表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

贈り物

作者: はまゆう
掲載日:2026/02/22

 そのウイルスの日本上陸は、実に控えめで、日本的な謙虚さを備えていた。

 始まりは、ある中堅商社に勤めるタナカ氏が、香港出張の帰りに空港のトイレに立ち寄ったことだった。彼は多忙を極めていた。次の会議の資料のことで頭がいっぱいで、蛇口から出る水に指先をさっとくぐらせただけで、鏡の中の自分に会釈をして立ち去った。

 タナカ氏の指先には、カジノのチップから移った、名もなき微細な同居人がいた。それはタナカ氏が自動改札に触れるたび、エスカレーターの手すりをつかむたび、熱心にその領土を広げていった。

「ただいま。これ、お土産だよ。向こうで流行っている高級チョコレートだ」

「あら、おかえりなさい。あなた、なんだか顔色が悪いわね」

 タナカ夫人が受け取ったのは、金色の包装紙に包まった菓子と、数億個の「死の種」だった。


蔓延する日常

 三日後、タナカ氏は朝食のトーストを口にしたまま、激しい痙攣と共に食卓に突っ伏した。

 救急車が到着したときには、すでに彼の細胞はウイルスの製造工場と化し、稼働を終えていた。

 それからの一週間、日本という国は、奇妙な熱病に浮かされた。

 テレビの画面には、ネクタイを曲げた役人と、眼鏡の縁を触り続ける学者が並んだ。

「……現在、原因を調査中です。国民の皆様には、冷静に、かつ迅速に、しかし慌てず、手洗いを徹底していただきたい」

「具体的にどうすればいいんですか!」

 記者が叫ぶ。

「はい。まずは、マスクを二枚重ねにし、不要不急の外出を控え、外食も控え、かつ経済を回すためにクーポンを発行するので買い物と旅行と飲食店に出かけてください」

 この矛盾に満ちた指示は、ウイルスよりも早く全国に広まった。


救世主の登場

 そんな中、アパートの一室でほくそ笑んでいる男がいた。自称・自由ジャーナリストのサトウ氏である。彼はパソコンのキーボードを叩き、世間に「真実」という名の劇薬をばらまいた。

『緊急拡散! ウイルスの正体は、政府が年金支給額を減らすために開発した老人削減プログラムだ。だが安心しろ。私は唯一の解毒剤を見つけた。それは「乾燥させたレンギョウの根」と、ある特定の宗教団体が販売している「幸運の塩」を混ぜて飲むことだ』

 サトウ氏のブログにはアクセスが殺到した。

 人々は病院へ行く代わりに、高価なレンギョウの根を買い求め、塩を水に溶かして飲み干した。サトウ氏の銀行口座には、恐怖に震える人々からの送金が、滝のように流れ込んだ。

「これだ、これこそがビジネスだ」

 サトウ氏は笑った。彼は消毒液など使わなかった。金こそが最高のバリアだと信じていたからだ。


確率の抽選会

 事態が収拾不能に陥った頃、ようやく「スズキ博士」という名の女性科学者が、自身の太ももを実験台にしてワクチンを完成させた。

 しかし、問題はその配分だった。

「平等に、かつ公平に配らねばならない」

 政府の下した決断は、テレビ中継による「全国民参加・命のビンゴ大会」だった。

「本日の当選者は……三月生まれの方です!」

 タナカ夫人は、息を引き取る直前の寝床でテレビを見ていた。彼女は四月生まれだった。

「あら……残念。あと一ヶ月早ければ、このチョコレートの続きが食べられたのに」

 彼女はそう呟いて、静かに目を閉じた。

 一方、サトウ氏は豪華なシェルターの中で、特注の「幸運の塩」に囲まれて震えていた。彼は一月生まれだった。当選番号が読み上げられた瞬間、彼は歓喜の声を上げた。

「勝った! 私の勝ちだ!」

 だが、彼がワクチンを受け取りに外へ出ようとしたとき、シェルターの換気扇が、外気と共に「レンギョウを信じて死んでいった隣人」の咳を吸い込んだ。


終わりの風景

 一年が経ち、世界はひっそりと静まり返った。

 生き残った人々は、かつての喧騒を忘れ、他人の吐息を爆弾のように恐れて暮らしていた。

 ある日、国立感染症研究所の大きなスクリーンに、ウイルスの「最初の1コマ」が映し出された。

 それは、某国の商社がジャングルを切り開いたことが発端だった。

1. 森を追われたコウモリが、豚舎の屋根に止まる。

2. コウモリが食べ落としたバナナの欠片を、子豚が食べる。

3. その豚が「高級食材」として香港のレストランへ運ばれる。

4. 料理人が豚の口に指を突っ込んで捌いたあと、エプロンで手を拭き、フロアへ出る。

 そこには、上機嫌なタナカ氏が座っていた。

「いい仕事をした。握手しようじゃないか」

 タナカ氏は差し出された料理人の手を、力強く握りしめた。

 映像を見ていた調査員の一人が、ポツリと言った。

「もし彼が、あの時あと一分だけ長く手を洗っていたら、これほど多くの『空席』はできなかったんでしょうね」

 しかし、別の調査員は冷めた声で返した。

「いや、無理ですよ。彼は、手を洗う時間を短縮してでも、次の『利益』を追い求めるのが仕事だったんですから」

 窓の外では、新しいウイルスを運んでいるかもしれないコウモリが、夕暮れの空を優雅に舞っていた。

 世界はまた、静かに、そして確実に、次の「贈り物」を待っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ