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目が覚めて初めに感じた違和感は、動けないという無力感だった。
次いで、手足そのものがないことに気づく。意味が分からなかった。
更に最悪なことに記憶がないことが判明する。
自分が誰かも、ここがどこかも、まったく思い出せなかった。
混乱するよりも先に乾いた笑いがこぼれた。
出来の悪い三流小説か何かかよ。むしろ、妄想の夢の中にいるんじゃないのか。
そんな皮肉な感想も所詮は現実逃避だ。頭のどこかではこれが夢幻なんかではないと理解していた。本能的に知っていたというべきか。理屈ではない感覚で、これが現実だと分かっていた。
そして。
目の前には赤い世界が広がっていた。
その赤は鮮明な紅ではなく、赤黒く濁った色に見えた。辺りには鉄錆のような強烈な匂いも充満していた。
周囲すべてが血の海だった。
見えているのは大量の血で、視界を埋め尽くすように飛び散っているのは、自分の目あるいはカメラレンズそのものに付着しているからだろう。人としての身体がないのになぜ見えるのかとか、そういう疑問は湧いてこなかった。
それよりも、そんな血の海に横たわっている少女に目を奪われていた。
ボロ布を巻き付けただけの衣服で貧相な恰好にも関わらず、その青白い銀髪だけがやけに美しく輝いて見えた。そこだけは赤い汚染を断固として受け付けないというように、地の色を強く主張していた。血塗れで倒れて瀕死に見えるのに、そのあどけない表情はあまりにも穏やかだった。
最初は死体だと思った。こんな場所で昼寝ということもないだろう。
だが、両手でかばうように抑えられた腹部がゆっくりと上下していた。豊かな胸よりそちらに目がいったのは、痛々しい傷がそこにあったからだ。何かにかみ千切られたかのように抉られていた。あるいはごっそりとその部分を切り取られたのか、正直傷跡に詳しくはないので適当な見解だ。
とにかく素人目にも分かる致命傷だということは確かだった。今も血は溢れている。急に苦し気な呼吸がその小さな唇から洩れる。聞いていて不安になる息遣いだった。
少女は死にかけていた。事態は一刻を争う。
わけの分からない状態で目覚めて三秒で目にする光景としては、あまりにもハードな状況だった。意味不明な自分の状態より、他人の心配をさせられている。
それでも不思議と身体は動いた。いや、正確には精神が動いたというべきか。もとより動かせる手足はない。
とにかく目の前の少女をどうにか救わねばならないと考え、それがなぜだか自分にできることを直観的に知っていた。
理屈や理由などそこにはなかった。
できることをただやるべきだと考え、無意識に動いていた。
どうやってなどの方法は自分自身でも分かっていない。気が付いたら、結果だけがそこにあった。
俺は少女の身体に入り込んでいた。ある種の寄生なのかもしれない。
何を言っているか分からないと思うが、俺にも分からない。息を吸おうと意識せずとも呼吸ができるように、自然にそうなるべくしてなったというのが近い感覚だろうか。
気が付くと俺は少女の中にいて、身体の異常に対して応急処理をしていた。
医療知識があるわけじゃない。ただ、正常値とエラー箇所が分かっていて、それらを綺麗に調整したようなものだ。
各種パラメータのバランス配分。危険値だと思われる数値をどうにか引き上げる。ゲーム感覚でそれらをいじっただけで、少女の容体は安定した。血は止まり、脈拍も落ち着いた。相変わらず仕組みは不明だ。
他人事のようにそれらを確認して一山越えたと思った瞬間、今度はその正常値に戻った身体の感覚が己のものになっていた。
いつの間にか、その身体を己のものだと感じていた。人間としての五感が急に戻ったのだ。
本当に意味が分からない。
なぜかその少女として寝返りが打てるようになり、俺は微妙に腹部の痛みを感じた。血溜まりの嫌な感触とその匂い。気だるい体の調子と、その場の湿気った空気を吸い込んでむせた。思わず手を口にやり、片膝を立てて体勢を変えた時、間違いなく自分が少女を動かしているのだと分かった。腕も足も自分の意思で動かせた。それが自分の身体だという感覚があった。
「は……?」
漏れた声もまた少女のような甲高いものだった。少なくとも、男だと自認している自分のものではなかった。
寄生ではなく上書き?
何となく思いついた回答。まさか、知らずに少女の身体を乗っ取ったのかと焦る。そんなつもりは毛頭なかった。
しかし、それもすぐに杞憂に終わる。
いきなり膨大な情報が脳内に溢れてきたからだ。
この世界の常識。少女の記憶。見知らぬ生物の名前。動植物の種類。まるで聞いたこともない数々の逸話。その他などなどなど、あまりの量に意識が飛びかけたほどだ。
その知識の奔流ががどれくらい続いたのか分からない。一秒か、一分か、一時間か。
気が付くと血の海の中に再び倒れていた。
先程起き上がったはずなのに、知らない内にまた横たわっていた。気を失って倒れ込んだのだろうか。意識を失うのは気分がいいものではない。
それでも二度目の目覚めは、大分意識がすっきりとしていた。やはり身体の感覚もあった。
そして、一人ではなかった。
(あーっと……ど、どうもー?)
ユアリィという少女が自分の中にいるのが分かった。不意に、唐突に理解した。
いや、俺が彼女の中にいるのだが、その辺の認識は正直曖昧だ。寄生というか融合した時点で、どちらが主体かという線引きが難しくなった。身体的には少女ではあるだろうが、確実に死にかけていたそれらを修復したのは俺の精神であり、そこを起点に入れ替わったという見方もできる。
一方で、少女の精神も消えたわけではなく、俺と並列して存在している。同じ肉体に二つの精神。これも二重人格と呼ぶのだろうか。訳の分からなすぎる状況なので、あまり気にしてもしょうがないのかもしれない。
もう正直何が正しいのかも分からなかった。異様なことが起こりすぎて考えはまとまらない。
だから条件反射的に返事をしていた。深く考えもせずに。勢いで。俺はそういう性格なのか。
(初っ端から呑気に挨拶かよ……というか、現状がどういう状態か分かってるんだよな?)
(んー、なんとなく?でも、とりあえず挨拶は大事でしょー?初対面なんだからちゃんとしなくちゃ。ユアはユア。よろしくね)
調子が狂う。これほど異常な状況の中で普通に自己紹介ができるとは。
自分の中に見知らぬ異分子が突如現れて体を占拠されている上に、精神的なプライベートルームにまで土足で踏み込まれているようなものだ。困惑と嫌悪感でまともな思考など出来そうにない状態なはずだ。
ユアと名乗った少女の鋼メンタルに呆気に取られていると、
(ああ、そっか。キミってまったく記憶もないんだ?名前も覚えてないんじゃしょうがないかー、でも、それじゃ不便かな。じゃあじゃあ、こうしよう。何か名前を自分につけてよ。そこからはじめよーよ)
ある程度こちらの事情も伝わっていることが分かった。お互いの情報が共有されるわけか。だとしても、最初に気にする部分としてそれは斜め上の回答だった。
(……俺の名前なんてどうでもいい。もっと他に考えるべきことがあるだろ?)
(えー?だめだめー。名前は大事だよー?ユアなんてほとんど名前で呼ばれたこともないんだもの。バケモノとか毒娘とかみんなひどいよねー?)
何の気なしの発言だったが、その言葉で少女の過去が脳裏を横切って複雑な気持ちになった。そこには無視できない重みがあった。
かといって自身の名前など思い出せない。一切の個人的な記憶が抜け落ちているため、名前に関するひとかけらの手がかりもない。同時に思い入れもないため、一般的な例に頼ることにした。
(じゃあ、ナナシとでも呼べばいい。で、今の状況をどれだけ把握してる?とりあえずお前の瀕死状態は回避できたみたいだが、その傷を負わせた相手がまだ近くにいる可能性がある。身の安全の確保を優先しなきゃならねぇ)
(おお、ナナちゃんね。はいはい、よろしくー)
(ナナシだ!三文字を略す必要はないだろ!?)
(そっちの方が可愛いじゃん。それと、ありがとー。ユアの傷治してくれたんだね。いやー、さすがに今回のはヤバかったのかー。気絶してる間に死ぬところだったなんてねー)
あまりにも軽い感想だった。死にかけていたことを本当に理解しているのか。その精神状態を訝しみながらも、今は他に優先すべきことがある。
(で、状況についての説明は?)
(あ、そうだった、そうだった。んーと、逆にナナちゃんはどこまで分かってるのかな?)
質問に質問で返すなと言いたいところだったが、時間効率を優先して素直に現状の理解を話すことにする。
ユアリィの今日の記憶の概要を読み取ったところ、ここは洞窟内部らしいこと、その露払い役として先行探索させられていたこと、自身の特殊な結晶法のおかげで周囲に群がってくる邪物を毒死で自滅させて進んでいたこと、奇妙な大木を見つけたこと、その洞の中に入ったところで痛みと共に気を失ったことが分かった。
(はわわー、そこまで分かっちゃうんだー?乙女のユアちゃんの内部を勝手に盗み見るなんてこのスケベーさんめー)
(それについては言い訳も弁解もできないな。命が助かった代償だと思ってくれ。俺も極力お前のプライベートなところを積極的に見ようとはしないつもりだが、必要に応じてそうせざるを得ないときはある。慣れてくれとしかいいようがない。一応、俺の方も同じ条件だとは思うから、お互い様ってことで納得してくれ)
個人的な記憶がない分、自分の方が大分有利な条件だと思いながらも、ナナシはそう言うしかなかった。
(うん、まぁ、そだねー。しょうがないよねー)
あっさりとユアリィは納得して、言葉を継いだ。
(それで、さっきのに付け加えるとしたら、その洞の中でなんか見つけたはずなんだよね。ただ、それが何だったか良く分からないの。それを見つけた瞬間、何かにやられた、みたいなー?)
(やられたってのは、腹の傷か?)
無意識に自身の腹の辺りをさする。他人の話をしているはずなのに、自分の身体を確かめるという奇妙な行動になった。
(そそ。でも、もうほとんど治ってるじゃん。ナナちゃん、すごー)
(あ、いや、そんなことよりもだ。とりあえず、お前自身がこの身体のコントロールをできないのか?怪我でアレだったから俺が今制御してるみたいだが、もう戻れるんじゃないのか?)
色々と話がズレたが、まずはその点をはっきりさせる必要があるだろう。成り行きで寄生した形になったとはいえ、身体の制御まで奪う気はなかった。
居候できる場所としてちょっと間借りするような気分でしかなかったナナシは、突然その所有者もどきになってしまっていた。本来の形に戻すべきだという思いがあった。少なくとも、それがナナシの中の社会通念の正しい在り方だと思われた。
しかし、ユアリィの答えは予想外のものだった。
(んー、できそうだけど、とりあえずこのままでいいかなー?ナナちゃん、悪い人じゃなさそうだしね。ちょっと貸しておくよー)
(は?そんな小銭の貸し借りみたいなもんじゃねぇだろ!?お前の身体だぞ!)
しかも、異性に対してだ。他人に身体を操られるなど、普通は嫌悪感で一杯になるはずだ。
(いやー、だってこれ楽ちんなんだもん!ユア、何にもしなくてもイイ感じだし?ついに快適ライフゲットだぜー)
「お前……」
呆れが思わず声に出て絶句していた。人それぞれの性格があるとはいえ、ここまで一般的な思考から外れているものだろうか。いや、ここが異世界だとするとその時点で自分の中の常識とは一線を画しているのかもしれない。だとしても、やはり理解はできない。
想像以上の能天気なのかと頭が痛くなったところで、別の思考が過ぎる。
ユアリィの生い立ちだ。詳しくその人生の歩みを知っているわけではない。上辺のそのまた上澄みを少し知っただけに過ぎない。それでも彼女の過酷な境遇は窺い知れた。その過程でどれだけ精神的な苦痛があったかは想像に難くない。そのことを踏まえると、生きることそのものに疲れていたという側面も考えられる。
ナナシという他者が一時的にせよ肉体を制御している状況は、ある意味でユアリィにとって負担が軽減されている状況なのかもしれない。毒娘などと呼ばれ、自身の意思に関係なく周囲のものを自滅させてしまうその能力から、今は解放されているとも言える。
もちろんすべては憶測だ。共生することで共感する感情などはあるものの、すべてではない。今ユアリィが何を考えているかが正確に分かるわけではなかった。
(……まぁ、とにかくそういう感じでよろしくー。ちょっとだけなら、スケベーなことをしてもいいよ?)
(誰がするかっ!?)
素早く突っ込みながら、ナナシはなんとなくお互いに気遣ったことを共有している感覚があった。ユアリィなりの照れ隠しだったのかもしれない。それに、今は無駄に口論していても何も進まない。知るべきことがありすぎて、いちいちこだわっている暇がないと言うべきか。
(分かった。とりあえずはこのまま俺が動かす感じで行くとして……この傷をつけた奴がいるって話になるな)
話を元に戻す。元々、この状況の危険度を計るつもりだった。
(あー、そうだねー。攻撃してきた何かがまだいるかもー?でも、もう倒れちゃってる可能性もあるかも?)
(どういうことだ?)
(んーと、ユアの毒?か何かって、すぐに効く場合がほとんどだけど、後からじわじわーって場合もあるからね。一太刀浴びせてから、『ぬぬっ、今頃効いてくるとは!』みたいな?)
毒にタイムラグがあるかもしれないということか。
妙な例えは無視してナナシは周辺を見回す。相変わらずの血の海だが、特に他に何も見当たらない。その血はおそらくユアリィのものだ。
(……その場合、ここらにその攻撃した何かの死体がありそうなもんだが何もない。あるいはこの洞から出たところで倒れてるのか……?)
(それは出たら分かるんじゃない?)
(簡単に言うな。外に出たらどれくらい危険かどうかを知りたくてお前に聞いてるんだからな?)
(それはユアに聞かれても分からないよー。ここがどこかもよく知らないんだもん)
(そういや、そもそもここには天然の結晶石とやらを取りに来たんだっけか)
(あ、それそれ!ユア、思いついたというか思い出したんだよ!)
急に勢いづくユアリィ。続く爆弾発言。
(ナナシって結晶石なの?)
(は?何を言って……?)
その瞬間、結晶石という情報が一気に流れ込んで来る。まったく知らなかった世界。未知の存在。その機能。その意義と重要性。
そして、唐突に理解する。
自分という存在が結晶石というものに転生したことを。
それからユアリィという少女に結晶石として融合したことを。
……いや、なんだそれ?どういう状況だ?
ナナシの混乱は最高潮に達した。