第七話 ジークハルトからの手紙
——フェルディナント王宮・執務室、夜。
静寂に包まれた書類の山を前に、私は溜め息を一つついた。
日中の会議は三本。王都の再建計画案、隣国との農業協定、そして——アストラ王国との今後の外交方針。
「……」
視線を落とすと、執務机の隅にひときわ目立つ封筒がある。
淡い緋色の封蝋には、アストラ王国の紋章。
手紙を送る、などと古風なことをしてくる男は、今やただ一人しかいない。
(……ジークハルト)
ためらうことなく、私は封を切った。
そこには、驚くほど真っ直ぐな文字が、いつもの奔放さとは裏腹に、整った筆跡で綴られていた。
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『イザベルへ』
……手紙なんて柄じゃないんだけどさ。
君の顔を見てると、どうしても真面目になれなくて。
それで仕方なく、こうして筆を取った。
今頃、また政務で忙殺されてるんだろうな。
無理をしていないか、ちゃんと食事を摂ってるか、それとも……俺のことを忘れてるか?
……冗談だよ。忘れるわけないだろ、って信じてる。
君が俺にくれた沈黙は、俺にとって最上の返事だった。
あの夜、あの回廊で、君が俺を拒まなかったこと。
それが、どんな言葉より雄弁だった。
———
私の手が、わずかに止まった。
——あの夜。
黒装束の刃が迫る中、彼が私の前に立った。
無茶な男。
不用意な男。
そして、どうしようもなく誠実な男。
———
……ところで、アストラ王宮は予想通り、大騒ぎだった。
俺が「摂政王妃に惚れた」と言った瞬間、父上は椅子から転げ落ち、シリウスは三度ため息をつき、宰相はその場で過労の危機に瀕した。
でも、それでも俺は戻ってよかったと思ってる。
俺の選択が、誰かにとって不安で、未曾有で、面倒だったとしても。
それでも、君に「向き合いたい」と思った気持ちは、本物だったから。
———
その軽口めいた文面の裏に、彼らしい真剣さが滲んでいた。
(……あの男は、本当に)
王族の結婚が、いかに政治に絡むかを誰より理解している男だ。
それでも、彼は「君自身」を見て、選んだのだと、伝わってくる。
———
さて、本題。
君はきっと、この手紙のどこかでこう思ってるだろう。
「アストラ王国の第一王子が、何を軽々しく言っているのか」と。
だからこそ、伝えておく。
——俺は、王位を継ぐ気はない。
シリウスがいれば、アストラは安泰だ。
あいつは冷静で賢く、誠実で真っ直ぐだ。王にふさわしい男だと思ってる。
……もちろん、あいつには負担をかけることになるかもしれない。
だから、帰国してすぐ、父上とシリウスと話をしてきた。
結果、父上は俺の意志を尊重してくれた。
シリウスは少し呆れていたけど、最後には黙って頷いてくれたよ。
———
「……なんてことを、勝手に」
思わず、口をついて出た独白。
それは、怒りでも戸惑いでもない。
ただ、胸の奥を撫でるような、温かなものだった。
———
だから、次に会う時は。
「アストラ王国の第一王子」としてじゃなく。
一人の男として、君に向き合いに行く。
そして、君がもし、俺に「王として」じゃなく「一人の男」としての価値を見出してくれるなら——
その時は、もう一度、答えを聞かせてくれ。
それが、どれほど時間がかかろうと構わない。
君の心が、俺を選ぶまで、俺は待ち続ける。
そして、できれば——
君が微笑むその瞬間を、この手で守らせてほしい。
———
手紙の最後には、彼らしいさらりとした言葉で、こう添えられていた。
『追伸:この手紙を読んで顔を赤らめていたら嬉しい。いや、むしろ「らしい」と思って笑ってる。』
『追伸2:絶対に燃やすなよ?俺の愛の軌跡だ。』
私は、肩を震わせて笑ってしまった。
こんなにも不器用で。
こんなにも誠実で。
こんなにも、自由で、真剣な男を——
(……私は、いつから惹かれていたのかしら)
窓の外には、星の瞬き。
冷たい夜風が揺れるたび、机の上の手紙が、カサリと音を立てる。
「……イザベルを見て、それが変わったんだ」
その言葉が、まだ胸に残っていた。
——ジークハルト、貴方は本当に、面倒な男。
でも、もしも次にまた顔を合わせたとき。
その笑みに、また心を揺らされるのだとしたら——
私は、自分自身からも逃れられないのかもしれない。