プロローグ 孤高の女王
──イザベル・フォン・フェルディナントは、静かに微笑んだ。
それは、客人に見せるための笑み。
外交の場で、国の品格を示すために磨き上げられた、完璧な仮面。
心を映すことのない、冷ややかで、隙のない微笑み。
「……貴国のご厚意、確かに受け取りました。フェルディナント王国は、今後も善隣外交の旗を掲げ、友好を望んでまいります」
対面の使節が満足げに頷き、形式的な握手を交わす。
それを見届けた彼女は、誰にも気づかれぬように、ひとつ小さな息を吐いた。
(これで、今日の外交日程も終わり。……少しは、静かに書類を片付けられるわね)
ふと視線を上げると、窓の外には沈みゆく太陽が黄金色の光を放っていた。
王宮の白壁を染め、遠くの山々を淡く照らす黄昏の風景。
それは一日の終わりを告げる光であり、同時に、彼女の内側の静寂を強調するものでもあった。
──イザベルは、若くして「王妃」となった。
それは望んだ未来ではなかった。
だが、国家の存続と安定のために、彼女は運命を受け入れた。
年の離れた王。
互いに愛情などなく、政略結婚の象徴のような夫婦関係。
それでも、彼女は決して逃げず、与えられた立場を果たし続けた。
そして――
夫は、ある日、あっけなくこの世を去った。
病だった。
長くは苦しまなかった。
涙も出なかった。
ただ、静かに、冷たくなった身体を見つめながら、彼女は思った。
(これで……私は、ようやく自由になれるのかしら)
だが、そんな自由など、最初から存在しなかった。
夫の死後、王位を継ぐはずだったのは
――その弟の息子、幼き王子。
まだ五歳にも満たないその少年に、国家を託すにはあまりにも早すぎた。
結果、摂政となったのは、王妃としての経験と、政治手腕に定評のある彼女だった。
“氷の女王”――
そう呼ばれたのは、それからのことだった。
情を見せず、私情を挟まず、時に冷酷にすら映る決断を繰り返した。
だが、彼女にとってそれは「冷たさ」ではない。「責任」だった。
国を守ること。
民を飢えさせないこと。
諸侯の野心を封じ、幼き王が無事に成長できる環境を築くこと。
彼女はそのすべてを、完璧に成し遂げてみせた。
ただ一つ、自分の感情だけを、切り捨てることで。
(私は、孤独でいい。……誰にも寄りかからず、誰のためにも泣かない)
誰かに救ってもらいたいと願ったことなど、ただの一度もなかった。
それが、イザベル・フォン・フェルディナントという女の生き方だった。
──だが。
その均衡は、ある日、突然崩れることになる。
風のように軽やかに、けれど、鋭く本質を見抜く眼差しを持つ男が、彼女の前に現れた。
名は、ジークハルト・アストラ。
アストラ王国第一王子にして、歴戦の外交官。
彼の登場が、氷のように凍てついた王妃の時間を、ゆっくりと溶かし始めることになるとは――
このとき、イザベルはまだ、知る由もなかった。