟り取った物は苔のようなもので、定期的にぼんやりと蒼白い光を発していた。

 クオーツの目が見る見るうちに輝き、これは何だ、という好奇心が揺れる尻尾で見て取れる。森の中に住んでいたと言っていたのだから、洞窟などの光のない場所に生息するこれを見る機会がなかったのか。


「蒼苔だな。熱のない光を発する植物だ。養分を消化した時に発する熱量を光として排出するらしい」

「詳しいね」

「働いていた場所は地下霊園だったから。こういう類の植物も多かったんだよ」


 霊園に光を灯していたのは鬼火、そして蒼苔だ。

 松明などは少しの事故で大惨事になり兼ねないし、当たり前の話だが奴隷に火を扱わせたくないという事もあったのだろう。火は簡単に人を殺す武器になるのだから。

 クオーツは訝しげに石壁に付着している蒼苔を手に取ると、しげしげと見つめた後、ぱくりと口の中に放り込んだ。サリエルは驚きに目を見開いている間も蒼苔を口の中で咀嚼し、飲み込む。


「塩辛いね。粘ついてるし、美味しくない」


 巷に溢れ返る奴隷の中には明日喰う物にも困る人達がいるらしいが、サリエルは幸か不幸か、腹一杯とは言えずとも飢えとは無縁の生活をしていた。おかげで周囲の者も拾い食いなどはしなかった。蒼苔を食すなど未知の世界である。

 サリエルの常識を易々と食い破ったクオーツは蒼苔に興味を失せたのか、二段飛ばしで階段を飛び降りて行き、サリエルを置いて先に迷宮の螺旋階段を降り切ってしまった。

 サリエルが追いついた時には数分経っており、当のクオーツは鼻をひくひくと動かせて何かの臭いを嗅いでいる。


「そこらにこびり付いた血の腐った臭い。何があったかは想像もしたくないね」


 人狼の嗅覚は人の数百倍はあると言う。

 螺旋階段から続く地面は土の固められたもので、慣れ親しんだ臭いだ。血の臭いなどわからない。仮にわかったとしてもサリエルは死体と触れ合う日々だったのだ。臭いなどという感想が浮かぶ筈も無く、それは生活の一部と成り果てている。

 故にこういった黴臭い場所にも慣れているのだが、隣にいるクオーツはそうもいかないらしい。

 森のような自然界にはない独特の臭気に鼻を曲がりそうになるのを意思で抑え込み、何度も深呼吸を繰り返して周囲に慣れようしている。悪く言えば鼻の感覚を麻痺させようとしていた。

 それにしても、とサリエルは辺りを見渡す。

 螺旋階段を降りた途端、目の前に広がるのは迷宮と言うよりは大広間といった感じだった。

 壁などなく、だだっ広く続く空間。天井はとても高く、光の届かない此処は霊園と同じく鬼火が微かな光で照らされ、地面には蒼苔が生えている。

 ある意味では迷うかもしれない。目印の付けようがないのだから。

 とは言え、魔物が来るのを入り口付近でじっと待つというのも下策だろう。

 魔物と交戦した事がないサリエルだが、普通に考えればどのような生き物も警戒心と言うものがある。となれば迷宮の外から来たサリエルとクオーツは異物に他ならない。そのような相手に躊躇も無く襲いかかる輩はいないだろう。まずは自分たちの領域に踏み込んでくるのを待ち、襲ってくる筈だ。

 サリエルが黙り込んで考えている内にクオーツは復活していた。

 ちらりとサリエルの方を見ると「ちょっと待って」と言い、腰に吊るした皮袋――栓のついている事から水を入れるものだろう。開けると水を地面へと垂らした。

 何だろう、とそれをじっと見るサリエルにクオーツは言う。


「マーキングだよ。帰り道を残しておかないと後で困るだろうから」


 水袋には臭いのついた何かが入れてあるのか。サリエルの鼻では嗅ぎ取れないマーキングはクオーツにしか意味のないものだ。

 二人は歩き、少ししたらマーキングをし、それを何度も繰り返す。

 どれほどの時間が経ったのだろう。どれほどの距離を稼いだのだろう。

 気づけば大広間を出て細道へと入り、小部屋とそこから繋がる複数の細道を延々と歩き回る事になっていた。


「敵、いないんだけど……」


 クオーツが不満気に漏らす。

 サリエルとしてもまさに同感である。魔物を討伐して魔石を取り出し、急いで迷宮から帰りたいのだ。

 それなのに肝心の敵は出て来ず、無駄に歩かされて体力を消耗させられる。

 次の瞬間の事だ。

 クオーツの尻尾がぴんと張り詰め、耳は音を聞き洩らさない為に立ち上り、無言でサリエルの注意を促した。

 サリエルも背中に差した大鎌の留め具を外し、何時襲われても大丈夫なように不恰好な構えを取る。その構えはまるでスコップを持つように刃を下に向けていた。

 二人が今いる場所は大人が数人走り回れる程度の広さの四角い部屋だ。

 それぞれの角から細道が続き、何処から来るかもわからない。

 だが、クオーツは耳をぴくりと動かし、鼻も微かにひくつかせ、一つの細道を睨み付けた。サリエルもつられてそちらを見る。

 背丈は人間の腹あたりか。二足歩行のずんぐりとした身体には青々とした体毛が生え、腕にはそれぞれ錆びついた剣と鍋の蓋のような盾を持っている。

 そして、首から上は犬である。つぶらな瞳が可愛らしさを強調しているが、口元から覗く鋭く太い牙は容易に人をかみ切るだろう。

 彼らはコボルトと呼ばれる魔物である。

 本来は森の中に群れを為して棲息する臆病な魔物だ。しかし、荒々しい息を吐いてこちらを見る姿は好戦的なもので、血走ったどんぐりのような瞳は殺気を孕んでいた。


「――グルル」


 牙を剥き出しにしてコボルトは唸る。

 数は六。全員が同じような装備で同じような体格だ。

 一見弱弱しい姿に見えるが、いくら錆びついているとはいえ剣で斬られれば人は容易に死ぬ。

 サリエルは大鎌を構えたまま動けずにいたが、隣にいるクオールは違ったようだ。


「行ってくるよ」


 とん、と軽い音がしたと思えばクオーツは敵陣のど真ん中に出現した。

 驚きに目を剥くコボルト達は一斉にクオーツに襲いかかる。

 胸を貫く刺突、首を跳ねる薙ぎ払い、胴体を切り裂く袈裟切り、太腿を狙う逆袈裟――複数の斬撃がクオーツに放たれる。

 サリエルから見ればそれらの攻撃は全て当たっているように見えたが、クオーツは無傷のままである。しかも、クオーツに斬りかかったコボルトは空を舞っていた。

 重々しい音を立てて地面へと墜落する四匹のコボルト。

 クオーツは蹲る奴等の内の一匹を踏み潰すと、しゅうと音を立ててコボルトは消え去り、石となって果てた。


「ああ、こうなっているんだね」


 残った二匹のコボルトは牙を剥き出しにして威嚇はしているものの、クオーツに対して尻込みしているようだ。目の前で仲間が一人一人踏み潰されているのを見せつけられても助ける為に動きはしない。

 そして、次に見たのはサリエルの方である。

 戦闘経験が無いのを野生の魔物特有の嗅覚で嗅ぎ取ったのか、残った二匹はサリエルに対して仕掛けてきた。


「行かせないよ」


 二匹の内一匹は跳躍したクオーツに首元を足で巻き取られ、頭から地面へ叩き付けられた。

 硬い何かが砕ける乾いた音が部屋中に響くが、残る一匹は恐怖の色濃い形相を浮かべ、サリエルに特攻して来る。


「くっ!」


 大きく振り被られた錆びついた剣による斬撃をサリエルの大鎌の柄が受け止める。

 小さな火花とともに耳障りな金属音が鳴り響く。

 錆びついた剣は柄をじりじりと滑り、次第に大鎌の刃へと辿り着いた。

―――これくらい相手できないのかよ。

 ふと声が聞こえる。

 遥か上から見下ろしてくる、尊大な態度を取る男の声。

 これが誰かはわからないが、声が聞こえたと同時にイメージが見えた。

 刃と刃が重なり合う状態はまさに力のぶつかり合いだ。

 だから、力を抜く。

 力の行き場を失ったコボルトの剣は制止する事が出来ず、大鎌との間に出来た空間を滑り、地面へと突き立った。

 サリエルは力の抜いたおかげで右後ろへと振り被った刃をコボルトへと振り上げる。

 曲線を描く斬撃は違う事無くコボルトの胸を貫き、跳ね上げる。

 空高く打ち上げられたコボルトは胸に風穴が空き、口からは黒い体液を吐き出している。放っておけば死ぬのだろうが、それを許す筈も無し。

 一歩目は軽く。

 二歩目は沈み込む。

 三歩目は重力に逆らうように、飛翔した。

 慣性に従って地面へと墜落を始めたコボルトに追いついたサリエルは体重の乗った打ち上げをコボルトの風穴に向かって振り放った。その斬撃、実に三発。そして、最後に上から叩き落とす上段からの切り落とし。

 凶刃は違う事なくコボルトの脳天を貫き、地面へと叩き付けられた。

 遅れて着地したサリエルは動揺したまま自分の手を見下ろす。


「――何だ、今のは……」


 何かの声が聞こえた途端、身体が勝手に動いた。

 当たり前のように戦えた自分の事が理解できない。

 大鎌を手に取った時流れ込んだイメージは父親と名乗る男との決別だ。急に思い出した事に対して思うところはあるが、今考えれば、あの時流れ出たイメージは記憶とは違うのでは、とサリエルは思う。

 疑いにかかる少年を見つめる男の視点からのものだったから。

 今起こったイメージに関しては言うまでもない。出来る筈が無い事をそつなくこなせるほど戦闘とは容易くはない。 

 戸惑うサリエルを余所に、クオーツはコボルトから魔石を回収していた。

 最後にサリエルの倒したコボルトから魔石を回収し、手渡す。そして、興味深そうにサリエルの持つ大鎌を見つめていた。


「もしかして魔物狩りとかやってた事ある?」


 血に濡れた大鎌はサリエルの手に妙に馴染む。だが、魔物狩りなどした事はなかった。


「――無いな」

「じゃあ初めてなんだ。凄いね! 僕だって最初はコボルトくらいの魔物にでも手古摺ったものだよ」

「どれくらい前の事だ」


 ぱあっと目を輝かせて興奮気味に語るクオーツにサリエルが問うた。

 クオーツは少し考えてみせると「んと、これくらい?」とお腹のあたりで手を平行に動かしている。それくらいの身長の時にやったと言う事だろう。平均の身長で言えば、それは十歳にも満たない年齢になるが。


「何年前だよそれ……」

「やはは、気にしない気にしない。大丈夫。君はセンスありそうだよ。すぐ強くなれる!」


 真正面からの褒め言葉にサリエルは顔を真っ赤にする。

 褒められた事など生きてきてこれまでなかったからだ。


「照れてる?」


 そんな事は無いとは言えず、沈黙した少年は踵を返して元来た道を帰ろうとする。

 もう任務は終わったのだから。

 けれど、ちょいちょいと背を突かれる。それを無視して歩こうとすれば、更に声が掛けられた。


「帰り道あっちだよ」


 マーキングを嗅ぎ取れるのはクオーツだけだ。

 帰り道を間違えそうになったサリエルは余計に恥ずかしさを覚えると、きししと笑うクオーツの後に続いた。

 だが、その時である。

 絹を裂くような女の悲鳴が聞こえたのは。

 サリエルには何と言っていたのかは聞き取れなかったが、鋭敏な聴覚を持つクオーツには明確に届いたようだ。


「助けて、と聞こえたんだ」

「もうノルマは達成したぞ」

「でも、助けてって!」


 クオーツは強い。

 コボルト相手に息も乱さず、一瞬で仕留めてみせた。そこらにいる雑魚を適当にあしらう程度の労力で、だ。

 だが、迷宮の初心者である。

 サリエルは知っている。迷宮に慣れた騎士団が毎日幾人もの死者を出し、霊園へ埋め立てられているのを。

 死者となるものの全てが騎士というわけではないだろう。専門の訓練を受けているわけではなく、満足な装備を与えられなかった者もいるかもしれない。

 けれど、人は死んでいるのだ。

 サリエルは理性で考える。"悲鳴を上げた女はもう死んでいるかもしれない。そもそも命を懸けてまでする意味はない"と。

 サリエルは感情で考える。"出会って僅かばかりだが、クオーツの事を気に入っている。死んでほしくない"と。

 サリエルは我儘に考える。"俺も死にたくない。クオーツにも死んでほしくない。意地でも引き留めてやる"と。

 だからクオーツに訴えかけるように問うた。 


「聞きたいんだけどさ。お前の目的は金だろ? もう魔石はここにある。お前は五個。俺は一個だ。十分な収穫だと思う」


 返ってきた視線はサリエルを責め立てるようなものだった。

 出会ってからずっと快活な態度だった彼女が初めて見せた冷徹な眼差しはサリエルの心を抉る。

 だが、それにも屈せずに今にも走り出さんとするクオーツの腕を掴み取る。


「帰るって言うのかい?」

「帰ろうって言ってるんだ」


 冷静になったのか。クオーツは申し訳なさそうに顔を伏せる。

 サリエルは一緒に帰る気になったと安堵の吐息を漏らす。だが、それは見当違いなものだった。

 クオーツは決めたのだ。


「やっぱり見捨てるなんて出来ない。けど、君は逃げた方がいいよ。あそこを真っ直ぐに進めば帰れるから」


 一人で助けに行くと。


「またね。後であの屋敷で会おう? 一緒に晩御飯でも食べようね。僕達は友達なんだし」


 クオーツの腕を握る手をあっさりと払われると、サリエルを振り返る事無く駆け出した。

 腕を伸ばす。届かない腕を。

 サリエルは肩を竦めてクオーツの向かった先を見やると、諦めたようにクオーツが示した帰り道に向かって歩き出した。


「わからない。見ず知らずの奴の為に命を投げ出すなんて――馬鹿だ」


 独白は思った以上に自分の胸を締め付ける。

 此処に来たのはリビエラというエルフの娘の為だ。

 それにクオーツを見捨てて帰ろうとする自分に対し、今にも罵詈雑言を吐きそうになる。とても気持ちが悪いものだ。


「僕達は友達だし」


 サリエルに対してそう言ってくれたのはクオーツが初めてかもしれない。

 気づけばクオーツの後を追っていた。




 鬼火に照らされた闇の中、クオーツは身を屈めて疾走する。

 心に迷いは無く、自分の培った実力を信じ、悲鳴を上げた少女の生存を祈るだけだ。

 地面を踏み締める足からは馬蹄の如き轟音が轟き、その音に反応した魔物達が警戒心を剥き出しにしてクオーツを追い立てようとする。

 だが彼我の速度は絶望的なほどに離れている。

 クオーツは額に汗を浮かべ、肩で息をしつつ、先ほど聞こえた悲鳴の主の下へと加速していく。


「サリー、帰れればいいんだけど……」


 それでもサリエルの身を心配してしまう。

 マーキングはクオーツにしか意味のないものだ。

 帰り道を示したとは言え、一つでも道を間違えば永久に迷う事になるかもしれない。その時はクオーツが嗅覚と聴覚を最大限に生かして探し出す決意を決める。

 まずは目の前に起こるかもしれない悲劇を食い止める事が先決だ。

 風になって走っていたクオーツが辿り着いた先は天井が異様に高い広間だ。

 まるで大きな何かの住処とも思える。広大な其処には中央には呆けた赤髪の少女がいた。

 鼻につく汚臭が充満しているが、知ったことかとクオーツは更に速度を増して少女に駆け寄った。


「大丈夫!?」


 赤く見えた髪は返り血だ。衣服も全て鮮血に染められていた。

 いや何よりも衝撃的なのが場に散らばる肉片だろう。

 ぐちゃりと潰れた肉。肉の隙間から曝け出された骨。そして骨の断面から滴る髄液――すべてを把握した時、クオーツの胃の中の物が逆流しかけた。

 これは誰だ。

 呆けた少女と照らし合わせ、想像した途端に嘔吐感は加速する。

 せり上がったものは酸味が利き、更に吐き気を催させる。だけど、もしかすれば怪我をしている少女の前で吐くわけにはいかない。何よりこれは死者の冒涜だと思えた。

 無理矢理嚥下すると不器用な笑みを浮かべ、クオーツは改めて問う。


「――大丈夫……?」


 少女は反応する事なく呆けたように天を見上げ、小さく何かを呟いている。意味を為すものなのか、違うのか。それはクオーツに判断できる類のものではなかったが、少女が正常ではない事だけはわかった。

 仕方のない事かもしれない。

 おそらくは誰かと一緒に来て、そしてその誰かとやらが目の前で殺されたのだろう。しかも想像を絶するような残酷な方法で。

 見れば肉片はそこらに飛び散り、剥き出しの地面には血が染み込んでいる。もともと臭気のする迷宮の内部。その中ですら抜きん出たこの臭いはさぞかし大量だったのだろう。

 それを目の当たりにしたのだから、壊れても仕方ない。


「怪我はない? 見せてね」


 断りを入れて服を上半身を脱がすと、多少の擦り傷などはあるが命に関わるような事はない。

 一先ずは安堵するが――


「――グルオオオオオオオオオオオ!!」


 突然の咆哮が迷宮を走る。

 それは聞く者の気を動揺させるには十分な声量と、心を揺らすのに十分な恐怖を伴って放たれた。

 自然と身体が硬直し、身動きが取れなくなる。

 余韻が山彦のように何度も響き、その度に尻尾がぴんと立つ。


「――あは、あははは!」


 ようやく咆哮が消えたと思えば突如少女が笑い出した。


「死ぬんだ。私、死ぬんだ!」

「大丈夫。僕が守るから」

「守る? 守るですって!? あんたが? あの化け物から? 無理よ! だってあいつ、あの人の事を連れてったんだもん!」


 クオーツの言葉に少女は激昂する。

 虚ろな瞳は血走り、大きく開いた口からは唾すらも飛んでいる。その興奮状態は平常ではなく、今にもクオーツに掴みかからんとする勢いだ。そんな事も所詮は些細な問題だが。最も重要視すべき、聞き逃してはいけない事柄はそんな事ではない。

 一番重要なのは此処で、誰かが、何をされたという事だ。


「あの人? 連れてった? どういう意味だい?」

「知ってどうするの。どうせみんな死ぬの。あんな奴から逃げれる筈がないんだから!」

「埒が明かないや。どうするかな……」


 冷静でない者と会話は成り立たない。

 クオーツは諦めて少女についた血を拭う事に専念する。

 乾いた血は取れ辛いが、ある程度は払拭することが出来た。

 血の下から現れたのはここらに多い灰色の髪に褐色の肌。目だけは血のような爛々とした輝きを灯し、異常な剣幕も併せて妙な圧迫感がある。

 別段顔が整っているわけでもない。強いて言えば目の輝きが印象的といったところだろうか。大きな眼に宿した赤赤しい光はどうにも迷宮内では目立つ。さながら血を宿したような印象だ。

 事実血に濡れてはいたのだが。

 物思いに耽っていたクオーツだが、どんなに無気力になろうとも鋭い五感が鈍る事はない。今も質の良い耳がぴくぴくと動いて周囲を窺っているが、その中に一つだけ異音が侵入してきた。土を踏み締める靴の音。人にしか発せない、聞き覚えのあるものだ。

 ちらりとそちらを向けば先ほど別れた友達がいた。

 クオーツと目が合った途端に目を逸らし、手慰みに後ろ髪を掻いている――サリエルがどこか気まずそうにクオーツに近づく。気付かずに未だにがなり立てる少女を見つけるとつまらなさそうにため息を吐いた。


「あたしは死なないわ。だってまだ生きてるもの――誰が言ったか覚えてるか?」

「あんたは……! あんたの、あんたのせいで!」

「俺? 俺のせい? 何がだ」


 サリエルは目を瞬かせ、問う。クオーツから見ても何がどうなっているのか全く理解できず、思考停止に陥っている。

 二人を置いてけぼりにして少女は根拠のない台詞を繰り返し、終いには顔を両手で覆って「ちが、あたしは、あたしは悪くない。そうなの。全然悪くないの」と嘆き出した。

 クオーツとサリエルは目を見合わせると同時に肩を竦めた。


「エルフの人が、あの人が、攫われたのはあんたのせいなんだから!」

「――どういう事だ?」

「ドラゴンに! ドラゴンに攫われたのよ!」


 ドラゴン。魔物の王と呼ばれる存在。

 その牙は鋼を噛み砕き、その爪は岩塊をも切り裂く。吐息は全ての生命を焼きつくし、弱者は咆哮だけで気絶するという。

 大陸にいるドラゴンはほとんどが掃討、撃滅されてきたが、迷宮に新たな住処を見出したようだ。もしくは少女の虚言や見間違いの可能性もあるが、この切迫した表情で嘘を吐くとは考えづらい。

 瞬間、地面が爆ぜた。いや、爆ぜたのではなく、蹴り飛ばされただけだ。

 サリエルが大鎌を器用に片手で持ち、全速力で駆け出した。

 クオーツは咄嗟にサリエルの腕を掴んで止めるが、顔を顰めて振り向かれ、一瞬怯んでしまう。


「行かなきゃ。あの人は、俺の恩人だから」

「わかるけど! まずはこの子を助けるのが先決だろ!?」

「こんな奴、どうでもいい!」


 乾いた音が迷宮内に鳴り響いた。

 クオーツがサリエルの頬を思い切り引っ叩いたのだ。

 何が起こったのかわからない、とサリエルは赤くなった頬を押さえている。じんじんと痛む頬のおかげで次第に事態を飲み込み、クオーツに送る視線がきつくなるというものだ。


「そういうのは言っちゃいけないね。命は平等だなんて言うつもりはないけど、拾える命は拾うべきだよ。死者の埋葬してたんだから、それくらいわかるだろ?」

「別に」

「急ぎたい気持ちはわかる。だけど……」


 目線はクオーツから遠のき、違う方へ。走り出そうとしていた方へ向けられている。

 そして、舌打ち。


「サリー!」


 今度はクオーツの制止にも反応する事無く、拘束された腕を振り切って一目散に駆け出した。

 蒼苔に薄らと照らされる迷宮では少し離れただけで視認する事も難しく、後ろ姿はもう見えない。


「あー、もう! 弱ったな、本当に。困ったな!」


 足元には蹲ったまま泣きじゃくる赤目の少女。


「君、名前は?」

「――ぐす、ハンナ」

「ハンナ、ちょっと我慢してね」


 クオーツは迷う事無く少女を背に担ぎ、一言だけ謝って走り出した。

 鍛え抜かれた身体は少女の体重を課せられても身重になる事はなく、さながら風のように疾走した。サリエルの後ろ姿が見えるようになるまでさして時間がかからないほどに。


「サリー!」


 前方にいるサリエルは振り向きもしない。だが、確かに速度が緩やかになったようにクオーツは感じた。

 更に足を踏み締め加速し、減速しつつあるサリエルに近づいて肩に手を伸ばす。

 引っ掴めばサリエルは勝手に立ち止まった。

 クオーツの口から非難の声が出そうになったが、疲れのあまり声が出ない。

 何せ人を担いで走ったものだから疲れて仕方ない。しかも誰かを追うために全速力を出したのだから息が乱れるというものだ。

 誰かに当たりたくなる。だが件の相手が罰の悪い顔をして唇を尖らせていた。

 ため息が出る。


「無視しないでよ……」

「――来なくていいのに。これは俺の我儘だ」


 サリエルは鼻息を鳴らした。クオーツからすれば不貞腐れた悪餓鬼にしか見えない。


「僕も我儘に付き合せたようなものだから、お互い様だよ。この子を巻き込むのは不本意だけどね……。それに――道わかんないでしょ? 僕は鼻があるから何となくわかるけどさ。何処に向かって走ってたのか自分で理解してる?」

「あ――」


 サリエルは口籠る。知らなかったのだろう。

 思わず笑ってしまい、サリエルは憮然としてしまった。


「君は見た目に反して感情的だね。そういう人、嫌いじゃないよ」

「そういうわけじゃ……」


 反論しかけたサリエルの口に指先を当て、にんまりと笑ってみせた。


「それだけ大事な人なんだろ? 茶化してるわけじゃないんだ。良い事だと思うよ」


 けれど、穏やかに話が終わる事もない。

 背に担いだハンナが身を震わせ、怒っていたのだ。


「あんたのせいで酷い目に合ってるのにね……」

「お前……!」

「サリー、落ち着いて。君もいちいち煽らない。もう僕たちは仲間なんだ。仲良くやろうとまでは言わないけど、わざわざ揉め事を起こすのはよしてくれ」


 自分を間に挟んで睨み合われると大層居心地が悪いものだ。

 何とか仲を取り持とうと四苦八苦するも、「――もう立てるから。降ろして」とハンナにぴしゃりと言われる。

 背から下ろしてみれば赤目のハンナの足はぐらついている。今にも倒れそうなくらいに姿勢が悪く、何処か怪我をしているか、それとも不安定な精神のせいで身体の操作がままならないのか。どちらにしても歩ける状態には見えず、クオーツは再び背を貸そうとするが、ハンナにキッと睨まれて阻まれた。


「大丈夫。歩けるわ」

「立派な足がついてるんだもんな。歩けて当然だ」


 サリエルの嫌味にハンナは憎悪を返す。

 仲は最悪と言えた。

 クオーツは仲裁するのを諦め成り行き任せにしようと決めた時の事だ。


「――ところで、何が俺のせいなんだ。それに何でお前があの人と一緒にいたんだ。確か俺と一緒に来ただろ、お前」


 サリエルは問い。ハンナは赤目を細め、むっとした後に口を開いた。




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