第三話 冷静と情熱の境界線
執務室の窓の外で、春を告げる風がカーテンをゆらりと揺らしていた。
イザベルは机の上に広げられた書簡に目を通しながらも、指先が小さく止まる。
──”摂政に求婚の申し出あり。
某侯爵家より、王国の安定と伝統を守るため、摂政にふさわしき血筋を伴侶に”。
ため息をひとつつく。
まるで女王であることを都合よく利用しようとするかのような書状は、もう何通目かも分からない。
「……王族とは、つくづく自由がないものね」
冷静に処理しようとした気持ちに、わずかな熱が混じる。
そのとき。
「顔が険しいな、イザベル。もしや、また“誰かと結婚しろ”という手紙でも?」
不意にかけられた声に、イザベルは肩をぴくりと揺らした。
「また勝手に入ってきたの、ジークハルト?」
「扉は開いてたよ。空いている扉にノックするのは、野暮というものだろ?」
いつもの軽口と笑顔。
だが、彼の視線が鋭く、手元の書簡を一瞥する。
「……貴族派、しつこいな〜。俺なら、もう少し風流に求婚するけどね」
「それはつまり、“貴族の求婚より自分のほうが価値がある”と?」
「当然でしょう。俺にはイザベルの心を溶かす覚悟がありますから」
冗談めかしながらも、彼の声には妙な真剣味が混じっていた。
イザベルは立ち上がり、背後の窓辺に歩を移す。
「あなた、いつも軽口ばかりで信用ならないわ」
「それはイザベルが、俺の“本気”を見ようとしないかららだよ」
その瞬間。
ジークハルトの声色が変わった。
「俺が政治的にあなたに近づいてると、まだ思ってるなら……それは間違いだ」
「……じゃあ何? 恋愛ごっこ?」
「本気だよ。政略であろうと、恋であろうと──君に惹かれてる。それ以上でも以下でもない」
イザベルの瞳が揺れた。
いつもなら軽くあしらうところだ。
けれど、なぜか今回は、そのまま言葉が出てこなかった。
「あなたみたいな人が、本気で誰かを想うなんて」
「想ってしまったんだよ。……想うつもりなんてなかったのに」
一瞬だけ、ジークハルトの声に翳りが差した。
それは、彼の軽口ではない”本当の顔”を、イザベルが初めて見た瞬間だった。
──不意に、胸が痛くなった。
「……何よ、それ。ずるいじゃない」
「ずるいのは、どっちだと思う?」
彼はわずかに笑みを浮かべ、彼女の手元にある書簡を指で軽く叩いた。
「君を“王妃の器”としてしか見ない男たちより──“君自身”を見てる俺の方が、ずっと真剣だ」
沈黙。
窓の外で、春の風が木々を揺らす音だけが響いていた。
そして、イザベルは──そっと目を閉じた。
冷たいはずの氷が、心の奥で静かに溶けていく音がした。
それは、まだ恋ではない。
けれど、それは確かに、“境界線”だった。
冷静と、情熱の境目で。