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コイスルシカク  作者: 柏木一木
Chapter1
2/8

Chapter1-1:変わらない日常はラジオから

constant obstacle <コンスタント・アブスタクル>

意味:常に存在する障害

意訳:目の上のたんこぶ

『Goooooooood morning!』


 朝。ミニコンポから流れる陽気なDJの声で、いつものように俺は目を醒ます。なにか夢を見ていたような気がしたが、霞を掴むように、その内容を思い出すことはできなかった。パジャマ代わりに使っているティシャツが夏でもないのに汗ばんでいる。

 悪夢でも見ていたのだろうか?

 まあ、たいした夢ではないだろう。

 ベッドから起き上がり、目覚まし代わりのミニコンポに手を伸ばす。DJが八十年代の有名な洋楽の紹介を始めたとき、ミニコンポの電源が落ちた。一瞬だけ流れたイントロに、なにか心に惹かれるものを感じたが、もう一度電源を付ける気にはなれない。そういえば、いつも曲名だけ聞いて、そのあとに流れる曲をまともに聴いたことがなかった。

 通学の準備を終えたあと、一階の洗面所へ向かう。鞄を足元に置き、顔を洗おうと蛇口を捻ろうとしたとき、髭剃りの後なのだろうか、黒い粒が洗面器に流し落とされることなく残っていた。

 さながら、シチューの上に振り撒かれたコショウのようだ、などと髭カスを表現するにはいささか美麗句が過ぎるだろうか。


「あとから使う人がいるのだから、もう少しキレイに使って欲しいもんだなぁ」


 と目の前にはいない父親に対して愚痴をこぼしながら、蛇口をやや強めにひねり、撫でるように手のひらを使って髭を洗い流す。

 これで見た目はキレイになった。しかし、このまま水を溜めて使うには、小さい粒子となった髭が目に刺さりそうで躊躇せずにはいられない。かといって、目を強くつむったままで顔を洗うのは、なにか違うような気がする。

 そんなどうでもいいことに悩んだ末、蛇口から手のひらに直接水を溜めて顔を洗った。


「しかし、珍しいこともあるものだ」


 タオルで顔を拭きながら思わずそう呟いた。

 一番朝早いのは母、次は仕事場が遠い父、その次は運動部に所属している妹、最後に帰宅部の俺という順番だ。

 朝のスケジュールはよほどのことがない限り狂うことはない。

 今日はなにか特別な日だっただろうか?

 首を傾げながら居間のドアを押し開くと、母がいつものようにテレビにかじりついて見ていた。


「おはよう、母さん」

「おはよう、庸一さん」


 母さんは、視線を向けず半ば自動的に挨拶を返す。朝の連続ドラマの面白さはわからないが、視聴率から鑑みるに中年女性の心を鷲掴みにするなにかがあるのかもしれない。

 邪魔しないように、テーブルに置かれた自分の茶碗に手を伸ばす。そのとき、妹の茶碗が手つかずに並んで置いてあるのに気がついた。


「あれ、美希はまだ起きていないの? 部活は?」

「さあ?」

「起こしてあげようよ」

「そうね」


 どうやら母さんはテレビから目を離すつもりはないらしい。


「レギュラーとったって喜んだばかりだし、遅刻して監督の印象を悪くするのもかわいそうだ」


 そう独り言のように呟くと「美希をよろしくね」と無責任な言葉で返した。


「はいはい」


 俺はやる気のなさそうにぶらぶらと手を振って廊下に戻る。そして、妹の部屋へ続く階段を見上げた。

 俺と美希の子供部屋は三階にある。

 美希のようにバスケット部で鍛えられているのならばまだしも、間違っても往復するような状況にならぬよう、洗面所で制服が濡れる危険を冒してでも起床後すぐに着替えて行動するよう心がけている、帰宅部で身体を動かすことをさほど愛していない俺には多少骨の折れる道程だ。富士の登頂よりも緩慢としているが、それでも確実に体力を消耗させるに違いない。


「面倒だ」


 口に出して再確認せずとも大変面倒であるのは覆ることはない。

 とはいえ、自分から言い出した手前、引き返すことはできない。それに、家の階段を目の前にして躊躇するのも馬鹿げた話である。

 そう考えていたにもかかわらず、「さてと行くか」とまるで気合を入れるかのような言葉が唇から漏れた。

 やれやれ。

 とくに息切れすることもなく、美希の部屋の前にたどり着いた。

 さて、何の気なしにここまで来てしまったが、身内とはいえ思春期の娘さんの部屋に入ってよいものだろうか?

 ひとまず、美希の部屋に最後に入ったのがいつのことなのか思い返す。まったく思い出せない。少なくともここ一年は入ったこともなければ、中の様子を覗いた記憶もなかった。

 なるほど、俺は妹にまったく興味がないようだ。

 しかし、美希との仲はそれなりに良好であると確信を持って言える。会えば話すし、その会話の中で互いに笑顔を零すことができるのだから関係が悪いわけがない。

 そんな仲がいい兄妹なのだから、思春期であろうとも気にせずに部屋に入っても問題ないだろう。そう言い聞かせてドアノブを捻ろうとしたとき、部屋の中からけたたましい音が聞こえてきた。目覚まし時計だ。目覚まし時計は自分では考えて動くものではない。ということは、妹はこの時間に起きるようあらかじめ目覚ましを設定したということなのだろう。

 なんだ、わざと寝坊したのか。

 しばらくすると、叩きつけるような音が聞こえ、あたりは静けさを取り戻す。ドアノブから手を離すと、手のひらが少し湿っているのに気がついた。少しほっとした自分がいる。やはり、慣れてないことはするものではない。

 居間に戻り、朝食に用意された目玉焼きの黄身だけを残すよう集中して食べていると、廊下から雪崩のような足音が聞こえてきた。そして、ドアが開くと深い息を吐き出しながら立っているパジャマ姿の美希がいて、「なんで起こしてくれなかったの!」と怒ったような、泣いているような表情を浮かべていた。


「あれ、部活ないんじゃないの?」

「誰がそんなこといったの!」

「いや、聞いてないな」

「じゃあ、今日は何の日? 特別な日じゃなかったら、今日はいつもと変わらない日に決まっているじゃん。毎日はエブリディだよ! いつも昨日はイエスタディ!」

「なにを言う。毎日、なにかしらの記念日が設定されているし、誰かしらの誕生日だ。特別じゃない日なんて一日もない。だから、突然部活が休みになってもおかしくはない」

「それって詭弁!」

「そうだな。でも、なんであんな時間に目覚ましを設定したんだ?」


 当然の質問をすると、美希は苦虫を潰したような表情を作る。


「昨日休みだったでしょ?」

「だから?」

「もう、わからないかなあ。昨晩、設定を戻さずに寝ちゃったんだよ」

「なるほどね。どうするんだ? 朝ご飯食べていくのか」

「もちろん食べるよ。もう朝練に出れないのは確定だからね。無理しても仕方ないし」


 先ほどまで勢いはどこにいったのやら、泣いた狸がすぐ笑うように、美希は鼻歌を口ずさみながら台所へ向かっていった。

 ポジティブシンキングというか、サバサバしているというか、妹は大物だ。ただ、無責任か粗忽者に見えなくもなく、兄として心配せずにはいられない。


「もう少し、気落ちした方がいいんじゃいか。ああ、なんで私はいつもこうなんだろう、とか」

「それはしているよ。やっちゃったっ、て」

「軽いなぁ」

「でも、過ぎたことじゃん。時間は有限だし、いつまでもくよくよするなら次に備えた方がいいと、あたしは思うの」

「至言だね。美希語録に新たな一ページが加えられた」

「なにそれ? ほかに何があるの?」

「『あたしはゴキブリを尊敬する。一億年前からその姿を変えていないとするならば、進化を終えた生体、つまり完璧な存在――すなわち神なのだ』」

「そんなこと不謹慎なこと言わないよ!」


 実際に美希がそんな至言を口にしたわけではない。しかし、この着想はゴキブリに相対したときの美希の吐き捨てた言葉から生み出されたものであったので、俺としては美希に著作権があると考えているし、そこは拘っていきたい。


「しかし、ゴッキーはなんであそこまで嫌われるのかわからないね」

「ご飯食べているときに、そんな話題しないでよ」


 しかめっ面をしながらも、美希は自分から話を繋げる。


「まあ、好かれる要素がないからじゃないかな。よく言うじゃない。好きの反対は嫌いじゃなくて無関心だって。好かれる要素がなくて、無関心にもなれないんだったら嫌いになるしかない。つまりそういうわけ」

「食を愛して止まない日本人にとって、台所に出没するゴッキーは、無関心になれるわけがないと」

「かもね。あとね、名前に原因があるんじゃないかな」

「名前?」

「ゴキブリって濁点が多いじゃない? バクダンとか、嫌われているのは大体濁音あるし」

「でも、ブラジャーは好かれていると思うよ」

「あたしは好きじゃないな。蒸れるし」


 と平然に答えたあと、美希は表情を赤らめる。


「っていうか、兄さん、いったい何を言ってんの!」

「ん? いや、思いついた濁音が多いのを口にしてみただけだけど」

「でもなんで、よりによってブラジャーなわけ? 他にもあるじゃない。たとえば――ええと、まあいいや」


 どうやら思いつかなかったらしい。ちなみに、俺がブラジャーの次に思いついたのはガンダムだ。


「ははん、おにーさんも好きなんだ。このドスケベ」

「んーブラジャーよりもおっぱいの方がいいなぁ。やっぱり人間は中身だよ」

「普通、それも外見って言わない?」

「じゃあ、外見でいいや。ほら――」

「『ちょっとでいいから、そっと見せてくれよ』なんて言わないよね?」

「ああ、言うわけないだろ。そっと見せてくれなんて、馬鹿らしい。そんなダジャレを言うわけないじゃないか」


 とっくに朝食を食べ終えていた俺は、鞄を手に取り立ち上がる。その場から逃げ出すような形になってしまったが、別にそういうわけではない。大切なことだから繰り返すが、別に逃げ出すわけではない。


「おお、最後は《ダジャレ》とオチをつけましたか」


 と、知った風に妹がニヤニヤ笑いながら言うのを無視して居間を出た。

 さて、学校へ出かけるか。

 俺は玄関の扉を開ける。斜めに浮かぶ太陽が世界を一瞬だけ真白に染めたあと、見慣れた町並みを描き出す。そこに、偶然通りかかったのだろう。《モザイク》が俺の目の前を横切ろうとする。しかし、その《モザイク》は通り過ぎることはなく、動きを止めた。


「あら、庸一くん。おはよう」


 どうやら、その《モザイク》は隣に住む北村のおばさんだったらしい。「おはようございます」と挨拶を返すと満足したらしく、北村のおばさんはその場から立ち去っていった。

 こうしたやり過ごしもまた、平穏なる日常の一部だった。

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