第二話 政務と軽口と夕餉の間
フェルディナント王国の王宮に、ジークハルト・アストラが滞在するようになって数日。
政務の合間、執務室には彼の軽妙な声が定期的に響くようになった。
「摂政王妃、ここの数値、どうにも腑に落ちませんねぇ。ひょっとして私を惑わせるために、わざと難題を?」
「それは歳出調整案の試算よ。惑わすような余裕があるなら、せめて一つくらい正確な助言を出してみせなさい」
「なんと冷たい。けれど、その冷たさが……心地よくて困りますね」
「…………」
イザベルは眉ひとつ動かさず、淡々と帳簿に目を落とす。
彼の軽口は、風のように吹き抜けていくだけ──のはずだった。
しかし最近、その風が妙に「温かい」ことに、彼女自身も気づき始めていた。
(……何を考えているの、この男は)
本気か冗談か、境目が見えない。けれど、だからこそ、気を抜くわけにはいかない。
その日の政務を終えた夕刻。
イザベルは礼儀として、滞在中のジークハルトに「夕餉を共に」と申し出た。
これが外交的な礼儀の範囲内だと、彼女自身が念を押す形で。
「お招きいただけるとは……ようやく氷の女王も心を開いてくれたのですね」
「礼儀だと言ったでしょう。勘違いするな、アストラ殿下」
「でも……“ジークハルト”と呼んでくれる日は近いと信じてるよ、イザベル」
そう言ってジークハルトはウインクをした。
返す言葉はなかった。
返す気力が失せるほど、彼の自信には根拠がない。
いきなり馴れ馴れしく名前で呼ばれたことも、口調がくだけたものになったのも、ごく自然だった。
彼は堂々とした顔でイザベルの向かいに腰を下ろす。
宮廷の料理人が腕を振るった料理が並ぶ中、彼はフォークを手に取りながら言った。
「……さて、今日の夕餉は、政治の話は抜きにしないか?」
「仕事の話を避ける理由でもあるのかしら?」
「あるとも!私は今夜、君に”娶ってもいいかもしれない候補者”として見てもらいたい」
「…………は?」
それはもはや、どこの世界の外交官が発する台詞なのか分からない。
「悪いけど、そんなに簡単に私の信頼は得られないわよ」
「いいんだよ。君が落ちるまで、何百回でも通って口説くから」
「……百年経っても、落ちるかどうか分からないけど?」
「ふふ。それでもいい。イザベルが“永遠に落ちない女王”なら、俺は“永遠に諦めない男”になろう」
そこに込められたのは、冗談のようでいて、微かに本気の色を滲ませた声音。
……だから困るのだ。
この男の言葉には、時々、ふいに心を揺らす何かが混ざる。
イザベルはグラスに口をつけ、琥珀色の液体を喉に流し込んだ。
(本当に、厄介な男が来てしまったわ……)
だが不思議なことに、彼女の唇には、ほんの僅か──ほんの僅かに、笑みが浮かんでいた。