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1.その歌姫は、捨てられる。

 私が一体何をしたと言うのだろう? と目の前の光景をまるで他人事のような心持ちで、エレナ・サザンドラは眺めていた。

 自分の目の前に座っている気の毒になるほど萎縮して自信なさげに眉を下げ困り顔を浮かべている婚約者と、その彼の腕に自身の腕を絡ませてまるで悲劇のヒロインのような顔をしている妹。

 そんな2人を見ながら、エレナは"私はどうすれば良かったのだろう"と、変えられない過去について考えていた。


「……エレナ、君との婚約を破棄したい」


 静かに、だけれどはっきりと婚約者であるエリオットから発せられたその言葉はエレナの耳に届く。

 耳の奥でこだまするその言葉を反芻しながら、どうして? とエレナは思う。


『どうして、私を切り捨てるあなたがそんなにも辛そうな声で、顔で、その言葉を口にするのか』


 と。

 エレナは問いただしたい衝動に駆られるが、実際にはエレナの表情はぴくりとも動かず、ただぼんやりと言葉を発したエリオットの事を空虚な瞳に映すだけだった。


(泣きたいのは、私の方だ)


 いくらそう思っていてもエレナの瞳からは涙ひとつこぼれない。泣く、という行為を含めここにいるエレナには何らかの行動を起こす事は何一つ許されていないことを文字通り身に染みて理解していた。


「お姉様、どうか分かって。これ以上、エリオット様を責めないで」


 妹のマリナがハラハラと泣きながら、まるで婚約破棄に至った全ての根源はエレナであると言わんばかりにそんな言葉を投げつける。

 バカな事を言わないで欲しいとエレナはせめてもの抵抗として心の中でつぶやく。

 自分はこの部屋に入ってから一言も発していないし、なんなら出会ってから今に至るまで一度だってエリオットを責めたり非難する言葉を口にした事はない。

 なぜならエレナにはもう、エリオット以外味方と呼べる人間はいなかったのだから。

 幼少期に親同士が決めた婚約とは言え、少し気弱でいつでも誰にでも優しいエリオットは、自分には過分だと思うほど素敵な婚約者だとエレナは思っていた。

 苦しい時も悲しい時もエリオットがいたから、今までどんな仕打ちを受けてもこの家で耐えてこられた。

 いつか彼の妻になる。それだけがエレナにとって心の支えであり、唯一の救いだった。

 そんな彼を自分が責める事などあるはずもない。エリオットなら分かってくれているはずだ。そう思っていた。


「いいんだ、マリナ。エレナの未来を奪ってしまったのは僕なのだから、責められて当然だ」


 エリオットの言葉に驚き、エレナは初めて僅かに表情を崩し、紫水晶のような目を見開く。


(責めて……いる? 私が、あなたを?)


 エリオットの言葉を反芻し、開きかけた口から声が漏れる事はなくエレナは口をつぐむ。


(エリオット様は、本当にそう思っているの?)


 エレナはその言葉を信じられなくて、信じたくなくて、エリオットの真意を探ろうと紫水晶の瞳をエリオットに向ける。


(私は、あなたを守れてよかったと心から思っていたのに、あなたはずっと私に責められていると思っていたの?)


 だとしたら、こんなに悲しいことはない。


(あなたが生きていてくれて嬉しいと、文字に綴った私の言葉はあなたの心に届かなかった?)


 エレナと目が合うとエリオットの新緑のような瞳はたじろぎ、すぐさま目を逸らした。そこには今までエレナに向けられていた優しさなどカケラも残っていない。

 信じたくないと思ったその答えはエリオットに聞くまでもなく明白だった。


 その事実を突きつけられて目の前が真っ暗になるほどの絶望感に襲われても、エレナの目から涙が溢れる事はやはりない。

 感情を表に出すなどサザンドラ子爵家の後継者としてあるまじき事だとエレナは幼少期より厳しく躾けられてきたからだ。


「エリオット様っ! エリオット様だって、随分お辛い思いをされて、苦しんだと言うのになんてお優しいの」


 そんなに自分を責めないで、とマリナは甘ったるい声でエリオットにしなだれかかりエレナを睨む。

 ああ、そういうこと。とエレナは急速に心が冷えていくのを感じる。

 マリナの目には姉の婚約者を奪った罪悪感など微塵も宿っていない。そこにあるのは、エリオットへの恋情とエレナへの優越感。ただそれだけだった。


「エレナ、この通り2人は愛し合っている。エリオットは変わらずうちに婿として入ってくれるそうだ」


 エリオットとマリナが座るソファとエレナの座る1人がけのソファの間に座る父親が淡々とした口調でそう言った。

 それはつまり、正統な継承者であるエレナではなくサザンドラ子爵家の血を一切継いでいないマリナをサザンドラ子爵家の後継者にすると言う意味と同義だった。

 エレナは静かに父親の方に視線を向ける。父親はエレナに一瞥もくれず、義母であるカレンが扇で口元を隠しながら、敵意を隠さない視線をエレナに寄越す。


「エレナさん、安心して頂戴。この二人なら今以上にこの家を盛り立ててくれるはずよ」


 それはどうだろうか、と思ったがもうエレナには関係のない話だった。この家の中心にいるのはマリナだ。彼女が欲しいと言えばそれが全てだった。

 たとえマリナが後継者教育どころか通常の勉学さえおろそかにする子でも、エレナの持っているものを欲しいと癇癪を起こし何もかも奪っていく子でも、そこに否と言えば叱られるのはエレナの方だった。

 だからエリオットの婚約者がマリナになる事も後継者がマリナに代わることも、自分がこのソファに座るより前に決まっていた確定事項なのだろうとエレナは"いつものことだ"と自分に言い聞かせた。

 諦める。それ以外の選択肢をエレナは持っていなかった。


(マリナ、あなたは本当に何もかも私から奪うのね)


 所在なく彷徨ったエレナの視線がエリオットを捉え、エレナの紫水晶の瞳とエリオットの新緑の瞳が宙で絡む。


(私が歌姫でなかったとしても、愛していると言ってくれたのは、嘘だったの?)


 だとしたら、私は今まで一体何のために? エリオットに、というよりも自問するようにエレナの中にそんな言葉が浮かんだ。

 刹那。


「……っ、そんな、目で見るのは……やめてくれ」


 エリオットから出てきたのは、拒絶の言葉だった。


「エレナ、君といるのは苦しい。君の無言も無表情ももう見たくない。君はいつもそうだ。言葉で語らず、いつもその紫水晶の目で責めるんだ」


 この人は何を言っているのだろうか、とエレナは素直に驚く。

 エレナの表情が乏しい事も、言葉数が少ない事も今にはじまったことではない。

 そうなった経緯もエリオットは知っていたはずだし、鞭で打たれて腫れたエレナの手を撫でながら君は悪くないよと優しく慰めてくれたのはエリオットであったはずなのに。


「君が、もっとマリナのように感情豊かで気持ちを伝えてくれていたら、僕だって」


 それをあなたが言うのか、とエレナは薄ら寒い気持ちを抱え、そしていつものように全部を諦めた。大好きだったバリトンの声はもう愛を語らない。


「ああ、お可哀想なエリオット様。お姉様の婚約者になんてなったばかりに、こんなに傷ついて。お姉様、もしも僅かでもエリオット様を愛しているなら今すぐ身を引くべきですわ!」


 苦しそうにエレナの事を責め立てるエリオットを慰めながら、マリナはエレナをそう責める。


(結局、私一人が悪者なのね)


 一方的に婚約破棄を告げられたのは自分なのに、どうやら自分はマリナの中で二人の仲を引き裂く悪者のようだった。

 マリナがそうだと言うのなら、そうなのだ。抗ったっていい事など何もない。


「エレナさん、何か言いたい事があるならはっきりおっしゃったらどうなのかしら?」


 カレンは扇子で表情を隠したまま意地悪くそういう。


(私がまだ声を出せないと知っているくせに、無茶を言う)


 酷く傷ついた声帯はまだ回復しておらず、医師から声を出す事を止められている。そもそも医師に止められるまでもなく、声を出そうとすると強い痛みと喉が詰まった感じで音にならない。まるで壊れた楽器のようだ。

 だと言うのにこの場には声が出せなくなったエレナのためにペンも紙も用意されてはいなかった。

 否、たとえそんなものがあったとしても私には沈黙以外許されなかったはずだとエレナは内心で首を振る。


「もう歌姫ではないお前に子爵家を継がせる理由はない。エレナ、欠陥品になったお前に縁談が来ている。嫁ぎ先はアルヴィン辺境伯の元だ」


 決定事項として告げられたその言葉を聞いて紫水晶の瞳が揺れる。


「まぁ、アルヴィン辺境伯なんて名家ではありませんか! お姉様には勿体無いくらいの縁談ですわ」


 ぱぁーっと表情を明るくしたマリナが手を叩いて嬉しそうな顔をする。


「なっ、アルヴィン辺境伯だって!? エレナをそんな所にやるだなんて正気ですか?」


 驚きと非難めいた口調でエリオットが声を上げると、マリナは一瞬つまらなそうな顔をしてエリオットの腕を掴み胸を押し当てる。


「もう、エリオット様ったら。あなたの婚約者は私ですよ?」


 ぷくっと拗ねたように頬を膨らませた子どもっぽい仕草もマリナがやると愛らしく見えるらしい。

 エリオットの視線が自分に戻ったことに気をよくしたマリナは、


「エリオット様を傷つけたお姉様なんて放っておけばいいじゃないですか。それに、エリオット様に見限られた(婚約破棄された)のにお嫁の行先があっただけ僥倖。お父さまの決定に間違いはないのですよ」


 と嗜めるようにそう言った。


「辺鄙な田舎だなんてお姉様にお似合い。魔物もたっくさん出るんでしょう? ふふ、でも勇敢なお姉様なら大丈夫ですね」


 クスクスと見下す視線を送ってくるマリナを見ながら"勿体無い"と言ったり"お似合い"と言ったり相変わらずマリナの言葉はいい加減だわ、なんてエレナはどうでもいい事を考えていた。


(そう、もうどうだっていい)


 例え嫁ぎ先が冷酷無慈悲、魔族の血を引いているだの、人喰いだのと噂され、悪名高いルヴァル・アルヴィン辺境伯の元であっても、行き先が最北の地バーレーで魔物が多く存在する危険な場所だとしても、もはやエレナにとってはどうでもいい事だった。


「明日にはバーレーに向かってもらう」


 父親にそう言われたエレナはもう一度だけ自分に注がれる4人分の視線を目に留めて、静かに頷き了承を告げた。


「話は以上だ。下がれ」


 エレナは立ち上がり、淑女らしく礼をすると静かに部屋から下がろうとする。


「……エレナ」


 心配そうにエリオットが自分を呼ぶ声に一瞬後ろ髪を引かれそうになったが、エレナは聞こえないフリをした。


(いっそのこと、あの時にエリオット様と二人で死んでしまえば良かった)


 そんな事を考えて、エレナは自分で自分を嘲笑った。

 魔力回路が焼き切れて二度と歌に魔法が乗せられないことが分かった時、それでも愛していると言ってくれたエリオットはもういない。

 本当に自分にはもう何一つ残っていないのだ。

 なら、ここにいる理由ももはやない。


(ここから立ち去れるなら、結婚相手がどんな人でも、嫁ぎ先がどんな場所でも構わないわ)


 エレナはゆっくりとした足取りで歩き出す。


(でも叶うなら、私を殺す時は一思いに楽にさせてくれる人なら嬉しいな)


 そんな事を考えながら、エレナは自室に戻り使い古された小さなカバンに荷造りをした。

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