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その日、300人を殺した。
決闘という正式な場とはいえ、結果だけ見れば虐殺に近い。
明確な殺意など持ってはいなかったが、こうなることは想定内だった。
だから、多分、俺は悪人なのだろう。
実際、何もかもが終わった静寂の中で、もう敵が誰一人として息をしていないと実感した後で、胸に抱いた感想はやっと一つの面倒事が片付いたというものだ。
この世界の命は軽い。
ずっとそう感じていたが、自分自身もいつの間にかそれに慣れてしまっていたようだ。
後悔はないと言えば嘘になる。避けられるものなら当然避けていた。
だが、叶わなかった。
それだけのことだ。
ひゅるるると、物哀しげな風が吹き抜けた。
(終わった、のかな……?)
廃村となった裏通りの一つ。崩れかけた壁にもたれていた俺の頭の中で、ユアリィの声が木霊した。
(ああ、信じられないくらいにうまくいった)
むしろ行き過ぎていた。テストは不十分ではあったものの、きっちりと機能した形だ。不安も同じだけあったのだが、敢えて言わなくてもいいだろう。
(そっか……これで、完全に悪人になっちゃったかな)
珍しく少し物憂げな相棒の声に罪悪感が芽生える。事前に合意はとっていても、やはり現実に体感すると気持ちはまったく違う。
今日の結果が表に出ることはないが、いつかどこかで広まることはあるだろう。その時、ユアリィの名は汚されることになる。
(悪いな。やったのは俺でも、世間的にはお前の悪名で語られることになると思う。すまない)
(にゃはは、謝らないでよー。それに、これはユアとナナちゃんでやったことでしょ。勝手に一人で手柄を取らないでよねー)
(手柄ってお前……ってか、ナナちゃんって呼ぶな)
ひとしきり軽口を叩いてから、俺は壁から身を離した。日陰になっていた冷たさが、陽の光のもとに出ることで逆説的に強く感じられた。あるいは単なる精神的なものか。
何にせよ、いつまでもここにいるわけにもいかない。対戦相手と立会人のもとへ報告をしに向かうことにする。
と、その時。
嫌な予感がして、結晶壁をとっさに前面に展開した。
ティキン!と小気味いい音がして、その半透明な壁に何かが当たって砕け散った。
(えっ!?なに、今のっ!?)
(狙撃、か?)
(ほえっ!?なんで、なんで、もう終わったんじゃないのっ!?)
(ん……まだ生き残りがいて最期の最後っ屁って、わけでもなさそうだな)
言ってるそばから第二射が飛んできたので、その考えは捨て去る。
残る可能性としては、あの美青年が最終手段として卑劣な手を打ってきたということだ。この決闘が秘密裏に行われている以上、こちらが勝利した場合にまったく別の結晶者によって始末してなかったことにしようという強引な策だ。そんなことが許されないがための決闘というシステムだと思っていたが、何にでも例外はある。
初めから何も信じてなどいなかった。自分の存在さえ曖昧だ。
だからこそ、非合法に暗殺されてやるつもりもない。全力で抵抗させてもらう。
奇襲で仕留められなかった時点で、相手は退くべきだった。ぶつかった衝撃から方向は割り出せる。この距離で俺に見られるとは思っていないに違いない。油断したのは向こうだ。悪いがそんな常識は通用しない。
遠視の結晶法も既に確立している俺に死角はなかった。懲りずに第三射を放った時点で積みだ。
相手は土矢のようなものを高速で打ち出してきていたようだった。この長距離でしっかりと的に当てているのだから腕はいい。この世界での遠距離攻撃の有効範囲について詳しくはないが、おそらく規格外の狙撃なのだと推測できる。わざわざ用意した奥の手だ。必殺必中の類だったのだろう。
惜しむらくは相手が俺だったことだ。非常識な破壊者などと罵られもした折り紙付きだ。
しっかりとその姿は捉えた。もう逃がさない。
肉体強化の結晶法を己にかける。すぐさま力が漲る。レースゲームで言うロケットスタートを決めて、一気に廃村の道を疾走する。文字通り飛ぶように走った。
相手がぎょっとした顔で硬直した。
まさか狙った的が走って駆け寄ってくるとは思っていなかったのだろう。いや、それ以前に見つかるとは考えていなかったはずだ。更に言えば、十分に離れていたその距離をとんでもない勢いで詰めてくるなんてことは想像の埒外だろう。
完全な不意打ちのつもりが防がれた挙句、逆襲されようとしている。恐慌をきたしても無理はないものの、暗殺者としては完全に失格だ。
貴重な数秒を逸している。そして、ようやくその緊縛が取れた時にはもう遅い。
使い慣れた風の結晶法が届く距離になった瞬間、俺は鋭い風の刃が相手の腕をたやすく斬り落とした。避ける暇すら与えない。容赦はしなかった。
「誰の差し金だ?」
なおも何か抵抗しようとしていた相手の目の前で仁王立ちする。完全に悪役の動きだったが気にしない。どう思われようともう関係ない。
ある程度の見当はついていたが確証が欲しかった。
しかし、相手の反応は想像以上に素早く迷いがなかった。ふてぶてしくニヤリと笑ったかと思うと、どこに隠し持っていたのか小さなナイフを取り出して自らの首をかき切った。止める間はなかった。飛び出す血は勢いが凄まじく、「うおっ」と情けない声をあげながらすぐさま後方へ飛び退く。
(うわー、潔く逝ったね……本当に自決する人っているんだ……)
(最期だけプロらしくしなくてもいいんだがな)
そこには慌てて一瞬棒立ちになっていた間抜けな姿はなかった。
元より雇用主を吐くとは思っていなかったが、敗北を悟った途端に自決できる精神力は狂気に似たものを感じた。
目の前で広がる血だまり。その中に倒れている死体は生々しい。殺した300人とは違って外傷がはっきりしているとこれほどまでに違うものか。
多数のそれよりたった一つの死体の方に心が動いている皮肉を感じながらも、頭は冷静に状況を確認していた。
事切れた男に特徴は見当たらない。身分証明書など持ち合わせているはずもなく、どこの誰かも不明だ。その辺にいる青年の一人にしか見えなかった。
一応、犯人っぽいあいつに聞くべきか?
生首を持って突きつけてやろうかという猟奇的な衝動にかられるが、やめておいた。どうせ、しらを切られるだけだろう。何より首を切断などしたくはない。できるかできないかで言えばできてしまうのが、また何ともやるせない気持ちにさせる。
結晶法に慣れ過ぎて、思考までどこかおかしくなってしまったのは必然といっていいのだろうか。
半ば無意識にその手の甲から結晶石を奪い取る。鈍色の輝きが反応する。
適応できるのは運命か皮肉か。
手に持った途端、その硬度が軟化して淡く光りを放つ。その段階で既に洗浄されたようなものだと知っているが、水の結晶法で一通り洗い流した。ついさっきまで血塗れになっていたものだ。そのまま取り込む気にはなれなかった。
ゆっくりと目の前に掲げる。
利用できるものは何でも利用すべきだ。その信条で生きている。
逡巡しないようにさっと飲み込んだ。すぐさま身体の中で吸収される感覚。結晶力が上昇するのを感じる。恍惚にも似た一時の高揚感。
結晶者たちが強い結晶石を求める気持ちも分からないでもない。これはある種、中毒性のある麻薬のようなものなのかもしれない。宿命と同時に欲望も満たせるのなら、貪欲に求め続けるだろう。この世の摂理は機能的に循環するようにできている。
足元では、結晶石を失った暗殺者の肉体がゆっくりと消えてゆく。
まったく理解しがたい原理だが、ここではそういう仕組みになっている。死んだら肉体も残らないので、結晶者は墓も必要なくて経済的だなどと益体もない考えが浮かぶ。
明日は我が身か、人の振り見て我が振り直せ、か。いや、俺の場合は両方外した時だけになるのか……?
立て続けに皮肉な思考に囚われる。が、あまり深く考えても仕方ないので立ち上がって周囲を見回す。
現在地は高台にある廃屋の庭で、先程まで決闘の場だった空間を一望できた。忘れ去られた廃墟。朽ち果てた建物と寂れた風景。浮彫になる無数の屍。
至る所で結晶者たちは息絶えて横たわっていた。自分の身に何が起こったのか分からないまま死んだと思われる倒れ方だ。理不尽な死。殺されること自体が理不尽ではあると思うが、結晶者たちの理屈では違うかもしれない。行動原理がやや特殊だ。測る物差しが違うのだと最近分かりかけてきた。
いずれにせよ、こんな風に死ぬべきではなかったはずだ。
自分でやったことながら、この惨状には同情と憐憫を覚えずにはいられない。
深く長い息を吐く。
どこか上空で鳥の鳴き声が遠く響いた。
何が起ころうと、時間はただ過ぎてゆく。
何を思おうと、この手でできることは限られている。
物悲しく静かで寂れた空気。無駄死にの結晶者。なんとも切ない光景だった。
300人の命を奪ったということの実感は未だにない。実際に物理的に手をかけていないからだろうか。あるいは自分が冷たい人間だからだろうか。
(……とりあえず、報告に行った方がいいんじゃないの?)
しばらく無言で佇んでいると、ユアリィが現実に立ち返らせてくる。互いに心情は語らなかった。なんとなく伝わってしまう。今はそういう関係だ。
まずは決闘を形式的にも終わらせるべき。ユアリィの言う通りだ。
亡骸たちから視線を外して歩き出す。
後悔などしない。多分。
俺にとって、ここは今でも現実感のない物語のようなものなのだから。
目の前の光景をどう考えればいいのかずっと思考を巡らせていた。
それは驚愕という言葉では足りない現象であり、有り得べからざる事態だった。
訓練校きっての異端児という勇名は伊達ではなかった。
そもそも、この決闘自体が異例すぎることを鑑みれば、あるいはこの結果も妥当なのだろうか。既に正常とは何か分からなくなっている。
長年様々な結晶法を見てきたつもりでいたが、目の前にしてなお、アレについては何一つ理解が追いつかなかった。
あのウィグルヤーン家の者ですら、礼節を殴り捨てて既にこの場から去っていることもむべなるかな、と納得できてしまう。とてもじゃないが、こんな結果は受け入れがたいだろう。一方で、もうなかったことにはできない。遠目でしかと確認はできなかったが、暫定決着後に慌しい動きもあった。あまり関わりたくない非常事態があったと予測される。
今後がどうなるにせよ、しばらくは酷い嵐が続きそうだ。せいぜい巻き込まれないことを祈るのみ。
可能な限り秘密裏に行われたものの、いつかはどこかから今日のことは噂になるだろう。そして、伝説となること請け合いだ。
1対300という馬鹿げた条件。
勝敗は始まる前から誰の目にも明らかで、ワンサイドゲームを想像することだろう。統計や確率以前の無謀な対比だ。個々人の結晶力にどれだけの差があろうと、物量という要素の前には無力だ。
その点は確かに間違っていなかった。勝負はあっという間についていた。ただ、勝者と敗者が予想とは逆だというだけで。
立会人としてこの決闘を見守ったハヌウェンは、未だに信じられぬ思いでその人物を見つめた。
まだ幼さの残る童顔の少女が泰然自若にこちらに歩いて来る。喜びを表すでも決闘が終わってほっと一息つくでもなく、始まった時と同じように飄々とした雰囲気のままだった。
青みがかった銀髪が風に揺れ、その黒い瞳にかかるのを少し面倒臭げに手で払う。
色々な結晶者を見てきたが、そのどんなタイプとも異なる唯一無二の雰囲気をまとっている。若者らしさと成熟した精神が同居したような奇妙な感覚。特異種の名にふさわしく、何かが逸脱している存在だ。
その深い闇色の目と視線が重なる。
紛う方なくうら若き乙女の外見の中で、たった一つ大人びたその黒い瞳。老獪さすら滲ませるその奥深い輝きが、ハヌウェンをはっとさせる。
たった今前代未聞の結晶者300人を打ち倒したことなど、その視線からは何も感じ取れなかった。
遥か年下の訓練生に対して戦慄すら覚える。
見慣れたはずの訓練所の制服を着ているあの少女、ユアリィ=ブラニューデとは何者なのか。
不意に、突風が横合いから吹き付けてハヌウェンの身体がよろめく。それほどに強い当たりだった。
しかし、その視界の中で少女の歩みには微塵の揺らぎもない。ただ、その銀髪だけが踊るように揺れて流れていた。一瞬、少女があらゆる風を従えているような、そんな錯覚に陥る。
風はそんなハヌウェンを嘲笑うように勢いよく吹きすぎてゆく。
「……新しき時代の風ということかの……」
老人の呟きは抜けるような青空の中へ吸い込まれて消えた。