贈り物
そのウイルスの日本上陸は、実に控えめで、日本的な謙虚さを備えていた。
始まりは、ある中堅商社に勤めるタナカ氏が、香港出張の帰りに空港のトイレに立ち寄ったことだった。彼は多忙を極めていた。次の会議の資料のことで頭がいっぱいで、蛇口から出る水に指先をさっとくぐらせただけで、鏡の中の自分に会釈をして立ち去った。
タナカ氏の指先には、カジノのチップから移った、名もなき微細な同居人がいた。それはタナカ氏が自動改札に触れるたび、エスカレーターの手すりをつかむたび、熱心にその領土を広げていった。
「ただいま。これ、お土産だよ。向こうで流行っている高級チョコレートだ」
「あら、おかえりなさい。あなた、なんだか顔色が悪いわね」
タナカ夫人が受け取ったのは、金色の包装紙に包まった菓子と、数億個の「死の種」だった。
蔓延する日常
三日後、タナカ氏は朝食のトーストを口にしたまま、激しい痙攣と共に食卓に突っ伏した。
救急車が到着したときには、すでに彼の細胞はウイルスの製造工場と化し、稼働を終えていた。
それからの一週間、日本という国は、奇妙な熱病に浮かされた。
テレビの画面には、ネクタイを曲げた役人と、眼鏡の縁を触り続ける学者が並んだ。
「……現在、原因を調査中です。国民の皆様には、冷静に、かつ迅速に、しかし慌てず、手洗いを徹底していただきたい」
「具体的にどうすればいいんですか!」
記者が叫ぶ。
「はい。まずは、マスクを二枚重ねにし、不要不急の外出を控え、外食も控え、かつ経済を回すためにクーポンを発行するので買い物と旅行と飲食店に出かけてください」
この矛盾に満ちた指示は、ウイルスよりも早く全国に広まった。
救世主の登場
そんな中、アパートの一室でほくそ笑んでいる男がいた。自称・自由ジャーナリストのサトウ氏である。彼はパソコンのキーボードを叩き、世間に「真実」という名の劇薬をばらまいた。
『緊急拡散! ウイルスの正体は、政府が年金支給額を減らすために開発した老人削減プログラムだ。だが安心しろ。私は唯一の解毒剤を見つけた。それは「乾燥させたレンギョウの根」と、ある特定の宗教団体が販売している「幸運の塩」を混ぜて飲むことだ』
サトウ氏のブログにはアクセスが殺到した。
人々は病院へ行く代わりに、高価なレンギョウの根を買い求め、塩を水に溶かして飲み干した。サトウ氏の銀行口座には、恐怖に震える人々からの送金が、滝のように流れ込んだ。
「これだ、これこそがビジネスだ」
サトウ氏は笑った。彼は消毒液など使わなかった。金こそが最高のバリアだと信じていたからだ。
確率の抽選会
事態が収拾不能に陥った頃、ようやく「スズキ博士」という名の女性科学者が、自身の太ももを実験台にしてワクチンを完成させた。
しかし、問題はその配分だった。
「平等に、かつ公平に配らねばならない」
政府の下した決断は、テレビ中継による「全国民参加・命のビンゴ大会」だった。
「本日の当選者は……三月生まれの方です!」
タナカ夫人は、息を引き取る直前の寝床でテレビを見ていた。彼女は四月生まれだった。
「あら……残念。あと一ヶ月早ければ、このチョコレートの続きが食べられたのに」
彼女はそう呟いて、静かに目を閉じた。
一方、サトウ氏は豪華なシェルターの中で、特注の「幸運の塩」に囲まれて震えていた。彼は一月生まれだった。当選番号が読み上げられた瞬間、彼は歓喜の声を上げた。
「勝った! 私の勝ちだ!」
だが、彼がワクチンを受け取りに外へ出ようとしたとき、シェルターの換気扇が、外気と共に「レンギョウを信じて死んでいった隣人」の咳を吸い込んだ。
終わりの風景
一年が経ち、世界はひっそりと静まり返った。
生き残った人々は、かつての喧騒を忘れ、他人の吐息を爆弾のように恐れて暮らしていた。
ある日、国立感染症研究所の大きなスクリーンに、ウイルスの「最初の1コマ」が映し出された。
それは、某国の商社がジャングルを切り開いたことが発端だった。
1. 森を追われたコウモリが、豚舎の屋根に止まる。
2. コウモリが食べ落としたバナナの欠片を、子豚が食べる。
3. その豚が「高級食材」として香港のレストランへ運ばれる。
4. 料理人が豚の口に指を突っ込んで捌いたあと、エプロンで手を拭き、フロアへ出る。
そこには、上機嫌なタナカ氏が座っていた。
「いい仕事をした。握手しようじゃないか」
タナカ氏は差し出された料理人の手を、力強く握りしめた。
映像を見ていた調査員の一人が、ポツリと言った。
「もし彼が、あの時あと一分だけ長く手を洗っていたら、これほど多くの『空席』はできなかったんでしょうね」
しかし、別の調査員は冷めた声で返した。
「いや、無理ですよ。彼は、手を洗う時間を短縮してでも、次の『利益』を追い求めるのが仕事だったんですから」
窓の外では、新しいウイルスを運んでいるかもしれないコウモリが、夕暮れの空を優雅に舞っていた。
世界はまた、静かに、そして確実に、次の「贈り物」を待っている。




