婚約破棄鑑定士は、恋を値切らない
王都には、婚約破棄を買い取る店がある。
店の名は《未練商会》。
扱う品は宝石でも絹でもなく、終わった恋である。
「この婚約破棄、いくらになりますか」
そう言って店の扉を開けたのは、白い礼服を着た令嬢だった。
夜会帰りらしい。
髪には真珠が挿してあり、頬にはまだ涙のあとが残っている。けれど背筋はまっすぐで、声は震えていなかった。
私はカウンターの奥から鑑定用の銀秤を取り出した。
「お名前を」
「エルネスタ・クロイツ伯爵令嬢です」
「破棄した側ですか、された側ですか」
「された側です」
「理由は」
令嬢は1拍だけ黙った。
「王太子殿下が、私より真実の愛を選ばれたそうです」
またか、と思った。
王都では近頃、真実の愛が大流行している。
真実の愛は便利な言葉だ。
責任を逃がし、約束を焼き、周囲の迷惑を美談に変える。
私は帳簿を開いた。
「では、婚約破棄証明書を拝見します」
令嬢は封書を差し出した。王家の封蝋が押されている。
そこには美しい文字でこう書かれていた。
クロイツ伯爵令嬢エルネスタとの婚約を、本日をもって破棄する。
理由は、彼女が王太子妃にふさわしい慈愛を欠き、また王太子殿下の心を欺いたためである。
私は銀秤の皿に証明書を載せた。
片方の皿が沈む。
もう片方の皿には、薄い青色の炎が灯った。
未練の色だ。
「おかしいですね」
「何がですか」
「未練が少なすぎます」
エルネスタ嬢は瞬きをした。
「それは、私が薄情だという意味でしょうか」
「いいえ、そうではありません」
私は青い炎を指でつついた。炎は小さく揺れ、すぐに姿を変えた。
そこに映ったのは、庭園で本を読む若い王太子と、少し離れた場所で書類に目を通すエルネスタ嬢だった。
王太子が笑いかける。
彼女は顔を上げ、淡く微笑む。
けれど、その微笑みには熱がない。
努力はある。敬意もある。期待もある。
だが、恋だけがない。
「あなたは殿下を愛していなかった」
私が言うと、エルネスタ嬢は静かにうなずいた。
「はい」
「では、なぜ買い取りを?」
「悔しいからです」
「悔しい?」
「愛していなかったことと、侮辱されて平気なことは別です」
それは、この店に来る令嬢たちがあまり口にしない真実だった。
恋が終わったから泣くのではない。
自分の時間を軽んじられたから泣くのだ。
尽くした努力を、たったひと言で汚されたから怒るのだ。
私はうなずいて、銀秤の下から黒い帳簿を取り出した。
「では、未練ではなく名誉毀損として鑑定します」
エルネスタ嬢の目が細くなった。
「そのような買い取りも?」
「ええ。ただし高くつきます」
「私が払うのですか?」
「いいえ」
私は証明書の王家の封蝋を軽く叩いた。
「払うのは、破棄した側です」
未練商会には、王国で唯一許された特権がある。
婚約破棄に含まれる虚偽、侮辱、財産的損害、精神的被害、および社交上の信用毀損を鑑定し、その価値を金額に換算できるのだ。
なぜそんな店があるのか。
初代国王が、7度も婚約破棄された末に即位した女王だったからである。
彼女は遺言にこう残した。
恋は自由でよい。
だが、自由の名で他人の人生を踏みにじる者からは、きっちり利子を取れ。
私は素敵な法律だと思っている。
「確認します。エルネスタ様は、殿下を愛していなかった。しかし王太子妃教育を受け、公務補佐を行い、外交文書の下訳まで担当していた。それを殿下は、真実の愛を理由に破棄した」
「はい」
「さらに、あなたが殿下の心を欺いたと公文書に記した」
「その通りです」
「実際には?」
「殿下は私の名前を、3年で27回間違えました」
私は手を止めた。
「27回」
「はい。エルネスタをエルミーナと18回、エリザベータと6回、エルネスティーネと3回」
「よく数えましたね」
「王太子妃教育の一環で、記録癖がつきました」
素晴らしい。
私は職業柄、記録癖のある令嬢が好きだ。
復讐において、感情より記録の方が強い。
「証拠はありますか」
エルネスタ嬢は、持っていた小さな鞄を開けた。
中から出てきたのは、分厚い手帳が7冊。
「すべて日時、場所、証人名つきで記録してあります」
私は思わず身を乗り出した。
「……採用したい」
「え?」
「いえ、こちらの話です」
そのとき、店の扉が乱暴に開いた。
金の刺繍を施した外套。
磨き上げられた長靴。
そして、自分が物語の主人公であると信じて疑わない顔。
王太子殿下だった。
その後ろには、桃色のドレスを着た少女が寄り添っている。
噂の真実の愛だろう。
「エルミーナ!」
エルネスタ嬢が無言で手帳を1冊開いた。
「28回目ですね」
王太子は気づかず続けた。
「こんな怪しい店に来るとは、やはり君は心が卑しい。僕との婚約がなくなった腹いせに、何を企んでいる」
私はカウンターから出た。
「殿下、ここは王国認可の鑑定所です。営業妨害は銀貨30枚からになります」
「黙れ。平民が王族に口を出すな」
桃色の少女が殿下の袖を引いた。
「殿下、怖いです。あの人、きっとエルネスタ様に雇われた悪い魔女です」
私は自分の黒い作業服を見下ろした。
まあ、否定しきれない。
「ご安心ください。魔女ではありません。鑑定士です」
私は銀秤を王太子の前に置いた。
「せっかくですので、今ここで婚約破棄の価値を算定しましょう」
「価値だと?」
「はい。殿下が壊したものの値段です」
王太子は笑った。
「壊した? 僕は真実の愛を選んだだけだ」
「では、その真実を量ります」
私は証明書を銀秤に載せた。
続いて、エルネスタ嬢の手帳を1冊ずつ載せる。
皿が沈む。
炎が青から白へ、白から金へ、金から黒へと変わった。
黒い炎は、虚偽の色である。
店内の空気が重くなった。
王太子の顔から笑みが消える。
「何だ、それは」
「鑑定結果です。この婚約破棄には、恋愛感情の不一致はあります。しかし、エルネスタ様に非があるという記述は虚偽です」
「そんなはずはない。彼女は僕を愛していなかった」
「殿下も愛していなかったでしょう」
「僕には真実の愛がある!」
「それは結構です。ですが、愛していない相手に3年間の妃教育を受けさせ、公務を任せ、外交文書の修正をさせ、最後に『慈愛を欠く』と公表した場合、話は恋ではなく労働と名誉の問題になります」
桃色の少女が震える声で言った。
「でも、エルネスタ様は冷たい方です。いつも殿下に微笑むだけで、優しい言葉をかけなかったと聞いています」
エルネスタ嬢は静かに答えた。
「王太子妃候補の仕事は、殿下を甘やかすことではありません」
「殿下がおかわいそうです」
「殿下は23歳です」
店内が少し静かになった。
私は咳払いをして、鑑定を続けた。
「算定します。妃教育3年分。外交文書下訳96件。式典代行42回。王太子の失言処理13回。名前間違い28回。公文書による名誉毀損1件」
銀秤が鳴った。
ちりん、という可愛らしい音だった。
だが出てきた数字は可愛くなかった。
「賠償額、金貨84000枚」
王太子が叫んだ。
「馬鹿な!」
「さらに、虚偽の公文書を発行したため、王宮文書院への訂正公告義務が発生します。公告文案はこちらで作成できます。追加料金は王家負担です」
「ふざけるな!」
王太子が剣に手をかけた瞬間、エルネスタ嬢が手帳の8冊目を出した。
私は目を見開いた。
まだあったのか。
「殿下、本日この店へ来られると思っておりました」
「何?」
「ですので、陛下に事前に報告してあります」
扉がまた開いた。
今度入ってきたのは、王太子よりも地味な服を着た男性だった。
だが全員がすぐに膝をついた。
国王陛下である。
陛下は王太子を見た。
次に桃色の少女を見た。
最後にエルネスタ嬢の手帳を見た。
「また名前を間違えたのか」
第一声がそれだった。
王太子は青ざめた。
「父上、これは陰謀です」
国王は疲れたように額を押さえた。
「エルネスタ嬢、すまなかった。王家として正式に謝罪する」
「謝罪は受け取ります」
エルネスタ嬢は深く礼をした。
「ただし、賠償金はいただきます」
「当然だ」
王太子が信じられないという顔をした。
「父上!」
「黙れ。真実の愛を選ぶのはよい。だが、真実を選ぶなら、まず自分に都合の悪い真実から見ろ」
桃色の少女は泣き出した。
王太子は彼女を抱きしめようとしたが、国王に止められた。
「お前はしばらく謹慎だ。それから、妃教育の初級を受け直せ」
「僕が?」
「そうだ。まず、相手の名前を覚えるところからだ」
店内に、なんとも言えない沈黙が落ちた。
私は帳簿に鑑定完了の印を押した。
「エルネスタ様、買い取り額ですが、名誉毀損分を除き、未練そのものは小額になります」
「構いません」
「本当に、殿下への未練はありませんね」
「ありません」
「では、何をお望みですか」
エルネスタ嬢は初めて、少しだけ迷った顔をした。
「実は、お願いがあります」
「何でしょう」
「こちらで働けますか」
私は黙った。
国王も黙った。
王太子だけが「何を言っている」と口を開きかけたが、国王に睨まれて閉じた。
「理由を伺っても?」
「私、気づいたのです」
エルネスタ嬢は手帳を抱きしめた。
「王太子妃になるより、不当な婚約破棄の値段をつける方が、世のためになる気がします」
私は銀秤を見た。
黒い炎は消え、代わりに淡い緑の光が灯っている。
新しい仕事の色だ。
「当店は忙しいですよ」
「3年間、王太子殿下の予定管理をしていました」
「客は泣きます」
「夜会でもよく泣かれました」
「王族も来ます」
「慣れています」
私は笑った。
「採用です」
その瞬間、銀秤が高く鳴った。
ちりん、ちりん、ちりん。
それは恋の成就ではない。
悪人の破滅でもない。
けれど、私はその音が好きだった。
人生の値段を、他人に決めさせなかった人間の音だからだ。
数か月後、《未練商会》の看板の下には、新しい札が掛けられた。
婚約破棄、離縁、内定取消、親族会議での不当発言、その他人生の損害、全般鑑定いたします。
担当鑑定士、エルネスタ・クロイツ。
証拠がある方、歓迎。
証拠がない方、一緒に集めましょう。
その店は、王都の令嬢たちの間で密かな評判となった。
そして、真実の愛を叫ぶ者は少し減った。
なぜなら皆、知ってしまったからである。
真実には、領収書がつく。




