1.名前すら知らないという事実
1.
どの町にだろうと誰もが忌避する場所がある。
町外れの丘には木組みで造られた足場があり、その上には断頭台が置かれていた。
今日は処刑の日。
償え切れない罪を犯した者の末路を見る為、多くの観衆が雁首を揃えて其処にいた。
観衆の見つめる先にあるのは、陽光を反射して鈍色に光るギロチン――断罪の剣。罪人の命を容赦なく刈り取るためのものだ。刃は縄をつけられ、地面に差された鉄杭に巻き付けて固定されている。縄を斬れば初段の刃は無慈悲に命を摘み取るだろう。
肝心要である縄の近くにいるのは黒い少年だった。
髪も黒く、瞳も黒い。対照的に肌は白く、今にも血管が透けて見えそうだ。太いとも細いとも言えない中肉中背の身体には切れ味の悪そうな錆びた鉈を持っていた。無表情を取り繕ってはいるが、鉈を持つ手は微かに震えている。耳を澄ませばかちかちと歯の鳴る音が聞こえた。
「なあ、俺達仲間だったろ……?」
命乞いは罪人からのものだ。
性別も背丈も少年と同じくらいで、こちらは金髪碧眼とここらでは別段珍しくない普通の姿だ。後ろ手に手錠を嵌められ、断頭台に首を押し付けられていなかったら街中にいても何も思わないだろう。実に平凡な容姿だった。
「頼むよ。見逃してくれよ……」
その平凡な容姿は恐怖に歪み、声は霞んでいたが。
少年の無表情は引き攣り、周囲を窺うように目を動かす。けれど銀色に輝く鎧を纏った騎士に威圧され、ぎゅっと目を瞑った。断頭台を取り囲むように武装した騎士に囲まれている。逃げ出さないようにする為に。
「――執行しろ」
騎士の一人が少年に対して言った。
罪人は恐怖のあまり失禁し、少年の震えが一層大きくなる。
「初めてという訳ではないのだろう?」
少年は瞑目し、息を吐き出す。それこそ肺の中に残る酸素全てを絞り出すように。
苦しくなる。
涙が浮かぶくらいに辛くなり意識が混濁としてくる。
霞んだ意識は五感を鈍らせる。
だから。
鉈を振り下ろした後の記憶は無いのだ。
町外れの丘を下ればすぐに大通りへと戻れる。
大通りは舗装され、並木道になっている。いつもは人でごった返しているのだが、処刑の見物から帰った人も同じくして全員が家へと引き籠っていた。
嫌に静かである。
故に小声で喋ったとしても、それは確かに聞こえるのだ。
「執行人だ」
「奴隷だろ?」
「馬鹿。目を合わせるな。あいつは死神の息子だぞ」
通りの脇にある何処かの一軒。二階の窓は開いていて、嫌悪や侮蔑の視線を感じる。
黒い少年――サリエルは素足で歩きながら沈鬱な気持ちで帰路に着いていた。
窺うような視線が背に突き刺さる。努めて無表情を維持しようとしても、彼らの想像を掻きたてる蒔餌にしかならないのだろうが、気分が悪いのを隠すにはこれしかなかった。
その時、砂塵が巻き起こる。突如吹いた風のせいだろう。そして風は砂埃と一緒に何かが印刷された紙をサリエルの手元へ運んだ。
受け止めた後に紙に書かれていたものを読んだがすぐに破り捨てた。
『奴隷に貞操を捧げた女。家族に捨てられ街を出る』
要約すればこんな内容だった。
この奴隷にも女にも見覚えがある。
何故ならサリエルも奴隷で、先ほど殺した相手が件の女に手を出した罪人だからだ。同じ職場で苦楽を共にする仲間――だった。
彼女が出来た、と紹介されたのはちょっと前の話だ。それは食事を運んでくる役所の女で、常々奴隷制度に対して疑問を覚えているらしかった。
サリエルは生まれた時から奴隷だったので制度自身にはさして疑問はなかったが、彼女の言う言葉はいちいち最もであり、だからこそ奴隷と付き合う事に嫌悪はなかったのだろう。
まあ男は死んで女は島流しになったわけだが。
「馬鹿だよな、本当に」
知れず口から漏れたのは愚痴みたいなものだ。
慌てて手で口を押えると、急に胃が鳴った。
痛くて、痛くて、あまりに痛くて蹲る。
すると更に勝る痛みが頭部に走った。
「やべ。身を隠せ。目が合ったら殺されるぞ!」
誰かの声とともに窓の閉まる音。そして目の前に転がる血のついた石。
投げられたらしい。
「はは、あはは……ははは……」
初めて疑問を覚えた。
普通だったら彼女と性的な行為をした程度の事で裁かれる事はないだろう。何故なら子孫繁栄に必要な事だからだ。これを悪と断じるのなら、お前の代で血を絶やせ、と暗に言っているのと一緒である。
「頼むよ。見逃してくれよ……」
死に行く者の最後の言葉。慈悲を求めた最後の懇願。
聞いたのに無視した。
周りに立つ騎士が怖くて、彼らが容赦なく人を斬り捨てる事を知っているから、尚更怖くて。
足が震えていたのは何の所為だろうか。
友達を殺す事に対してだろうか。それとも、死刑を執行しなければ斬り捨てられるのは自分だからか。
ここで思い出した。
一緒に飯を食った、苦楽を共にした男の名前。そして放逐された女の名前。
どっちの名前も聞いた事がないと言う事実に。
「――ッッ!」
誰に懺悔をすればいいのか、サリエルにはわからなかった。
蹲り、何に祈っているのか。
「大丈夫?」
優しげな声が耳に届いた。
蹲っていたサリエルは慌てて顔を上げると、そこにいたのは見覚えのない――犬耳の生えた少女だ。サリエルと視線を合わすために地面に膝をつき、心配そうに顔を近づけてくる。
サリエルは腰を抜かして尻もちをついた。こんな事をされたのは経験にないから。
「弱いもの虐めはみっともないね。見てて気分が悪いよ」
濡れたタオルを差し出され、傷ついた箇所を拭われる。
冷えていて気持ち良い。
だが。
知らない誰かからの親切を信用できるほどサリエルは素直ではなくて。
タオルを押し返すとその場を走って逃げ出した。
残ったのはぽかんと呆ける少女である。
多くの番兵が監視している此処は巨大墓地だ。
国家元首に命じられて迷宮に挑んだ騎士や兵士達が眠る聖なる墓地――と表立っては呼ばれているが、要するに復元不可能なくらいに損傷した死骸、または死体の見つからない行方不明者を形式的に眠らせる場所である。
墓地だから当然の事だが、多くの墓標が並んでいる。そして墓標の隣には死者が生前愛用した武器がそれぞれに突き立てられていた。
片手剣、大剣、斧、槌、弩、弓、棍、杖、さまざまなものがあるが、ほとんどのものが草臥れ、朽ち果て、錆び、折れている。中には武器がないものもある。
侵してはならない死者の聖域――にも関わらず恐れ多くも墓標に腰掛けている男や女が複数人見受けられる。
彼らは墓所の番人。仕事は穴を掘り、死体を埋める事。
誰もが嫌がる忌み嫌われた仕事。
つまり、誰もが嫌がる仕事を押し付けられる――奴隷達だ。
今日も逐次追加される肉片に嫌悪の視線を向け、固まっている。
「何で俺がこんな事……!」
「嫌よ。もう嫌。あたしが何したっていうのよ!」
腹の内容物がこみ上げてきたのか、吐き出す男もいる。目頭を押さえて泣き始める女もいる。
彼らは同様に奴隷になって日もない者たちだ。
殆どの者が仕事に慣れておらず、今日は新人教育を兼ねての仕事だった。とは言うものの、この中で動いているのはシャベルを使って穴を掘っている少年の一人だけだ。
肝心の指導係を任されているのはこの少年だった――のだが、黙して語らず。指導どころか喋る気配すらない彼はただ一人で作業をし、他の者に視線を移す事すらない。
その姿は不気味なもので、吐いたり泣いていたりしていた者たちはだんだんと少年に畏怖を感じるようになった。
亡霊という単語が脳裏に浮かぶ。
闇に融ける髪に光の映らない瞳。感情のない顔は能面のようで、身体はほっそりとしている。肌はとても白く、対照的に着ている衣服は黒尽くめ。さらには泥塗れになっていて、臭いも酷いものだ。死者が地中から甦ったと言われれば即座に信じてしまうだろう。
少年に生気というものが感じられないのだ。
無機質に、淡々と、言われた事だけを行う。喋る事もなく、笑う事も無く、悲嘆する事もなく、何も見ずに。
それは人形だった。
慣れた手つきで穴を掘り終えると、蛆の湧いた肉片を躊躇なく抱き上げ、穴の中に手荒に放り込む。
肉の潰れる音が耳障りだが、それ以上に死者を冒涜する事に何ら感慨のない彼は何者なのか。まるでゴミのように無造作に掴み上げ、投げる。そこに死者への敬意は一切なかった。
「何やってるの?」
誰かに問いかけられた。
振り向いた時に見えたのはぴこぴこと動く犬耳だ。
犬というわけではない。犬耳を生やした少女だ。昨日会った覚えがある。
顔が赤くなるのを必死に抑え、サリエルはきゅっと口を引き結んだ。
サリエルの不審な様子に気付いたのか気付いていないのか、犬耳の少女はくりっとした真ん丸の瞳は好奇心に染め上げられ 犬歯を唇から覗かせながら興味津々といった体で周囲を窺っている。
だぼっとした服の襟元を暇そうに弄びながら、耳は小刻みに揺れ、ズボンの臀部に開いた穴からは尻尾が飛び出ていて、これも耳と同じく凄まじい勢いで揺れていた。
格好からして奴隷のものではない。さらにはこの都市によくある服ではない。
犬耳の少女は余所者なのだろうと予想がつく。
「――墓、掘ってる」
サリエルは事実だけを答えると穴を掘る事を再開した。
「へえ、大変な仕事だね? でも遣り甲斐のある大切な仕事だ!」
「どっかの誰かみたいな事を言う」
「そう?」と犬耳の少女は小首を傾げると、にやりと口元を歪ませた。意地悪そうな笑みである。
「その人の事好きだったりして?」
「別に」
「ふうん? まあいいけど――」
犬耳の少女は少年の前に回り込むと、急に顔を近づけた。
サリエルは驚きもあって一歩退く。何をするんだ、と抗議をしようとした瞬間、犬耳の少女は言った。
「――好きな人の前ではちゃんと身体は洗わなきゃ駄目だよ? くっさいんだから」
呆気に取られ、呆然とする。
「頑張って!」
犬耳の少女はそう言い残すと駆け足で走り去っていった。
唐突に現れ、颯爽と消え去る犬耳の少女を呆然と見送ると、少年は苛立ち紛れにシャベルを地面に突き刺し、乱暴に掘り返す。
「何を頑張れって言うんだ……」
愚痴が空気に溶けるも、長年やっていた作業を身体が忘れる事はない。
与えられた死骸を全て穴に放り込み終ると、サリエルは穴の脇にどけておいた土を穴の中へと埋めていく。この作業は楽なもので、無表情でありながらも疲れた吐息を漏らしていた。サリエルは幾分か楽そうに作業を行っていて――
「こら」
後ろから頭を小突かれ、驚くように背後を振り返った。
サリエルの身長は決して高いとは言えないが、それでも大半の女よりは身長が高い。
背にいたのはサリエルよりも拳一つ分は背の高い女性だった。
浅葱色の髪や翡翠色の目はあまりみない色だ。長い髪が作業に邪魔だからか、後ろで束ねた髪は馬の尻尾のように風に揺られている。
着ているものはサリエルと一緒の草臥れた黒色の服だったが、メリハリのついた身体は胸の膨らみと括れた腹、実りのある尻と女である事を主張している。
「エル、あなたは指導係を任されたのでしょう? 見て。彼らはとても戸惑っているわ。どうせ何も言わずに一人で埋葬してたんじゃないの?」
腰に手を当てぷりぷりと怒る。
切れ長の瞳は勝気そうで、整った容貌のせいか迫力がある。
サリエルはすっと目を逸らすと口を尖らせて「別に」と反論した。
すると女の耳がぴくりと動く。
他の人達よりも長い耳はぴんと立っていて、怒りに呼応するかのように動いている。
すうと息を吸い込むと、サリエルは慌てて両手で耳を塞いだ。
「別に……じゃないでしょ。例えどんな仕事であろうと誇り高くやる。そういう姿を神様は見守っているのよ!」
怒声は大きく、周囲にいた者達は皆目を見開き呆然としている。
耳の形からして大人しいと言われる種族のエルフが大声で叫んだのである。珍しい事この上ない。
キッと睨み付けている表情も美貌があって凄みがあり、並みの男ならば虜にされつつ怯える事間違いなしだが、サリエルはそういう感覚とは無縁なのか、ふんと鼻息を鳴らすとそっぽを向いた。
「神様ね。いたら俺は――あんな事せずに済んだのかな」
「エル!」
エルフの娘ははっとなって辺りを見渡し、おほほ、と取り繕うように笑う。
奴隷として初めて現場に来た者達に見られている事を思い出したのだ。
「はは、ごめんなさいね。お見苦しいところを……」
「い、いえ……」
奴隷達の中にいた一人の女だけが苦笑いで言葉を濁した。
気分の悪いときは決まって同じ夢を見る。
その夢が胸糞悪くなる――人生最悪の日を思い出させる。
思い出すのは何処とも知れない丘で起こった出来事だ。
塹壕のように掘られた穴倉の前には断頭台が置かれ、刃の降りる先に首を固定されている男がいた。
両手を背後で縛られ、膝まずいた体勢で苦しそうに吐息を漏らしている。
その吐息を浴びるくらい近くにサリエルがいたのだ。
「よお、息子」
断頭台の周りには顔を覆面で隠した男が四人いた。
その内の一人が少年の首根っこを摑まえ、目を背けられないように視線を固定させている。これから起こる事を目に焼き付けさせる為に、だ。
けれど、サリエルは一切目を背けようとしない。何故なら少年はわからなかったからだ。
「――誰だ」
この男が誰なのか、を。
「俺だよ。俺。お前の父親さ。といっても、すぐ死ぬんだがな」
断頭台に固定されているにも関わらず男は陽気に語る。
「俺に親はいない。生まれた時から奴隷の身だ。誰かに売られたのか、もしくは捨てられたのか、知らず生きてきた」
「へっへっ、良かったじゃねえか。そんな身分でも親の死に目に遭えるなんてなあ」
断定的に話す男を前にして、サリエルは一瞬信じかけた。
「髪を見ろ。眼を見ろ。お前と同じ色の人間を見た事があるのか?」
髪は黒。眼も黒。
この男の言う通りサリエルは自分と同じ髪色と目の色を見た事がない。この男を除いて。
「へっへっ、まあいいさ。どうせすぐ死ぬんだし。情愛を深める必要もない」
母を見た事はない。父も見た事はない。
ただ、ろくでなしと父が犯した償いきれない罪を返す為、少年は奴隷となって強制労働を課せられている。
当たり前のように強制労働をさせられていたので誰を恨む事もなかったし、親だと名乗る男が目の前にいても何の痛痒もない。
「執行する」
覆面の男が抑揚も無く言い、断頭台の刃を支える縄に剣を振り下ろした。
父と名乗る男が何の罪を犯したかは語らなかった。代わりにどうしても忘れていた言葉を最後に遺した。
「お前もきっとこうなる。俺の息子だからな」
首が落ち、視界は噴出す血飛沫に染め上げられた。
気分の悪い朝である。
目が覚めれば汗のせいで服が纏わりついている。
小屋のようなところに藁を敷き、六人で雑魚寝をする。足を畳んで寝なければならないほど狭い。そんなところで舌打ちをすれば大きく響き、隣に寝ていた者も起きてしまうというものだ。
「――ん、どうしたの?」
サリエルは無視をしてもう一度寝ようとするが、エルフの娘に無理やり座り込まらされた。
翡翠の双眸がサリエルを捉えて離さない。
「少しは喋るようになった方がいいよ?」
そんな言葉にサリエルは鼻息を鳴らし、そっぽを向いた。
「五月蠅い婆」
「ぶっきら棒」
エルフの娘は自分の首あたりにあるサリエルの両頬を両手で思い切り抓り上げる。そこそこに整ったサリエルの顔が無様に引き攣り、痛みのせいからか目には薄らと涙が浮かんでいた。
サリエルもやられるままではなく、目の前にある控えめな胸を鷲掴みにすると思い切り力を込めようとして――ビンタを受けて後方に吹き飛んだ。
寝床になっている藁の束に落ちたおかげでさして痛くもなかったが、少年は抗議の視線をエルフの娘に向けた。そして予想外の表情を目の当たりにし、硬直する事になる。
翡翠色の瞳は真ん丸とした状態で潤んでいる。自分の身を守るように細い身体を両腕で抱きしめている。頬は紅潮し、妙な色気があった。
どくん、と心の臓が強く打つ。
お互いの視線が重なり合い、鼓動が速くなっていく。
先に目を逸らしたのはサリエルの方だった。
その時、小屋の戸が開かれた。場の妙な空気が隙間から漏れていく気がして、サリエルは密かに安堵の吐息を漏らす。
「リビエラさん! 召集です!」
リビエラ――エルフの娘は咳払いをすると呼びかけてくる青年を見た。
「――こほん。仕事時間にはまだ早いけど、どうかしたの?」
「騎士の方がお見えです」
青年は言うなり慌てて飛び出して行く。
リビエラも後に続こうと戸に向かって足を進めた時、思いついたように一瞬立ち止まると、伏せがちな目をしてサリエルの方へそれとなく手を差し出した。
「エル、行こう」
サリエルは差し出された手をするりと躱して前に出る。
リビエラは空気を握ると残念そうな顔になるが、サリエルが唐突に腕を掴んできた時にぱあっと表情が輝く。
そして、二人はいそいそと小屋の立ち並ぶ居住区の程近くにある井戸へと向かった。召集の場所は共同の掘り井戸だと決まっているのだ。
そこには多くの奴隷達がおり、中心に士官服を着た騎士がいた。
精悍な顔立ちの男だ。
士官服はぱりっとしていて、糊がついている事が窺える。蒼色を帯びた銀色の髪は眉や耳にかからないように切り揃えられ、清潔なのだろう事を窺わせる。
腰のベルトには上品な装飾が為された儀礼剣が提げられており、このような場所に来るときにも礼節を弁えている事をわからせる。
通常、奴隷を見る目というのは蔑みなど見下されているものが多いのだが、彼の場合はそういった感情はなく、ただ淡々としている。
「志願する者はいるか?」
よく通る声は騎士のもの。
精悍な顔立ちと鍛えられた身体に相応しい低いものだった。
「何の話をしているの?」
「迷宮探索に名乗りを挙げる者はいないかって。一度でも帰還出来たら奴隷の解放も褒美に加えてくれるだってよ」
「――迷宮探索? 私達は戦闘なんてしたことないのに?」
「そうみたいだ。厄介な事に為らなきゃいいんだが」
リビエラの問いに答えたのは先ほどの青年だ。
騎士はどうやら迷宮探索の人員の補充をする為に奴隷の居住区まで来たらしい。
部下を使って集めればいいのに、わざわざ自分で。
不可解極まり無い事だが、理由の一端が知れた。
「エルフがいると聞いている」
リビエラの事だ。
エルフと言えば見目麗しいものばかりの種族である。
奴隷だからか、泥で美貌は見えづらくなっているが、風呂にでも入らせれば途端に美女に早変わりするだろう。
騎士になるものは貴族が多いのだが、使いっ走りの兵士などは町の荒くれ者達がなる場合が多い。その前にエルフなど差し出そうものならば"お試し"される事請け合いだ。そういう面倒事を嫌って、騎士が自ら足を運んだのだろう。
「エルフという種族は生まれつき戦闘能力が高いらしいな。お前は迷宮へ潜れ。人員がどうしても足りないのだ」
迷宮に潜る人員が下手に死んでは困るから。
「私が、ですか?」
「弓を扱う部族だと聞く。使えるのだろう?」
「それは、まあ……でも……」
リビエラは幼少の頃は森で育った。
物心ついた時には小振りのナイフと弓を渡され、それらを遊び道具に森の中を駆け回る。
そういう事もあってか、やはり他の民族よりも適正値が高く、何よりも親しんでいる時間が長いのだから自然と腕も上達するというもの。
長い間触れてはいないが、今渡されてもある程度の的ならば射抜く自信がリビエラにはあった。
「奴隷の身分に甘んじててよいのか?」
迷宮は危ない。
毎日のように死者が生産される場所だ。
霊園で働く奴隷達は迷宮で果てた者達を埋葬している。毎日毎日、途切れる事無く死者が運ばれてくる事を誰よりも知っている。
綺麗な死体などなく、散り散りになったものや、何かに破砕されたようなもの。毒に侵されて死んだもの。噛み千切られた跡が残る者、碌な死体がない事を十二分に知っている。
例え奴隷から解放されるかもしれない、という希望が与えられたとしても、死んでは意味がない。
リビエラとしては行きたくはない。
そんな態度が浮き彫りになっていたのだろう。騎士の男がリビエラを見る目は強制力を孕んでいた。拒否する事は許さない、と冷徹な眼差しが物語っている。人の上に立つ事になれた者特有のものだ。
普段は大きな声で話すリビエラだが、この時ばかりは喉から掠れた声しか出ず、力の抜けた身体は今にもへたり込みそうだった。
奴隷の集団にいるにも関わらず、誰もリビエラに救いの手を差し伸べようとはしない。
だが、彼女の腕を握るサリエルはそっと手を放すと、騎士の目からリビエラを守るように前に立ち塞がる。
騎士の男の眉がぴくりと動いた。
「人員が足りないんですか?」
「ああ、そうだ」
「誰でも構わない?」
「構わん」
ふむ、とサリエルは腕を組んで考え込み、あっさりと結論を出す。
「じゃあ、俺を代わりに行かせてください。この人よりも役に立ってみせます」
「ほう?」
「エル!?」
サリエルの言葉を面白そうに聞く騎士の男と、問い質すように名を呼ぶリビエラ。
「志願者は以上か? 志願者は奥にある馬車に乗れ。屋敷にて装備の支給と報酬の説明を執り行う」
リビエラは振り向く事なく馬車に進もうとするサリエルの肩を掴み、抱き寄せる。
控えめな胸がサリエルの後頭部を刺激するが、さしたる動揺もなかった。
「本気なの!?」
身を焦がすような感情が込められた言葉にも冷たい言葉を返すだけだ。
「死体に触るのなんてこりごりだし。いろいろあって――疲れたんだよ」
「死ぬ気!? 毎日死体を見ているあなたが判らない筈ないでしょう!?」
「また会うこともあるかもしれない。その時は優しく埋めてほしい」
サリエルは抑揚もなく「死んだらよろしく」と言っているのだ。
「そんな言い方って……!」
「再会できた奴なんていないから。そう考えるのが自然じゃないか」
リビエラはサリエルの肩を掴み、力を込めて押さえるが、サリエルのさして力も入れてないように見える手にあっさりと振り払われた。
彼の言葉に答える事が出来ない。かといって、自分が迷宮に行くとも言えない。そんな弱さに打ち付けられ、馬車へと向かう後ろ姿を呆然と見送る事しかできなかった。
志願兵となる者は馬車に乗る前に水で濡れた布巾で身体を拭い、支給された麻の服に着替えるように言われた。
といっても志願兵は少年を含めて二人しかおらず、片割れは少女だった。
馬車の御者と騎士の男の眼前で裸になって身体を拭わされるのに抵抗があるのか、頬を紅潮させて恥ずかしがっている。けれど、彼女は奴隷であり、抵抗する権利をそもそも持ち合わせていない。
羞恥に震えて泥で汚れた服を脱ごうとした時、サリエルが少女の行動をそっと押し止めた。
「騎士様。この娘も女です。慈悲があるのならば見ずにすませてやれませんか」
「ああ、気づかなかった。これはすまない」
汚れのせいで男女の区別がつかなかったのだろう。
胸の膨らみもささやかなもので、騎士の男に悪意はなかったようだ。
男と御者は少女の視界から外れると、サリエルもゆるりと違う場所へ移ろうとする。
「――ありがとう」
程なくして用意の出来た二人は馬車に乗り込む。
馬車の内装は如何にも貴族が乗っていそうな内装で、座るところにはクッションとなるものが置かれていた。
今まで藁で寝ていたサリエルからすれば未知の柔らかさであり、心なしか笑みが浮かんでいる。
楽しげにクッションを抱きしめたりとこれまでの達観した様子とは違う幼い仕草だが、じっと見つめてくる少女の視線に気づいたとき咳払いをして真面目な顔を取り繕った。
「ねえ、貴方はあの人の事が好きなの?」
唐突な質問にサリエルは咳き込む。
全くの予想外だったのだ。
そっぽを向いて窓から見える薄らとした回廊を見つめ、耳は少女の声ではなく馬車の奏でる車輪の音だけを聞くように専念する。だが、少女がそんな事を許す筈もなく、好奇心に溢れた真っ赤な瞳を大きく開き、じっと少年の方を見つめてくるのだ。
答える義理は全くないので無視を続けているが。
「答えてくれたっていいじゃない。二人っきりなんだし、辛気臭いのは嫌いなのよ」
「黙れ」
押し付けがましい少女の言葉に少年は端的に答えた。
「威圧感丸出し。感じ悪う」
「楽天家なのか。死ぬかもしれないんだぞ」
「あたしは死なないわ。だってまだ生きてるもの」
そうか、と適当に相槌を打って少年は窓に肘を掛ける。
もう話す事はないと口を噤み、決して少女の方を見ないように心掛ける。
「ねえってば!」
同情でした行動が裏目に出る。
しつこく声を掛けてくる少女を無視し続け、ようやく目的地に着いた時には少年の口から溜め息すらも出ないようになっていたが、たった一つの事で元気が湧き出てくる。
陽の光。
幼くして奴隷になったせいで穴倉のような霊園でずっと暮らしてきた。
陽の光もなく、死体の饐えた臭いと血と肉と泥の混じる不愉快な感触ばかりが触れれるものだった。薄暗い場所では鬱々とした人も多く、奴隷という身分もあって笑わないものが多い。
その中でもリビエラだけが何故か笑顔を振りまいていたのだが。
太陽とはこのようなものなのだろうか。
漠然と考えていた事だが、太陽の方がよほど光輝いて見えた。
照らされる大地は美しく、周囲には人が行き交い、通りには露店を開いている商人達が賑わっている。
交易都市と言われた時分よりは幾分か人通りは減っているようだが、それでも尚隙間を通るくらいしかできない人の密度だ。
そして、そんな通りを前にしての邸宅に少年と少女は招かれた。
死体を埋め立てる霊園は端から端まで歩いて半刻は掛かる。この大きな屋敷もそれと同じくらいの大きさだろうか。
豪華絢爛とまでは言わないが、入り口の門は鉄柵のようで、その両隣には警備兵が二人いる。如何にもお大臣といった様子だ。
「入れ」
騎士の男に連れられてサリエルと少女は屋敷の門を潜る。
庭園には花が咲き誇り、歩くだけでも目を楽しませる事ができそうだ。
命をチップにした博打を行わないならば、二人はきっと優雅に散歩を楽しめただろう。
しかし、屋敷の中に入ってみればやはり現実を思い知らされる事となる。
エントランスの天井はとても高く、沈み込むような絨毯やソファー、飾られた絵画や天井に吊るされたシャンデリアなど値段を創造する事すらできない。
そんな華美な内装をした此処に集うのは薄汚い鎧や武器を持つ荒くれ者や、少年や少女のように麻の服を着ているだけの男女だ。殆どが二十代後半だろう大きな身体をしている男で、あとは少年と同じくらいの世代もいる。ちらほらとだが、壮年もいた。彼らはの悲壮な決意を込めた眼差しは自由身分を勝ち取るという野望か。
兎にも角にも、こうして迷宮へ挑戦する者達が集っているのだ。
誰を憚る事無く会話する者が多く、場は混沌としている。
しかし、エントランスの奥にある扉が音を立てて開かれ、騎士を従えて出てきた白髪の目立つ壮年の男が出てきたとなれば話は別だ。何せこの男が主催者なのだから。
少年は人垣を掻き分けて前へと出た。姿をよく見る為に。話を聞き取る為に。命がかかっているのだから必死にもなるというものだ。
他のものも静かになり、しんとした耳に痛いくらいの沈黙。
ごほん、と男が咳払いをすると口を開いた。
「私の事を知らない者もいるだろうから先に挨拶をさせてもらう。ジュオ・フェズ・ヴェスペリアだ。この都市を治める貴族である。そなた達を集めたのは他でもない。迷宮に巣食う魔物が都市に飛び出て来ないように間引きをしてもらいたいのだ。放置していると増殖した魔物達が都市部へ飛び出してくるからな。証拠として魔石を持ち帰れば報酬を渡そう。それ以後、迷宮に潜ってもよいという気概のある者だけ騎士団に入ってもらう」
「魔石とは何でしょうか?」
聞き覚えのある声にサリエルははっとしてそちらを見た。
柔和な――むしろ幼いと言える童顔にぴこぴこと動く茶色の犬耳。臀部から飛び出した尻尾は今も元気に自己主張していて、真面目な表情とのギャップが凄まじい。
間違いなく昨日話しかけてきた余所者の少女である。
あの時点で変わり者だとは感じていたが、身の危険がある迷宮探索に挑もうなど愚の骨頂だ。
一瞬で手が伸び掛け、躊躇するように握り拳をすると頭を振った。
無関係だから。
「魔石とは迷宮で倒した魔物が落とす結晶だ。詳しい説明は省かせてもらうが、とにかくこれを持ち帰って欲しい。とは言え、そなた達は言っては悪いが迷宮に関してはまだ素人。魔石は一個でも構わない。質問は以上かな?」
領主の言葉に犬耳の少女はこくりと頷き、黙り込んだ。
「何、我々には神々がついておる。特にヴェスペリアでは戦神タルタロスを強く信仰しておる。かつてタルタロスは人間だったが、突如現れた巨大な魔物である牛鬼に妻を攫われたという。二人の仲を引き裂くのは聳え立つ迷宮の塔。けれどタルタロスは武力と知力を持って打ち破り、牛鬼から見事妻を取り返したのだ! それらの願いを込めて我が騎士団にはタルタロスの名を冠しておる! 騎士団タルタロスへ入団する者がいる事を我は強く望もう! 英霊の加護あれ! ――とは言え、そなた達がそのようなものを望んでいない事を十分に知っている。報酬は入団への支度金を含めての金貨五枚だ。迷宮に挑む者達には装備一式も貸与しておる。望む者は奥にいる係の者に声を掛け、武器庫へと案内してもらうがよい。準備が終わり次第屋敷の前に待機している荷馬車に乗り込め。仲間は適当に組めばよい。以上だ。健闘を祈る」
殆どの者は自分の武器を持ってきている。傭兵崩れなどが多いせいだろう。奴隷達も戸惑うように足を踏み止め様子を窺っていることから何かを警戒しているのかもしれない。
サリエルは関係ないと言わんばかりにそそくさと武器庫の案内をしている人へと向かったが。何せ武器の在庫の説明が一切なかったのだ。無くなるような愚を犯すとは思えないが、それでも良質な武器が残るとも限らない。早々に欲しいものを確保した方が良いに決まっているという判断だ。
「武器庫へと案内してもらえないか?」
「畏まりました。あちらです」
案内してくれる人は女性だった。給仕服を着ている事から小間使いのようなものなのだろう。
丁寧にお辞儀をされて連れて行かれた先には武器が所狭しと並べられている部屋だった。思わず「これは――?」と感嘆の吐息が漏れてしまう。素人目からしても業物と呼ばれるような武器が陳列されていたからだ。いや、よく見れば武器のところどころに血が染み込んでいる事が窺える。おそらくは今は亡き傭兵崩れの挑戦者たちが遺した物なのだろう。
小振りの剣や大振りの両手剣、槍や斧槍、戦斧や両手槌、分厚い盾に籠手につけるような円輪の盾など数多く並べられている。
その中でも一際浮いているものがあった。
柄は槍ほどの長さがあるが、穂先はなく、先端につけられているのは曲線を描く大振りの刃だった。
雑草などを刈り取る鎌に似ているが、大きさが全く違う。刈り取るのはおそらく首だ。
その事実は、サリエルの過去を彷彿とさせるものだ。
サリエルの父は鎌を用いて殺害を繰り返したと聞いている。
妙な縁があるものだ、と不思議に思い、同時に父の言葉を思い出す。
――お前もきっとこうなる。俺の息子だからな。
記憶を辿っただけの言葉の筈なのに、まるで耳元で囁かれたように感じた。
せめてもの皮肉と言わんばかりにサリエルは口を動かす。そうなる前に死にそうだ、と。
「どうかしましたか? ――大鎌、ですか。変わった趣味をお持ちですね。このようなものを持つのなら斧槍を使う方がよろしいかと」
何の縁があるかは知らないが、サリエルは何となく決意を固めてしまった。
「これがいい。防具は軽装がいいんだが」
「では革などはどうでしょうか。動きを素材する事のない革を鞣したものです」
見繕ってもらった物はサリエルの身体に合う革の胸当てと肩当、そして革のパンツだった。
他にも物色しようと思ったのだが、身重になるのを避けるように武器選びを終了した。
「ご武運を」
背後から聞こえる言葉に適当に手を振った。