1-8
シャロリーン=ヒバナは切望していた。
誰にも奪われることない今を。
安らかに目を閉じて眠れる夜を。
憂うことなく目覚められる朝を。
そのためだけにすべてを捧げて生きてきた。
この世界は弱者には容赦がない。幼い頃からその洗礼を受け続けてきた。
生まれてすぐ親兄弟から引き離されて予備樽として売られた。詳しくは知らないが、おそらくは口減らしの類なのだろう。結晶者ではあったので、最初の選定で落ちこぼれたということだ。大器晩成型の結晶者もいるが、そもそも成長を待つ余裕があれば遡上にも上がらない。即断で切り捨てられたのだろう。
物心がついたときには既に自由はなかった。外見は良かったので、手酷く扱われることはなかったが、別の意味でボロボロにされた。
結晶者たちの醜い部分を否応なく分からせられた。幼くして生き残るためには、相手をひたすらに観察することで学ぶしかなかった。どうすれば怒らせずに済むのか、何をすれば喜ぶのか、何を求めているのか。人には必ず願望があり、それこそが行動の指針だからだ。
やがて最低限の教育を受けられるようになり、世界は権力のある者たちが作っているのだと理解した。能力や容姿が重要な要素だとしても、最後の最後には必ず自分以外の誰かが決定を下す。その判断をする人物に気に入られているかどうかが最重要であると学んだ。
つまり、大切なのはつながりだ。誰を知っているか、何でつながっているか、どんな集団に属しているのか。それらを正しく理解して、どの場所に自分を置くかが鍵だ。
シャロリーンは勤勉に観察し、学習し、研究し、洗練されていった。相手に合わせて幾つもの自分を演じることを覚え、いざというときの味方を増やして行った。人脈こそが頼るべきものであり、その質と量が自分の人生を決める。
結晶者としての能力はそれほど高くないことは既に分かっている。この先、自分の安泰の居場所を手に入れるためには、誰か強い結晶者の庇護のもとである必要がある。
その有力な候補者をついに見つけた気がした。
ノージェルフォール訓練所に最近入所してきた新人だ。
ユアリィ=ブラニューデ。
あのヤーンロット家の門閥らしく、結晶力もかなりのものだ。何より、シャロリーンの結晶石と適応しない点が最高だった。もしも相性が合ってしまっていたら、最悪の場合に吸収されてしまう。予備樽に戻るのも御免だ。結晶者は非情で緊急時にはどんな約束も意味などなさない。裏切られるものだと知っている。
だからこそ、結晶石が取り込まれないことは重要だった。
同性であることも高評価だ。異性は操りやすくもある一方、万が一力技に頼られると分が悪い。年齢も程よい。すべてが前向きな評価。進めるしかない。
標的に決めたら即行動。指針は明確だ。取り込みにかかる。
初動は悪くない感触だった。思ったよりも謎めいていて読めないタイプだという印象だったが、悪人の感触ではなかった。軽くは落せそうもないが、無理筋でもない。意外に素直なところもあるし、恩義を感じる良識もありそうなので、かなりやりやすい部類だと言えた。
それでも、シャロリーンには懸念事項があった。
ユアリィの過去が不明瞭な点だ。まだ調査日数が足りていないということを考慮しても、訓練所に来るような結晶者だ。事前にある程度の素性調査は行われている。その情報は必ず仕入れることが可能だ。訓練所には当然のごとく腕の立つ情報屋が内在しており、彼らに手に入らない内部資料はない。
だが、ユアリィの内容はあまりにも薄かった。
必須項目が最低限埋まっているだけで、備考があまりにも少ない。ノージェルフォール訓練所がウィグルヤーン家主導のものであり、その分家であるヤーンロット家の門閥であることから何か秘匿されているという点を鑑みても、情報量が圧倒的に足りていなかった。閲覧禁止のような項目削除でもなく、初めから記載がないという異例の薄さだった。特殊な事情があるのは間違いない。
加えて、既に接触している人物があのアーシャ=イェネファンであることも気掛かりだった。
彼女は目立たないセグンドの訓練生でしかないが、その実、どこかの諜報員・スパイの類だと確信していた。同じ情報屋を使っており、身のこなしや極力目立たないよう振る舞っているその姿勢が、逆にシャロリーンにはきな臭く感じられた。同じく何かを演じることが多いからこそ、アーシャという人物の動きには敏感になってしまっていた。
そんな要注意人物がユアリィと真っ先につながった時点で、アーシャもまたヤーンロット家の門閥である可能性が浮上している。何かを企んでいるに違いない。
その計画がよほど不穏なものでない限り、シャロリーンはそこに便乗して自分を売り込む必要がある。
ユアリィがこの身を賭けるに値する人物であるなら、だが。
だから何よりもまず、情報を集めてその人となりを見極めなければならない。勘はあまり重要視しないシャロリーンなものの、今回のユアリィを見つけた時の何かは無視できなかった。急激な結晶力の上昇、あの感触を今でも忘れられない。結晶力の感じ方は人それぞれなのだが、色として捉えるシャロリーンにとって、ユアリィから感じたその色彩はあまりに鮮烈だった。何しろそれは、表現できない色であったからだ。
無色透明や七色の輝きまで認識したことがあるが、ユアリィのそれは常に変化するという稀有なものだったのだ。見る度に色が変わる結晶力。特別なものでないはずがなかった。
そんな未知の人物に思いを馳せていると、褐色の健康的な肌が眩しい金髪の娘が駆け寄ってきた。
友人のマイカだ。
「シャロっち、シャロっち!とりま、聞いてよっ!」
頭頂部をアップにしたボリューミーな髪が激しく揺れる。同様にその豊満な胸もゆっさゆっさと主張しており、相変わらずフェロモンが凄い。本人はまったく無頓着なのがまた天然の妖艶さとあどけなさを両立していた。あざと可愛いというその雰囲気から、異性からの人気はかなり高い。逆に、同性からはあまり良く思われていないのは言うまでもなかった。そのほとんどが嫉妬だが、これは女性特有の病のようなものなのでどうしようもない。
「はいはい、聞いているわよ、マイカ。今日はどうしたの?」
彼女は数少ない気の置けない友達にあたる。損得勘定なしで気兼ねなく話せる貴重な相手だった。
「だから、イケメンがいたんだって!めちゃクールなの。あーし、惚れちったかもかも!?」
「確か前にそう言ってたときは、一日で前言撤回した上に手のひら返しで罵倒してた記憶があるけど?」
「違うって、これはマジのマジ寄り。ああ、でも、イケメンだけどイケメンじゃないみたいな?あーし、別面ぶっ飛んじゃったかも」
「はぁ?別面って何よ?」
「それがさ。あーしのダーリン、超クールな可愛い娘ちゃんってわけ。ユアリィってプリティガール知ってる?」
ここでマイカの口からユアリィの名前が出てくるとは思ってもみなかった。
マシンガントークで繰り出される友人のテンションは高い。
劇的な出会いは、どうやら実技演習の場であったようだ。
圧倒的に経験が足りないことを実感していた。
だだっ広い演習場の片隅で、ぽつんと立ち尽くしながらナナシは自問自答していた。
アーシャから聞いていたように、今日の実技演習では誰かと組み手をするという内容だと周囲の会話から聞き取っていた。
基本的に組む相手は自由だということなので、早めにそのパートナーを見定めるべく参加している結晶者たちを観察していたのだが、これといった人物を探し当てられなかった。
良さげな相手を見つけても既に組みそうな誰かといたり、何人かの集団で群れていたりと声をかけられない状態だった。
一人でいる人間が狙い目だと分かっていても、そうそう都合のいい標的は見つからない。ようやく声をかけてみてもいいかと思う者がいても、今度はどう話しかけるべきか迷っている間に機会を逸していた。
陰キャに声かけは厳しすぎる……
だいたい、第一声のテンプレは何なのだろうか。こんにちは?ちょっといいか?きみ、可愛いね?おはようございます?これから、一緒にどうですか?
ナンパや仕事帰りに一杯引っ掛ける中年オヤジのような定型句しか出てこない。
年頃の少女が組手を誘う場合の適切な言葉が分からなかった。初対面で馴れ馴れしくていいのか。あるいは礼儀正しくの方がいいのか。最適解は何なのか不明だった。マニュアルが欲しいと切に思った。図書館で後で調べてみるべきだろうか。この世界にその手のハウツー本があるかは知らないが。
最終的には、相手がいなくて途方に暮れている可哀想な子というアピールをする羽目になった。誘発的勧誘策というものだ。釣り野伏せスタイル。決して、自ら誘うことをあきらめた消極的転換ではない。多分。
だが、そうして引っ掛けた相手は最悪の部類だった。
「おい、お前。見かけない顔だな?相手をしてやるぜ」
大木のような大柄な男が声をかけてきた。ユアリィが小柄であることを踏まえても、覆いかぶさるようなその大きさは異常だ。2メートル近くあるのではないか。
間違っても組手をしたい相手ではない。というか、こっちは華奢な少女の身体だ。常識的にないだろう。
しかも気安く肩に手をかけてきたので、無意識にそれを叩き落としてお気持ちを口にしていた。
「ないわ……」
「あぁん?」
しまった、と思った時には既に遅かった。訓練所ではどんな相手にも、できるだけ穏便に対応して目立たないようにと決意を固めていたのに、あっさりとやらかした。
「お前、このガビン様のお誘いを断るってのか?カハッ!正気かよっ。カハハハッ」
大男が高笑いをあげた。良くない傾向だ。
この手の笑い声が本気で楽しくて笑っているなんてことを意味するはずがない。実際、見下ろしてくるその茶色系の瞳はまったく笑っていなかった。ここから一気にサディスト全開のろくでもない感情に転化するに決まっている。
「是非とも、お前とやりたくなってきたなぁ!!!」
やはり来た。
絶対に逃がさないとばかりにこちらを掴もうとする両手からするりと抜け出して、素早く距離を取る……はずが、交わしたと思った次の瞬間にいつのまにか間合いを詰められていた。異常な反応速度だ。
再度伸ばされる腕を肘でずらそうとして、その強度に押し返される。こちらが非力な肉体と言えど、その感触は異様だ。触れたときに不自然な熱も感じた。
こいつ、肉体強化系か!?
気づいたときには遅かった。押し戻そうとして想定した体勢になれずに、逆にこちらがバランスを崩されていた。
大男はその隙を逃さずにもう片方の手で捕まえに来る。
毛深いその手が目前に迫ってきて、嫌悪感がこみ上げてくる。その感情はナナシのものか、ユアリィのものか。
とっさに風の結晶法で飛び退ろうとして、またもや妨害される。いつの間にか軸足を掴まれていた。片方に意識が行き過ぎていたようだ。
「おら、捕まえたぜ」
ニタリと笑う平顔の男を見て一瞬で血が上った。
相手が熱系の肉体強化ならば、こちらは風で対抗してやろう。その属性が何であろうと、詰まるところは結晶力を体内で活性化して循環させればいいだけだ。筋力と結晶力が共鳴して効果を倍増する。体格差など関係ない。
勝手に乙女の肌に触れるとは不届き千万。一瞬で結晶法を構築。解放。
全身をひねって、掴んできたその手を思い切り振り払った。
「ぬあおっ!?」
狙い通りにその手は離れたが、勢いが良すぎたらしい。大男も一緒に宙を舞って回転していた。というか、コマのように素早く回って飛んで行った。いま、何回転していたのか。
「あっ……!」
やり過ぎたと思った時には、相手は地面に頭から突っ込んでいた。受け身も取れなかったらしい。痛そうだ。
「こ、この野郎!!!」
演習場の大地は場所によっては柔らかい土壌で泥に近い場所もある。大男は見事にそんな場所に突っ込んだらしく、泥パックした男前になっていた。いや、それよりも立ち上がった姿に違和感がある。右腕があらぬ方向に折れ曲がっていた。自然ではあり得ないシルエットになっている。
ユアリィの足を掴んでいたがために、振り解く際の回転に巻き込まれて肩から外れたのかもしれない。
肉体強化をしているくせになんとも情けない。その筋肉は見かけ倒しか。
「よっわ……」
またしてもつい声に出してしまった。心底呆れたこちらの視線に気づいたのか、大男は自分の右腕の有様を見て、こめかみをひきつらせた。何かが膨れ上がるのを感じる。
怒り大爆発といった矢先、横合いから慌てた声が聞こえてきた。
「ガビン様!腕がっ!?早く治療しなくてはっ!?」
悲鳴混じりに丸顔の少女が駆け寄ってきて、大男の気勢を削いでくれた。
「こんなのたいしたことねぇっ!」
余裕をアピールしようとしたガビン何某だが、「いけませんっ!」という少女の強い語気に押されて意外にも大人しくなった。明らかに従者と主人の関係に思えるが、見かけによらず主従関係が逆転しているのか、大男は小柄な少女に主導権を握られていた。
そのまま素直に治療をしに行くようでその場をそそくさと離れていった。「お前、覚えてろよ!」「すみません、すみません」という対照的な言葉を残して。
面倒なやつに絡まれたと一息ついたナナシだが、今の騒ぎで周囲から更に敬遠されていることに気づいた。遠巻きにちらちらと視線を感じるが、決して好意的には思えない。
今や『可哀想な子』作戦は失敗しており、『触れない方がいい子』という雰囲気に変わってしまっていた。
そこへ教官の中年男性がやってくる。
今頃のこのこと表れたことからも、まだ新人らしいことが分かる。教官にも上級と下級レベルがあり、後者であることは明らかだった。
「組手相手がいないのか、ユアリィ訓練生?私が相手になってやろうか?」
教官と組手とは、結果的にハブられて誰も相手がいなかったという事実が浮き彫りになるだけではないだろうか。何もしないよりはマシと見るべきか、残念なレッテルが張られるのをよしとすべきか、判断は一瞬で決まった。
「いや、大丈夫だ」
残念な印象を与えるわけにはいかない。ぼっちだったから教官と組手していた新人という既成事実は作りたくない。
「そうか?だが、早めに組手相手を決めろよ。あと、演習場中央に合流しなさい。もう少しで開始するぞ」
教官はしつこく薦めることはせず、また他の訓練生へと声かけに回るようだ。
演習場は広いのですべてに目を届かせることはできない。とはいえ、あんなガビンのような者を放置しているのはいかがなものか。あの態度からして普段から問題児なのは間違いない。より注意を払っておくべきなのではないか。湧き出る不満を抑えて、さてどうしたものかと思案を巡らせる。
誘いを断ったものの、これから組手相手なしで実技を受け続けるのも針の筵だ。演習場中央に行けば余っている者がいるはずだ。この際、選り好みせずにその場の流れに任せるしかないか。
重たい足を引きずるようにそちらへ向かおうとすると、
「ちょまっ、ちょまっー!」
威勢のいい声と共に褐色の肌の少女が飛んできた。
ここの制服は着崩しても問題ないということで、かなり個性的に着こなしている者が多いことは気づいていた。だが、その娘のそれはもはや原型を留めていないように思えた。いわゆるへそ出しルックに完全なミニスカート化、煽情的としか思えない格好のギャルだ。シャツをわざわざへそ上で結んでまで腹を冷やす必要性はないだろう。蒸し暑い気候でもない。ファッションのために違いない。
どこぞのキャバ嬢かと思えるほど、縦に盛りまくった髪の主張も激しい。この世界にエクステなどなさそうなので、地毛で成立させているのは見事としか言いようがない。いや、似合ってはいるし、可愛い髪型と言えなくもない。ただ、訓練生という立場と相いれないだけだ。
驚いてまじまじと見つめていると、そのギャルが良く分からないことを言い出した。
「あーしと付き合ってください!」
一体何の話だ?なんだかついこの間も、同じような流れがあった気がした。
「……それで、組手相手になってはもらえたの?」
頭の痛そうな始まりだったけれど、その勢いの良さとストレートなアプローチはマイカの良さでもある。
ユアリィならば戸惑いつつも受け入れたであろうことは想像に難くない。思えば、自分も似たようなことをやった気がする。逆に実践済ということで間違いないだろう。
いえ、自分の時とは根本的には違うのだけれど……ふと誰に向かって弁解しているのか分からなくなる。
「うん、トーゼンっしょ!しかも、身のこなしが超ヤバなの。あのデカゴリラぶん投げたんだからレベチって分かってたけど、想像以上に激エモでさ――」
マイカの興奮は止まらない。いかに凄かったのかを力説してくる。
体術という点では、マイカもかなりの身体能力だったはずだが、その彼女が手放しで褒めちぎっているのは相当なものだ。
結晶力については潜在的に最高レベルだと推測していたが、身体的にも優れているのは朗報だ。ますます、ユアリィへの期待が高まる。
思わぬ伏兵の登場で、外堀を埋める作業が効率的になるかもしれない。これもまた、運命かもしれない。
デカゴリラ、もといガビンのことは多少の障害になりそうだけれど、それ以上に収穫が大きくなりそうだ。自分だけではなく、マイカを通じて色々と探れる。
実際、現時点でのマイカの話からだけでも、色々と奇妙な点が見えてくる。それらはすべて貴重な情報だ。同じ角度から見るだけでは、対象を正確に捉えることはできない。視点はいくつあってもいいと学んでいる。
初日に自身を印象付けた後、シャロリーンは一旦ユアリィと距離を取っている。押したり引いたりは恋愛の駆け引きでよく使う手ではあるが、同性との関係でも有効だ。相手の反応でどう接すればいいかは明確になる。
ユアリィ攻略に向けて、色々と作戦を練り直す必要があるようだった。