第五話 政略という名の檻
襲撃事件の数日後。
王宮では“沈黙の緊張”が漂っていた。
犯人の背後には、フェルディナント王国の一部貴族派が関与していた疑いがあり、
その動きは、単なる反対勢力のものではなかった。
——摂政の座からイザベルを引きずり下ろすための陰謀。
その布石の一つが、「政略結婚」だった。
「王妃が未亡人のまま摂政を続けるのは不安定である」
「摂政は王族の血筋に連なる者が務めるべきでは」
「あるいは、外交的な強化のために他国の王族と再婚を」
そんな噂が、議会内でも水面下で囁かれ始めていた。
その“再婚の相手”として、別の国の王子の名が挙がった瞬間——
イザベルは、冷ややかにその場の空気を凍らせた。
「政務に色恋を持ち込まないでいただきたい」
それが彼女の返答だった。
けれど、貴族派の動きは止まらない。
王家の血を引く幼い王を盾に、「国の安定」を理由に政略結婚を迫る声は日に日に強まっていた。
——その中で。
ある晩、舞踏会のような外交の場。
華やかな装いの中で、イザベルは慎重に各国の来賓と言葉を交わしていた。
その中に、一人の若い王子がいた。
王族の血を引く者であり、貴族派が推す“再婚の相手候補”。
彼が花を手に近づいたとき——
「イザベル摂政王妃、少し踊りませんか?」
その瞬間、会場に一陣の風が吹いたように静まり返った。
だが、その“申し出”に返答するよりも早く。
「悪いが、その手は取らせない」
涼しい声と共に現れたのは、ジークハルト・アストラだった。
鮮やかな夜会服に身を包みながらも、纏う雰囲気はいつもの軽口とは違っていた。
会場中の視線が、彼に集中する。
「なぜなら、イザベル摂政王妃は、いずれ俺の妻になる人だから」
その言葉に、空気が凍り、そして爆ぜた。
「貴殿はアストラの…ジークハルト殿……!?」
「な、何を——」
「正式に申し上げる。私はイザベル摂政王妃との婚姻を望みます」
そう告げるジークハルトの眼差しは、まっすぐイザベルを見ていた。
どこにも軽さはなく、真剣そのもの。
(……何を言っているの)
イザベルは視線を逸らさず、低く、しかし鋭く囁いた。
「冗談も大概にしなさい」
「冗談だったら、こんな場で言わないよ。……本気で言ってる」
彼は静かに微笑んだ。
「誰が何を言おうと、俺が望んでるのは政略じゃない。“お前自身”だよ」
一瞬、心臓が跳ねた。
(この男は……なんてことを……)
その場は混乱の中で閉じられたが、イザベルの心には、ジークハルトの声が深く残っていた。
——お前自身を望む。
政略でも義務でもなく、ただ一人の女として。
イザベルは一人、夜の回廊を歩きながら、胸の奥に残る熱を持て余していた。
(私を、望む……?)
思い出すたびに、心が揺れる。
まるで、誰かが凍った氷の中心に火を灯したようだった。