第六話 王冠とたった一つの願い
——フェルディナント王宮・夜の政務室
静まり返った室内に、ローズマリーの香が微かに漂う。
イザベルは机に積まれた書類に目を通していたが、視線は明らかに、隣のソファに座る男を意識していた。
ジークハルト・アストラ。
この国を揺るがす大胆な“求婚宣言”を、先日の外交の場でやってのけた、堂々たる男。
だが、その正体はアストラ王国の第一王子。
いずれ、一国の王となるべき男だ。
「……聞いておきたいことがあるのだけれど」
静かに口を開いたイザベルの声に、ジークハルトは興味ありげに顔を向けた。
「お、なんだなんだ。ついに俺への逆プロポーズか?」
「違うわ」
即答。
「お前は、アストラ王国の第一王子。いずれは即位の道も見えている立場。そんな男が、軽々しく『他国の摂政王妃を娶る』なんて言っていいものなの?」
ジークハルトは、しばし黙ったのち、口角を緩めて笑った。
「なるほどね。そっちを気にするとは、さすが“氷の女王”」
「茶化さないで」
その冷たい視線を受け止めながら、彼は愉しげに言った。
「……じゃあ、真面目に答えるよ」
「……」
「王位? 継がなくても、いいと思ってる。だって――俺には優秀な弟がいるからな」
イザベルは眉をひそめた。
「……王子殿下の弟。確か……」
「うん。弟、シリウス。知ってる? 最近、婚約したんだ。すっごく可愛い婚約者でさ」
どこか誇らしげに話すジークハルト。
その顔に、からかいでも皮肉でもない、真っ直ぐな兄としての愛情が滲んでいた。
「シリウスは冷静で、堅実で、まじめで……王に向いてるよ。俺なんかより、ずっとな」
「……本気で言っているの?」
「もちろん。まぁ、弟にとっちゃ迷惑な話かもしれないけどな。でも……あいつなら、きっと国を導ける。俺よりもずっと、良い形で」
彼は軽く笑って見せたが、その瞳の奥には深い覚悟の色があった。
「……だからって、お前がすべてを捨ててアストラ王国に来いとは言わない。そっちの国民が、お前を必要としてるのは分かってるからな」
イザベルは驚いたように瞬きをした。
「……じゃあ、どうするつもり?」
「一度、アストラに戻る。王父と、シリウスと話をつけてくるよ。もちろん“俺が王位を降りても問題ない”って、ちゃんと説明してな」
その口調は、驚くほど軽やかだった。
けれど、どこまでも本気だった。
「そのうえで――お前の隣に立つ手段を、きちんと整える。そっちの民の前でも、胸張って名乗れるように」
イザベルは、しばらく沈黙したまま、彼の横顔を見つめた。
夜風が揺らす髪の奥に、どこか幼さすら感じるほど素直な、真っ直ぐな目。
「……お前、そんなに簡単に王位を譲っていいと思ってるの?」
「簡単じゃないさ。でも――」
ジークハルトは笑った。
「俺にとって、お前がそれ以上ってだけだよ」
その言葉は、甘い口説き文句でも、外交の演説でもなかった。
ただの、一人の男の、本音だった。
「まったく……」
イザベルは、ため息を吐きながらも、わずかに視線を逸らした。
(……なぜかしら。腹立たしいのに、心が騒ぐ)
「好きにすれば」
「お、つまり応援してくれるってこと?」
「そうとは言ってないわ」
そう言いつつも、イザベルの声は少しだけ柔らかくなっていた。
ジークハルトは、そんな彼女の横顔を見て、にやりと笑った。
「じゃあ、行ってくるよ。“未来の義父”と弟に、しっかり話を通してくる」
「勝手に義父にしないで」
——けれどその声は、もう、完全には拒絶していなかった。