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婚約破棄鑑定士は、恋を値切らない

作者: くるみ
掲載日:2026/06/03

王都には、婚約破棄を買い取る店がある。


店の名は《未練商会》。

扱う品は宝石でも絹でもなく、終わった恋である。


「この婚約破棄、いくらになりますか」


そう言って店の扉を開けたのは、白い礼服を着た令嬢だった。


夜会帰りらしい。

髪には真珠が挿してあり、頬にはまだ涙のあとが残っている。けれど背筋はまっすぐで、声は震えていなかった。


私はカウンターの奥から鑑定用の銀秤を取り出した。


「お名前を」


「エルネスタ・クロイツ伯爵令嬢です」


「破棄した側ですか、された側ですか」


「された側です」


「理由は」


令嬢は1拍だけ黙った。


「王太子殿下が、私より真実の愛を選ばれたそうです」


またか、と思った。

王都では近頃、真実の愛が大流行している。


真実の愛は便利な言葉だ。

責任を逃がし、約束を焼き、周囲の迷惑を美談に変える。


私は帳簿を開いた。


「では、婚約破棄証明書を拝見します」


令嬢は封書を差し出した。王家の封蝋が押されている。

そこには美しい文字でこう書かれていた。


クロイツ伯爵令嬢エルネスタとの婚約を、本日をもって破棄する。

理由は、彼女が王太子妃にふさわしい慈愛を欠き、また王太子殿下の心を欺いたためである。


私は銀秤の皿に証明書を載せた。


片方の皿が沈む。

もう片方の皿には、薄い青色の炎が灯った。


未練の色だ。


「おかしいですね」


「何がですか」


「未練が少なすぎます」


エルネスタ嬢は瞬きをした。


「それは、私が薄情だという意味でしょうか」


「いいえ、そうではありません」


私は青い炎を指でつついた。炎は小さく揺れ、すぐに姿を変えた。


そこに映ったのは、庭園で本を読む若い王太子と、少し離れた場所で書類に目を通すエルネスタ嬢だった。


王太子が笑いかける。

彼女は顔を上げ、淡く微笑む。


けれど、その微笑みには熱がない。

努力はある。敬意もある。期待もある。

だが、恋だけがない。


「あなたは殿下を愛していなかった」


私が言うと、エルネスタ嬢は静かにうなずいた。


「はい」


「では、なぜ買い取りを?」


「悔しいからです」


「悔しい?」


「愛していなかったことと、侮辱されて平気なことは別です」


それは、この店に来る令嬢たちがあまり口にしない真実だった。


恋が終わったから泣くのではない。

自分の時間を軽んじられたから泣くのだ。

尽くした努力を、たったひと言で汚されたから怒るのだ。


私はうなずいて、銀秤の下から黒い帳簿を取り出した。


「では、未練ではなく名誉毀損として鑑定します」


エルネスタ嬢の目が細くなった。


「そのような買い取りも?」


「ええ。ただし高くつきます」


「私が払うのですか?」


「いいえ」


私は証明書の王家の封蝋を軽く叩いた。


「払うのは、破棄した側です」


未練商会には、王国で唯一許された特権がある。

婚約破棄に含まれる虚偽、侮辱、財産的損害、精神的被害、および社交上の信用毀損を鑑定し、その価値を金額に換算できるのだ。


なぜそんな店があるのか。


初代国王が、7度も婚約破棄された末に即位した女王だったからである。


彼女は遺言にこう残した。


恋は自由でよい。

だが、自由の名で他人の人生を踏みにじる者からは、きっちり利子を取れ。


私は素敵な法律だと思っている。


「確認します。エルネスタ様は、殿下を愛していなかった。しかし王太子妃教育を受け、公務補佐を行い、外交文書の下訳まで担当していた。それを殿下は、真実の愛を理由に破棄した」


「はい」


「さらに、あなたが殿下の心を欺いたと公文書に記した」


「その通りです」


「実際には?」


「殿下は私の名前を、3年で27回間違えました」


私は手を止めた。


「27回」


「はい。エルネスタをエルミーナと18回、エリザベータと6回、エルネスティーネと3回」


「よく数えましたね」


「王太子妃教育の一環で、記録癖がつきました」


素晴らしい。

私は職業柄、記録癖のある令嬢が好きだ。

復讐において、感情より記録の方が強い。


「証拠はありますか」


エルネスタ嬢は、持っていた小さな鞄を開けた。

中から出てきたのは、分厚い手帳が7冊。


「すべて日時、場所、証人名つきで記録してあります」


私は思わず身を乗り出した。


「……採用したい」


「え?」


「いえ、こちらの話です」


そのとき、店の扉が乱暴に開いた。


金の刺繍を施した外套。

磨き上げられた長靴。

そして、自分が物語の主人公であると信じて疑わない顔。


王太子殿下だった。


その後ろには、桃色のドレスを着た少女が寄り添っている。

噂の真実の愛だろう。


「エルミーナ!」


エルネスタ嬢が無言で手帳を1冊開いた。


「28回目ですね」


王太子は気づかず続けた。


「こんな怪しい店に来るとは、やはり君は心が卑しい。僕との婚約がなくなった腹いせに、何を企んでいる」


私はカウンターから出た。


「殿下、ここは王国認可の鑑定所です。営業妨害は銀貨30枚からになります」


「黙れ。平民が王族に口を出すな」


桃色の少女が殿下の袖を引いた。


「殿下、怖いです。あの人、きっとエルネスタ様に雇われた悪い魔女です」


私は自分の黒い作業服を見下ろした。

まあ、否定しきれない。


「ご安心ください。魔女ではありません。鑑定士です」


私は銀秤を王太子の前に置いた。


「せっかくですので、今ここで婚約破棄の価値を算定しましょう」


「価値だと?」


「はい。殿下が壊したものの値段です」


王太子は笑った。


「壊した? 僕は真実の愛を選んだだけだ」


「では、その真実を量ります」


私は証明書を銀秤に載せた。

続いて、エルネスタ嬢の手帳を1冊ずつ載せる。


皿が沈む。

炎が青から白へ、白から金へ、金から黒へと変わった。


黒い炎は、虚偽の色である。


店内の空気が重くなった。

王太子の顔から笑みが消える。


「何だ、それは」


「鑑定結果です。この婚約破棄には、恋愛感情の不一致はあります。しかし、エルネスタ様に非があるという記述は虚偽です」


「そんなはずはない。彼女は僕を愛していなかった」


「殿下も愛していなかったでしょう」


「僕には真実の愛がある!」


「それは結構です。ですが、愛していない相手に3年間の妃教育を受けさせ、公務を任せ、外交文書の修正をさせ、最後に『慈愛を欠く』と公表した場合、話は恋ではなく労働と名誉の問題になります」


桃色の少女が震える声で言った。


「でも、エルネスタ様は冷たい方です。いつも殿下に微笑むだけで、優しい言葉をかけなかったと聞いています」


エルネスタ嬢は静かに答えた。


「王太子妃候補の仕事は、殿下を甘やかすことではありません」


「殿下がおかわいそうです」


「殿下は23歳です」


店内が少し静かになった。

私は咳払いをして、鑑定を続けた。


「算定します。妃教育3年分。外交文書下訳96件。式典代行42回。王太子の失言処理13回。名前間違い28回。公文書による名誉毀損1件」


銀秤が鳴った。


ちりん、という可愛らしい音だった。

だが出てきた数字は可愛くなかった。


「賠償額、金貨84000枚」


王太子が叫んだ。


「馬鹿な!」


「さらに、虚偽の公文書を発行したため、王宮文書院への訂正公告義務が発生します。公告文案はこちらで作成できます。追加料金は王家負担です」


「ふざけるな!」


王太子が剣に手をかけた瞬間、エルネスタ嬢が手帳の8冊目を出した。


私は目を見開いた。

まだあったのか。


「殿下、本日この店へ来られると思っておりました」


「何?」


「ですので、陛下に事前に報告してあります」


扉がまた開いた。


今度入ってきたのは、王太子よりも地味な服を着た男性だった。

だが全員がすぐに膝をついた。


国王陛下である。


陛下は王太子を見た。

次に桃色の少女を見た。

最後にエルネスタ嬢の手帳を見た。


「また名前を間違えたのか」


第一声がそれだった。


王太子は青ざめた。


「父上、これは陰謀です」


国王は疲れたように額を押さえた。


「エルネスタ嬢、すまなかった。王家として正式に謝罪する」


「謝罪は受け取ります」


エルネスタ嬢は深く礼をした。


「ただし、賠償金はいただきます」


「当然だ」


王太子が信じられないという顔をした。


「父上!」


「黙れ。真実の愛を選ぶのはよい。だが、真実を選ぶなら、まず自分に都合の悪い真実から見ろ」


桃色の少女は泣き出した。

王太子は彼女を抱きしめようとしたが、国王に止められた。


「お前はしばらく謹慎だ。それから、妃教育の初級を受け直せ」


「僕が?」


「そうだ。まず、相手の名前を覚えるところからだ」


店内に、なんとも言えない沈黙が落ちた。


私は帳簿に鑑定完了の印を押した。


「エルネスタ様、買い取り額ですが、名誉毀損分を除き、未練そのものは小額になります」


「構いません」


「本当に、殿下への未練はありませんね」


「ありません」


「では、何をお望みですか」


エルネスタ嬢は初めて、少しだけ迷った顔をした。


「実は、お願いがあります」


「何でしょう」


「こちらで働けますか」


私は黙った。

国王も黙った。

王太子だけが「何を言っている」と口を開きかけたが、国王に睨まれて閉じた。


「理由を伺っても?」


「私、気づいたのです」


エルネスタ嬢は手帳を抱きしめた。


「王太子妃になるより、不当な婚約破棄の値段をつける方が、世のためになる気がします」


私は銀秤を見た。

黒い炎は消え、代わりに淡い緑の光が灯っている。


新しい仕事の色だ。


「当店は忙しいですよ」


「3年間、王太子殿下の予定管理をしていました」


「客は泣きます」


「夜会でもよく泣かれました」


「王族も来ます」


「慣れています」


私は笑った。


「採用です」


その瞬間、銀秤が高く鳴った。

ちりん、ちりん、ちりん。


それは恋の成就ではない。

悪人の破滅でもない。

けれど、私はその音が好きだった。


人生の値段を、他人に決めさせなかった人間の音だからだ。


数か月後、《未練商会》の看板の下には、新しい札が掛けられた。


婚約破棄、離縁、内定取消、親族会議での不当発言、その他人生の損害、全般鑑定いたします。

担当鑑定士、エルネスタ・クロイツ。

証拠がある方、歓迎。

証拠がない方、一緒に集めましょう。


その店は、王都の令嬢たちの間で密かな評判となった。


そして、真実の愛を叫ぶ者は少し減った。

なぜなら皆、知ってしまったからである。


真実には、領収書がつく。

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