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青春短編

グリーン・モニタの向こう側、君に「好き」と打ち込めなかった夏。

作者: 玻璃ヰト
掲載日:2026/10/27

 記憶の色は、いつだって淡い緑色をしている。


 あれから四十年近い時が流れ、世界は鮮やかなフルカラーの液晶と、手のひらに収まる高性能な端末で溢れかえっている。

 けれど、私が「コンピュータ」という言葉を聞いて思い出すのは、あの暗い部屋で明滅していた、単色のブラウン管(CRT)の光だけだ。


 一九八四年。

 ジョージ・オーウェルが予言した管理社会とは違うけれど、私たちは確かに、新しい時代の入り口で足踏みをしていた。


 場所は京都。駅前の雑踏を抜けた先に建つ、プレハブ小屋のような白い二階建ての専門学校。

 空調の効きすぎた実習室の寒さと、一歩外に出た時の、肺が焼けるような盆地の湿気。

 蝉せみ時雨しぐれと、タタタタ、というキーボードを叩く乾いた打鍵音とそれより少し大きな、紙カードに打刻するタイプの音。


 あの夏、私は恋をしていた。

 相手は人間だったのか、それとも、あの理解不能な電子の論理だったのか。


 今となってはもう、確かめる術はない。

 彼は、書きかけのコードのように、私の人生から唐突に消えてしまったから。

 エラーメッセージさえ残さずに。

 高校を卒業した私がその専門学校を選んだ理由は、あまりにも短絡的で、そして無知ゆえの蛮勇だった。


「これからはコンピュータの時代やて」


 進路指導の教師も、親も、口を揃えてそう言った。

 私はその言葉を鵜呑みにした。手に職をつければ安泰だ。機械は苦手だけれど、学校に行けば魔法のように使いこなせるようになるのだろう。そんな甘い見通しで、私はその白い建物の扉をくぐった。


 四月。入学式の翌日から、そこは地獄と化した。


 飛び交う言葉のすべてが、異国の言語だった。

 アルゴリズム。フローチャート。変数。配列。十六進数。

 先生が黒板に書く文字は、呪文にしか見えなかった。


「ええか、ここがメモリのアドレスや。番地みたいなもんやと思え」


 関西弁のイントネーションで語られる論理は、私の右耳から左耳へと素通りしていく。

 COBOL(コボル)、FORTRAN(フォートラン)、PL/I(ピーエルワン)。

 それぞれの言語には厳格な文法があり、コンマひとつ、スペースひとつ間違えるだけで、機械は冷酷に沈黙する。


 私たちは「パンチカード」と呼ばれる紙のカードに穴を開け、それをリーダーに読み込ませる実習もした。

 物理的な穴が情報になる。その理屈は分かっても、私の指先はいつも迷子だった。


 Windowsなんて影も形もない時代だ。マウスでアイコンをクリックすれば何かが起きるような優しさはない。

 黒い画面に、緑色のカーソルが点滅している。

 そこに「コマンド」と呼ばれる命令を打ち込まなければ、何も始まらない。


 ラインエディタでのコーディングは、苦行そのものだった。

 一行書いては確認し、間違えれば行を指定して修正する。全体像が見えないまま、暗闇の中で手探りをするような作業。


 五月が過ぎ、六月が終わり、京都が祇園祭ぎおんまつりの熱気に包まれる頃には、私は完全に落ちこぼれていた。

 クラスメイトたちが「コンパイル通った!」と歓声を上げる中、私が打ち出したプリンタ用紙には常に冷ややかな「SYNTAX ERROR」の文字が並んでいた。


 そして、夏休みが来た。

 それは休暇ではなく、敗者復活戦という名の刑期だった。

 山のように出された課題。これをクリアしなければ、後期への進級は危うい。


「……無理や、こんなん」


 誰もいない教室の片隅で、私は何度、その言葉を吐き捨てただろう。

 将来性があるから? そんな理由で選んだ道は、行き止まりの迷路だった。


 八月の京都は、サウナの中にいるようだ。

 駅からの道のりで汗だくになり、白いプレハブ校舎に入ると、冷房の冷気で汗が冷えて肌に張り付く。


 その日、私は実習室の冷たさに耐えられず、逃げるように廊下に出た。

 一階と二階を繋ぐ階段。

 その踊り場だけが、西日が差し込んでいて、皮肉なことに一番落ち着く場所だった。


 私は階段に座り込み、膝の上に広げたコーディングシート(マス目のついた専用の用紙)を睨みつけていた。

 課題は、BASICベーシック言語での簡単な在庫管理プログラム。

 論理が破綻していることは自分でも分かっている。でも、どこをどう直せばいいのかが分からない。


「……そこ、ループ抜けてへんで」


 頭上から、声が降ってきた。

 低く、少し鼻にかかった、落ち着いた声。


 驚いて顔を上げると、逆光の中に男子学生が立っていた。

 同じクラスの、坂本くんだった。

 いつも教室の最前列に座り、先生の質問に的確に答えている秀才。黒縁の眼鏡をかけ、少し猫背で、ワイシャツの袖を無造作に捲り上げている。


「え……?」

「その、IF文のとこ。GOTOで戻る先が違う」


 彼は階段を降りてくると、私の隣に――少し距離を空けて――腰を下ろした。

 そして、私の手からシャーペンをひょいと取り上げると、コーディングシートの余白にさらさらと図を描き始めた。


「プログラミングはな、料理と一緒やねん」

「料理……?」

「せや。冷蔵庫から材料出すんが『入力』。切ったり炒めたりするんが『処理』。皿に盛るんが『出力』。君のこれは、野菜炒め作ろうとしてんのに、いつまでも肉を炒め続けてる状態や」


 彼の説明は、先生のどの講義よりも分かりやすかった。

 魔法の呪文だと思っていたコードが、ただの手順書に見えてくる不思議。


「……私、向いてへんのかな。何が何やら、さっぱりで」

「向き不向きやないよ。言葉が違うだけや」


 坂本くんは、眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、少し照れくさそうに笑った。


「コンピュータは融通が利かんアホやから、人間が赤ん坊に教えるみたいに、いっこずつ丁寧に教えな動かんのや。君は多分、優しすぎるんちゃうか? 『これくらい分かるやろ』って端折ってまうから、機械がパニック起こすんや」


 優しすぎる。

 ただの能力不足を、そんな風に言ってくれるなんて。


 窓の外では、油蝉アブラゼミが狂ったように鳴いていた。

 埃ほこりの舞う階段の踊り場。

 汗と、微かなタバコの匂い(校内は禁煙だったけれど、男子学生の多くは隠れて吸っていた)。

 そして、シャーペンの芯が紙を走る音。


 それが、私と彼との、最初の「接続《コネクト》」だった。


 それから、私の夏休みは「補習」という名の密会へと変わった。

 毎日、午後一時。あの階段の踊り場で待ち合わせをして、彼に教えを乞う。


 彼は、本当にコンピュータが好きだった。

 アセンブラ言語がいかに美しいか、C言語がいかに自由で危険か。彼の口から語られる技術の話は、まるで詩のようだった。


「ええか、0と1しかないねん。オンかオフか。白か黒か。この世のすべてを、たった二つの状態で表現できる。それって、ごっついロマンチックやと思わへん?」


 実習室の片隅で、二人並んでキーボードを叩く。

 カチャカチャカチャ、ッターン。

 エンターキーを叩く音が、二人の間でリズムを刻む。


 彼が打つコードは速くて正確だった。

 横顔を盗み見ると、グリーンのモニタの光が眼鏡のレンズに反射して、瞳の奥に小さな宇宙があるように見えた。


 ある日、休憩時間に彼が「これ、飲むか」と、自動販売機で買った瓶のジュースを差し出してくれた。

 リボンシトロン。

 冷えた瓶の表面に水滴がついていて、それが彼の手のひらを濡らしていた。


「……ありがとう」

「頭使うと、糖分欲しなるからな」


 二人で並んで、甘い炭酸水を飲んだ。

 言葉は少なかった。

 でも、冷却ファンの低い唸り音(ブーンという音)が響く部屋で、私たちは確かに同じ回路で繋がっていた。


 私は、彼のことをもっと知りたかった。

 どんな音楽を聴くのか。休みの日は何をしているのか。好きな人はいるのか。

 けれど、それを聞くことは「構文エラー」になるような気がして、怖かった。


 私たちはあくまで、教える側と教わる側。

 この夏だけの、一時的なサブルーチン。


 それでも、彼が私のコードを見て、「お、動いたやん。ええ感じや」と笑ってくれた時、胸の奥で小さなランプが灯るのを感じた。

 将来性とか、就職とか、そんなことはどうでもよくなっていた。

 ただ、彼と同じ言語を話せるようになりたい。

 彼が見ている「0と1のロマンチックな世界」を、隣で見たい。

 それだけが、私がキーボードを叩く理由になっていた。


 八月の終わり。

 課題提出の期限が迫っていた。

 私は最後の難関である、COBOLのマッチング処理のプログラムに取り組んでいた。


 日が暮れても、バグが取れない。

 実習室には、私と坂本くんの二人だけが残っていた。

 窓の外はすでに暗く、遠くで送り火の準備をする街の気配がする。


「……あかん、またエラーや」

 私が弱音を吐くと、彼は黙って私の椅子を引き寄せ、後ろから覗き込んだ。


 近い。

 彼の体温と、柔軟剤の匂いが背中を包む。

 心臓の音が、打鍵音よりも大きく鳴り響く。


「ここ。ピリオドが抜けとる」

 彼の手が伸びてきて、私の指の上からキーボードを叩いた。

 一瞬だけ触れた、彼の指先の熱。


「あ……」

「これで、コンパイルしてみ」


 私は震える指で、実行コマンドを打ち込んだ。

 ドライブが回転する音。

 そして、画面に表示されたのは「NORMAL END」の文字と、正しい計算結果。


「やった……!」

 思わず振り返ると、彼と鼻先が触れそうな距離で目が合った。


 グリーンの光に照らされた彼の顔。

 眼鏡の奥の瞳が、優しく揺れている。

 時間が止まったようだった。

 このまま、彼が私に触れてくれるのではないか。そんな期待が、夏の湿気のように膨らむ。


 IF 君が僕を好きなら THEN キスをする

 ELSE 離れる


 私の頭の中で、そんな愚かなコードが走る。

 けれど、彼はふっと視線を逸らし、体を離した。


「……よかったな。これで夏休みも終わりや」


 その言葉は、完了通知のように淡々としていた。

 彼は荷物をまとめ、立ち上がる。


「気ぃつけて帰るんやで」

「うん……坂本くんも」


 扉が閉まる音。

 残された私は、画面に光る「NORMAL END」の文字を見つめていた。

 プログラムは正常終了した。

 けれど、私の恋は、初期化もされないまま、メモリの片隅に取り残されてしまった。


 結局、連絡先も聞けなかった。

 携帯電話なんてない時代だ。家の電話番号を聞くというのは、告白するのと同じくらい勇気のいることだった。


 それから、数年が経った。

 私は結局、プログラマーにはならなかった。

 あの夏、必死で覚えたCOBOLもFORTRANも、実社会に出ればすぐに新しい技術に置き換わり、あの白いプレハブ校舎で学んだ知識は、化石のように古くなっていった。


 ある日、私は仕事の用事で京都駅に降り立った。

 ふと思い立って、あの専門学校のあった場所へ足を運んでみた。


 白い建物は、なくなっていた。

 そこには真新しいビジネスホテルが建っていて、あの埃っぽい階段も、冷えすぎた実習室も、影も形もなかった。


 私は、風の噂で聞いていた。

 坂本くんは卒業後、東京の大手システム会社に就職し、すぐに海外の支社へ行ってしまったと。

 シリコンバレーか、どこか遠い場所へ。

 彼は本当に、0と1の世界の住人になってしまったのだ。


 もう、二度と会うことはないだろう。

 今の私には、彼を探す術もない。


 ビジネスホテルの前の自動販売機で、私は炭酸水を買った。

 リボンシトロンはなかったから、似たようなレモンライムのソーダを。


 プシュッ、と缶を開ける。

 あの日の瓶の王冠を開ける音とは違う、現代的な音。


 一口飲むと、炭酸が喉を刺した。

 涙が出そうになった。


 後悔がないと言えば嘘になる。

 あの日、もっと勇気を出していれば。

 エラーを恐れずに、気持ちを伝えていれば。


 けれど、不思議と胸の中に広がるのは、痛みよりも温かな感情だった。


 ありがとう、坂本くん。

 あなたは私に、プログラムの書き方だけじゃなく、「分からないものと向き合う勇気」を教えてくれた。

 世界は難解なコードで書かれているけれど、一つずつ紐解いていけば、必ず答えにたどり着けるのだと。


 あなたが直してくれた私のバグは、今も私の人生の中で、正しく機能しているよ。


 見上げると、京都の空はあの夏と同じように高く、入道雲が湧き上がっていた。

 どこか遠い空の下で、彼もまた、グリーンの光を見つめているのだろうか。


 私は空になった缶をゴミ箱に捨て、歩き出した。

 私の人生というプログラムは、まだ続いている。

 正常終了まで、もう少し頑張ってみようと思う。


 さようなら。私の、夏のデバッガー。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!


この京都のコンピュータ専門学校に入学したときには、

コンピュータについての知識が全くなかったので、

授業で先生が言っていることの意味が、本当にほとんどわかりませんでした。


それが、夏休みの課題をするために毎日通っているうちに友人もでき、

教えてもらいながら、なんとか夏休みの終わりにはプログラムがある程度書けるようになりました。

この、学生時代のことをベースに今回書いてみました。


この短編シリーズは、基本的に私の実体験の記憶をベースにした創作です。

ですので、私が主人公だったりそうでなかったり、時には男になったり女になったりしながら書いています。


もし、少しでも「良かった!」「次も楽しみ」と思っていただけましたら、

画面をもう少しだけ下にスクロールして、

【☆】を【★】に変えて応援していただけるとすごく嬉しいです!


皆様の応援が、次の作品を書く大きな力になります。

ありがとうございました!


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