Chapter1-3:転校生
「さて、一学期も半ばを過ぎようとしているが、このクラスの仲間が増えることになった」
担任の吉原先生の台詞を受けて、教室にはどよめきが走り、お約束のようともいえる美形の異性を渇望する声がわいた。
方や俺はというと呆然としていた。まるで、朝の会話が前振りのようだ。思わず佑哉の方を向くと、彼は親指を立てて見せた。言葉はないが「お前の会話がフラグになったぜ」と言いたいのだろう。偶然とはいえ恐ろしいタイミングである。
「おちつけ。過度に期待されては、中に入ってくるのに躊躇するだろ? まあ、躊躇したところで、入ってこないという選択肢はないんだがな」
はっはっは、と吉原先生は豪快に容赦なく言い放つ。
「ほら、入れ」
「失礼します」
教室のドアが開き、《モザイク》が姿を見せる。そして湧き上がる男達の大歓声。
どうやら、かわいい女の子がやってきたようだ。この感動を分かち合えないのが少し残念でもある。
「はじめまして、佐伯千綱です。親の仕事の都合で、中途半端な時期への編入となりましたが、仲良してくれると嬉しいです」
定型句のような挨拶だったが、なにか引っかかるものを感じた。
千綱……そうだ、彼女の名前が俺の過去を刺激したのだ。
その記憶は甘いものではない。むしろ苦い記憶だ。俺は、幼稚園の頃、同じ名前を持つ女の子に虐められていたのだ。
もしかして、まさか?
いや、そうではない。俺を虐めていた女の子の苗字は「フタバ」だったはずだ。俺の苗字と「フタ」までが同じだっただけなのに、同年齢の男の子たちに「夫婦だ!」とからかわれた嫌な記憶があるので間違いはないだろう。
たとえ本人だとしても、今更虐められるなんて思わない。あくまで幼少期の出来事である。でも、一瞬肝が冷えた。顔さえ見えれば、面影がないことで安心できただろうが、モザイクのせいでそれは叶わなかった。
「佐伯、自己アピールくらいしておけ」
「……はい。ええと……趣味は読書で――」
「どんなの読むのー!」
と松岡の大声が教室に響く。
「マ……じゃなくて、宮部みゆきとか村上春樹とか……そのあたりの作家の本を読みます」
なぜか「すごいねー」という声があがった。
モザイク越しなので表情はわからないが、俺ならきっと苦笑いを浮かべていたところだろう。佐伯が挙げた作家は当たり障りのないメジャーな作家だったからである。もちろん、本当にメジャーな作家しか読まないのかもしれない。二次元ポルノ愛好家であり、嗜む程度には読書を好む俺には、やや物足りない情報だ。
そんなことを考えていると、佐伯の自己紹介は終わっていた。
「それでは用意しますね」
と言って佐伯は教室へ出て行った。
「ん? どういうことだ?」
「同志よ。少し考えればわかるだろう」
「ああ、なるほど」
今朝までうちのクラスに空いている席なんてなかった。ならば、佐伯が使う椅子と机を用意する必要があるというわけだ。
俺と佑哉との会話で気づいたのか、我先にと言わんばかりに一部の男子が立ち上がった。それに対し、止めるように吉原先生が一喝。硬派で名が通っているクラス委員の村瀬に手伝うよう命じた。
これが漫画とかだと、あらかじめ教室内に用意されているものだけど、現実はそうではないらしい。きっと、そうでもしておかないと物語のテンポが悪くなるからに違いない。
現実というのは、かくしてつまらなく出来ているようだ。
一時間目の担当も吉原先生だったこともあり、計らいでクラス全員による簡単な自己紹介をすることになった。
その内容は、クラス替えの都度に行われる自己紹介とは若干違って見せる。というのは、「俺も『ノルウェイの森』が好きです」など、佐伯に興味のある人間は、数少ない情報から彼女の琴線にかかるようなアピールをしていることだ。これはクラスメイトの読書歴を知ることができて面白い。
「我輩の名前は――」と佑哉が立ち上がり自己紹介を始めた。甚だ信じられないのだが、空気を読めないわけではなかったらしい。ほかの連中にならい、本について語り始めた。
「吾輩はライトノベルが好きだ。最近の表紙は可愛らしい女の子ばかりで誠にけしからん。内容とは関係なく買ってしまうではないか!」
奴は朝、運命が待っているとか言っていたが、たとえ彼女が世界の命運を左右する女の子だとしても、そのフラグがいまの発言でバキバキ崩れただろう。少なくとも俺は、ラノベから始まる出会いを題材にした小説をラノベでも見たことがない。しかし、佑哉は説明が終わると満足したように腰を下ろした。奴の中では、運命が始まったのかもしれない。
とまれ、次は俺の番である。このあとならば、受けを狙う必要はないだろう。むしろ、皆が呆けている隙に終わらせるのがよさそうだ。俺は静かに立ち上がる。
「僕の名前は双月庸一です。好きな作家は井上夢人。残り一年と十ヶ月ですが、仲良くなれたらいいなと思っています」
気持ち早口でしゃべり、終わると同時に席に着く。心の準備ができてなかったのか、次の志村は慌てて立ち上がろうとして机にひざをぶつけた。大きな金属音を教室に響くと、「なにやってんだよ」とほかの連中から揶揄が飛ぶ。
志村はこの状況は逆においしいと感じたらしく、鼻の穴を大きく広げ、自分がさもクラスのムードーメーカーであるかのようにおどけて見せた。
この志村の行動に対し、いつもならば俺も笑っていたのだろうが、そのときはその気になれなかった。勘違いかもしれないが視線のようなものを感じるのだ。
周りを見渡すが、若干テンションが高い野郎連中とうごめいている《モザイク》が見えるだけ。もしかすると、この中に志村の好きな女子がいて、余計なことをした俺を恨みたらしく睨みつけているのかもしれない。たとえそうだとしても、それが誰なのか俺には知るよしもなかった。
佐伯への自己紹介はつつがなく終わり、通常通り授業が始まった。しかし、教室の中は浮ついた空気が蔓延しており、集中している状況からは遠く離れていた。
その様子を鑑みた吉原先生は、意地悪く質問を生徒にぶつけはじめる。数人がこっぴどく叱られた結果、結果的にこれまでにないほどの剣呑な空気に包まれた授業になった。
チャイムが聞こえ、全員が安堵の息を吐き出す。号令がかかると、佐伯の席に多くの人間が集まり始めた。女子が誰だかわからない状況でも、教室の隅に集まれば、いくら俺でもそれくらいはわかる。彼女の席は、廊下側の一番後ろの席だった。
「ふむ、おろかなものだな」
その様子を眺めながら、佑哉は呟く。
「なにがだ」
「物語の主人公は、ああいう風に烏合の衆とは交わらないものだ。つまり、あそこの連中は物語への介入を諦めたことというわけだよ」
「本気言っているわけじゃないだろ」
「もちろん、ちゃんと現実を直視しているさ。そこまで我輩の脳味噌は狂っていない。それに恋が青春の中で、必ずしも尊いわけではない。優劣は自分の中にのみ存在する。恋よりも楽しいものがある以上、それを楽しむまでだ」
にやりと佑哉は笑う。甚だ理解できないのだが、楽しいと思っているのならばそれで構わないだろう。
「しかし、彼女は我輩に気があるのだろうか」
「お、なんだ。偉そうなことを言いながら、やっぱり佐伯に興味があるのか。佑哉が現実の女の子に興味を抱くなんて、お兄さんは嬉しいぞ」
「いやそうじゃない。同志は気がつかないのか、佐伯はこっちを見ているぞ」
無意識に佐伯の方を見やる。しかし、モザイクのせいで視線どころか、どれが佐伯なのかわからない。
「気のせいだろ?」
と適当に返す。
「そうか、やけに視線が合うんだが」
「まあ、意外とラノベを読んでいるのかもしれないな」
「そうか。もしそうならば喜ばしいことだ。せっかくだし、一冊貸してみるかな」
「まて、一体なにを貸すつもりだ」
「『EGコンバット』」
それは、クライマックスを目前にして、ぱったりと続巻が発売されなくなったライトノベルだった。評判は高く、多くの読者から続きを渇望されているが、十年たった今も新刊は発売されていない。
「いや……それは完結してから貸してやるのが優しさだろう」
「じゃあ、二度と貸す機会はなさそうだな。この悲しみを共有することで、つり橋効果のように恋愛感情を芽生えさせるかもしれないというのに」
そんな歪んだ恋の始まりは、お金を積まれても勘弁したいものだ。
ん? ちょっと待て。
「俺に本を貸したのは、そんな魂胆だったのか!?」
「そうだ。もちろん、恋愛感情は含まれていない。我輩は二次元幼女愛好家だからな」
佑哉は、自分の性癖をさも当然のようにカミングアウトする。そして、話を続けた。
「物語を介し、その感情を共有することもまた相互理解の一歩であると考えている。しかし、それは人の心の側面であり、すべてを理解することは叶わないだろう。それでも、一つの要素でも理解しているという事実は、信頼を抱くのに十分な理由となる」
「物語を介さないとなかなかわかってくれないのが、お前の悪いところだな」
「そうだな。しかし、言葉と同じコミュニケーションツールのようなものだ。嗜好性と志向性が定まっている故に、わかりやすいのもまた事実。我輩と同志の関係のように」
「わかりやすい、ね」
俺は女性のことをよくわからないものだと感じている。顔さえ見えればわかるのか、と問われれば肯定はできない。しかし、モザイクが女性を得体の知れないものだと認識させる。
きっと、モザイクという性質がそう思わせるのだろう。
従来、モザイクは見てはいけないものを使われるからだ。