第十二話 氷の女王が微笑むとき
フェルディナント王宮。
執務室の灯りが夜の帳の中にほのかに滲む。
時刻はすでに深夜を回っていたが、イザベルはまだ机に向かい、最後の一枚の書類にサインをしていた。
「……これで、今日の分は終わりね」
長く整った指先でペンを置き、ふぅと息を吐いたとき——背後から近づく足音に気づく。
「ご苦労さま。王国一の働き者の政治家殿」
ジークハルトの声だった。
彼はいつの間にか、執務室のソファに腰かけて書類をまとめており、もう随分前から彼女の傍にいたのだろう。
「いつの間に……?」
「ほら、俺って空気を読むのが得意でね。今は“邪魔するな”の空気だったから、静かに待ってたわけ」
「ふふ……察しが良いのは認めてあげる」
イザベルが静かに微笑むと、ジークハルトはわざとらしく眉を上げた。
「……その笑顔、俺に向けてくれたのなら嬉しいんだが?」
「勘違いしないで。今夜の仕事が終わって、ようやく解放感を覚えただけよ」
「はいはい、光栄です」
ジークハルトは立ち上がり、彼女の背後に立つ。そして、そっと耳元で囁く。
「……でもさ、ひとつだけ、まだ“仕事”が残ってる」
「……?」
彼女が振り返る間もなく、彼は軽く頬に口づけた。
「今日の報酬。まだもらってなかったからね」
「……っ、あなたという男は……!」
イザベルは呆れたように目を細めながらも、視線は逸らさなかった。
ジークハルトの手がゆっくりと彼女の肩に伸び、優しくその細い肩を抱き寄せる。
「ねえ、イザベル」
低く落ち着いた声が、静かな夜の中に溶ける。
「お前がどれだけ冷静で、有能で、誰よりも完璧な政治家でも……」
彼は彼女の官服の襟に手をかけ、ほんの少しだけ緩めながら続けた。
「俺の前では、一人の女でいてくれよ」
その言葉に、イザベルはほんの一瞬だけ目を伏せた。
胸の奥で静かに何かが溶けていく。
「……そんなこと、あなたが言わなければ、誰にも見せないままで済んだのに」
「じゃあ……?」
「……なら、あなたが私の“弱さ”を引き出して」
彼女がそう囁いた時、ジークハルトの腕がもう一度、彼女を優しく、けれど確かに抱き寄せた。
「……了解。じゃあ今夜は、氷の女王にしか見せない顔、たっぷり見せてもらおうか」
「……軽口が減らないのは、相変わらずね」
「でも、嫌じゃないだろ?」
「……ええ。今は、嫌いじゃないわ」
彼女の唇に、今度は深く、静かに口づけが落ちた。
──その夜、執務室は誰にも邪魔されない聖域となり、
ただの外交官と政治家ではなく、男と女として、
二人は深く、優しく、そして熱く結ばれた。
夜の静寂の中、イザベルの頬には、確かに微笑みが浮かんでいた。
それは、長い間誰にも見せなかった“氷の女王”の心が、ようやく溶けた証だった。




