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アンチ・スマートフォン  作者: 岡倉桜紅
1/13

1 赤信号

『OK、今夜11時ね。それじゃまたね』

『うん!祐樹くん、楽しみにしてるね♡』

ネットで知り合ったその女性とは、交際を始めて2か月となる。お互い、暇さえあればアプリを使ってメッセージを送りあう仲だった。甘い言葉に思わず頬が思い切りゆるみ、犬丸祐樹(いぬまる ゆうき)は慌てて顔を取り繕う。犬丸が立つ、道路を挟んだ先の信号はまだ赤だった。犬丸はにやにやした自分の顔を見られてしまったかと少し視線を走らせるが、横に立つ昼休み中らしきサラリーマン二人はおしゃべりをしていたし、後ろにいた同じ大学の女子はスマホを見ていた。道を挟んだ向かいに立っているのは若い女性一人だったが、おそらく彼女にはこちらの顔の細部までは見えていないだろう。

今日はたまたま犬丸の通う大学の午前中の授業が休講になり、午後からの登校となった。暑さを増してきた初夏の太陽光が、犬丸の頭のてっぺんを焼いている。大学に着いたら一番エアコンの風が当たりやすい席を取ろう、と犬丸は考える。

また手元がバイブレーションで震えて目を落とすと、『今日も愛してるよ♡』とメッセージだ。

『僕もだよ』と打ち込んで、送信ボタンに親指を乗せようとして思いとどまる。そして、少し悩んだ末に『僕も愛してるよ』と打ち直した。

送信ボタンに親指が触れる前にそれは起こった。一瞬、何が起こったのかわからなかった。親指は空を切り、手のひらに着地する。右手の中からスマホが消失し、次に視界にとらえたときにはバキッと嫌な音を立ててアスファルトに激突するところだった。

「えっ」

顔を上げると、目の前に一人の女性が立っていた。先ほど、道の反対側で信号を待っていた女性だった。いつのまにか信号は青になっていたらしい。犬丸よりもいくつか年上のように見えた。明るい茶髪をバンスクリップでまとめ、オーバーサイズのぶかぶかで真っ白なパーカーを着て、ダメージ加工のスキニージーンズを履き、高いヒールのついたサンダルを履いていた。その手は今まさに何かを叩き落とした後かのように振り下ろされ、ピンク色の口紅を塗った形のいい唇には、勝ち誇ったような笑みが浮かんでいる。犬丸の記憶に問い合わせても見覚えはなく、完全に初対面の女性だった。

状況がとっさには呑み込めずに、視線を落ちたスマホと目の前の女性の間で行ったり来たりさせていると、女性は何を思ったか、急にその細い足を振り上げると、落ちている犬丸のスマホに向かって振り下ろした。サンダルの細くて凶器じみたヒールの部分が、液晶に突き刺さった。

ヒュッっと喉の奥で変な音が鳴る。女性がもう一度笑顔で足を振り上げたところで犬丸は我に返った。

「ちょ、ちょっと待ってください、何するんですか!」

犬丸が叫び声をあげると、女性は少し小首をかしげ、犬丸を見たが、躊躇せずに足を振り下ろした。液晶を守る強化ガラスの保護シールが砕けて細かい破片が飛ぶのがかすかに見える。

「何って、破壊だけど」

さも当然、と言った様子で女性はまたも足を振り上げる。

「やめてください!それは僕のスマホです!あの、あ!警察呼びますよ!」

足が振り下ろされる。

「あああ!」

犬丸はしゃがみ込んでスマホを拾い上げる。このスマホの中には大切な彼女とのメッセージのやりとりに始まり、いつもよく見る動画サービスのアプリ、SNS、大学で使うツールやら、電車に乗るためのアプリ、果てには電子マネーも入っているのだ。これが壊れたら生活が文字通り一日ともたない。ヒールは表面に張ってあった保護シールのみならず、しっかりと本体の液晶を貫いていた。電源ボタンを押すも、うんともすんとも言わない。

「ハハハハハハハ!!」

女性が急に高笑いを始めて犬丸は涙目になりながら彼女を見上げる。女性は犬丸の手からスマホを強引に奪い取り、力いっぱいアスファルトにたたきつけると、狂ったように笑いながらそれを踏みつけた。

「ひ、ひぃ、や、やめてください!」

犬丸は女性の足に縋りついたが、女性は踏みつけるのをやめない。目は瞳孔がかっぴらいて完全に狂気である。口元には恍惚とした笑みが浮かんでいる。

まもなく犬丸のスマホは、犬丸の目の前で真っ二つになった。女性はようやく足の動きを止める。そして、だぼだぼのパーカーの袖で額の汗をさわやかに拭うと、先ほどまでの表情からは想像もできないほど穏やかな顔で言った。

「ふぅ、すっきりした」

犬丸はもはや鉄クズとなったスマホの残骸を震える手でかき集める。

「ありがと。それじゃ」

女性は袖の中に隠れた手をヒラヒラと振って去っていこうとする。

「……いや、待ってください」

女性はきょとんとした無邪気な顔で振り返る。犬丸は両手でスマホの残骸を掬い上げると立ち上がる。

「これ、弁償してください。人の物を壊したら器物破損ですよね」

自分でも驚くほどドスの効いた低い声が出た。自分の中でむくむくと怒りの感情が沸き上がって来るのがわかる。なぜ僕が急に、見知らぬ女性に高笑いされながら、生活必需品かつ貴重品を破壊されねばならないのか。どう考えても納得がいかない。女性はヒールのせいか僕よりも数センチ背が高く、多少見上げる格好になるが、構わず詰め寄る。女性は不安げに瞳を揺らし、小首をかしげる。

「それって悪いことなの?」

かっと頭に血が上った。

「悪いに決まってるだろ!あんたは道端で急に会った人に自分の物を壊されて平気でいられるのかよ!スマホがなくちゃいろんな不便があるんだよ!いや、スマホがなくちゃなんにもできないよ!」

女性はフッと鼻息を漏らした。

「君はスマホがなくちゃなんにもできないんだ?」

「当たり前だろ!電車にも乗れないし、物も買えない。大学でも授業で必要なんだよ!」

女性は犬丸にぐっと顔を近づける。かすかに香水の匂いがする。

「お前は馬鹿だ」

「は?」

「お前はたった一つのちっぽけな()()がなくちゃなんにもできないほど依存しちまってるんだから、私はその依存から抜け出す手助けをしたんだ。感謝こそすれ、責められるいわれはないな。スマホがなくちゃなんにもできない?はぁ?馬鹿か。スマホなんかなくたって電車に乗れるし、物も買える。授業はまじめに人の話を聞け」

女性は透き通るような高い声とは似合わない、ぶっきらぼうな口調でふてぶてしくそう言った。犬丸は女性の物言いに唖然として口をパクパクさせる。もう何から言ったらいいかわからない。目の前のこの人は完全に頭がおかしいのだ。人の物を無断で破壊して、それをいいことをしたと開き直るのか?余計なお世話にもほどがある。

「そういうことだ。それでもまだ私から金をむしり取りたいのなら、もっとちゃんとした頼み方ってのがあるだろう」

「な、なにを、偉そうに……!」

「少なくともスマホ中毒者のお前らよりは偉いね。それじゃ」

「け、警察呼びますよ」

「板一枚が割れたくらいで?おおげさだね」

女性はすたすたと歩いていく。大学から出てきたのであろうカップルが一組、歩道の真ん中で砕けたスマホを持って茫然としている横をひそひそ指をさしながら通って行った。犬丸はふと、チャットの途中だった彼女のことを思い出す。『僕も愛してるよ』と送ろうとして、それは叶わなくなったんだっけ。

気付けば犬丸は夢中で女性を走って追いかけ、その腕をつかんでいた。二人は時間制の駐車場にいた。

「なかなかしつこいね」

「お願いします。弁償してください」

犬丸は頭を下げた。なぜ自分が頭を下げてお願いしなくてはならないのかはわからなかったが、すぐにメッセージを彼女に送るためには、すぐに新しいスマホを買えるほどのお金が必要だった。不幸なことに犬丸の口座には一銭も入っていなかった。両親は月に一度数万円ほど仕送りをしてくれてはいるが、それも生活費には到底足りない微々たる量で、そのため、犬丸は基本的に困窮していた。自力でスマホ代を今すぐ建て替えることは不可能だった。

「今すぐ新しいスマホを買ってくれたらこのことは警察には言いませんから。お願いだから新しいスマホを」

女性は歩くのをやめて立ち止った。

「いいよ。そんなに新しいのが欲しいなら買ってあげる」

あっさり女性は言った。

「でも、それには条件がある」

女性は自分の腕をつかんでいる犬丸の手を引きはがし、両手をパーカーのポケットに入れた。

「私はスマホというものが世界で一番大嫌いだ。この世からすべてのスマホを抹消してやりたいと思ってる」

「……そりゃ、トガった思想ですね」

「スマホをこの世から消すにはどうしたらいいか?革命というのは、何事もまずは小さくて面倒で泥臭いことから始めなくてはならないと決まってる。すなわち、スマホ絶滅の最初の一歩は泥臭い。君にはその泥臭い仕事をやってもらいたいんだ」

「それをやれば必ず新しいスマホをくれるんですね」

女性は目を細め、嫌悪感たっぷりに犬丸を見る。

「スマホがないと気性が荒くなって禁断症状が出る辺りを見ると、スマホ中毒者もヤク中もそう変わらない」

「僕は中毒じゃありません。ただ、自分の所有物を壊されたことに対して憤っている善良な一般の市民です」

「さて、それはどうかな。中毒者は自分が中毒者だと認めたがらないものだよ。今にブルーライトが恋しくなって指先が震えだすさ」

「震えてません」

「私の仕事に協力してくれるな」

「革命活動ですか?まあ、いいですよ。だって、それ以外仕方がないでしょう」

女性は頷いた。

「うん。これはずいぶん出来上がった脳をしてる」

「なんですか?さあ、なんでも言いつけてみてくださいよ。もちろん、さっきみたいに器物損壊をさせるとか以外の仕事だけですよ。法に触れない範囲で」

女性は曖昧に頷き、ポケットから車のキーを取り出した。

「移動しよう。この住所まで」

女性は軽のワゴンの助手席に乗り込み、東京都内のマンションの住所を言った。

「どうしたの?乗らないの?もしかして、免許持ってない?」

犬丸は躊躇する。どう考えてもまともじゃない、初対面の女と車でマンションに向かうなど、冷静に考えれば正気の沙汰ではなかった。しかし、現在犬丸は冷静ではなかった。早くスマホを得るためには、一刻も早くこの女の望む仕事とやらを片付けることしか選択肢が思いつかず、とにかく早く仕事をしてしまいたいという気持ちが頭の中いっぱいに充満していた。早く、彼女に連絡をしたい。

犬丸は運転席に勢いよく腰掛けると、キーをさしてエンジンを点けた。横で女性が満足気に口の端をにんまりと上げて笑うのが見えたが、気にせず発進する。

駐車場を出る。駐車場を出る直前で、女性が口を開いた。

「まあ、実を言うと、君のスマホは壊れてないし、ここにちゃんとあるんだけどね」

「は?」

助手席の方を見ると、女性が犬丸のスマホ、犬丸の割れて真っ二つになっていないスマホを掲げていた。奇妙な手品を見ているようだった。

「カノジョさんとずいぶんお熱いみたいだね。あ、僕も愛してるよのメッセージはさっき私が送っておいてあげたから心配しないでね」

「な、なんで持ってるんですか?!さっき粉々に割ったのに」

犬丸は取り乱して叫ぶ。女性はわざとらしく首をひねる。

「このカノジョさんのつぶやきのアカウントを見つけたけど、なかなかすごいことつぶやいてるみたいだね」

彼女がつぶやきのアプリをやっているとは知らなかった。当然、そのアカウントで彼女が何を発信しているのかは彼氏として気になるところだった。女性の持つスマホを覗き込む。その時、何かが車体にぶつかるような鈍い音がした。

「あ」

女性が前を見て口を開ける。慌てて視線をフロントに戻す。フロントガラスとワイパーにかけて赤い液体のしぶきが散っていた。

自分の顔からさっと血の気が引いていくのがわかった。間違いない。誰かを轢いてしまったのだ。僕が、自分の手で。スマホの画面に気を取られてよそ見をしたがばっかりに、僕は事故を起こし、人を傷つけてしまった。

女性がドアを開けて前の様子を確認しに飛び出していく。犬丸はハンドルを握ったまま動けなかった。冷や汗が体中から噴き出してくる。

女性が助手席に戻って来る。

「死んでるね。救急車は無駄」

その手には、真っ赤な血がべったりとついていた。女性はグローブボックスを開けてウエットティッシュで手を拭く。そこに通行人が通りかかり、ぎょっと目をむいた。犬丸と通行人の男と目が合う。頭の中が真っ白になる。通行人の男はスマホを取り出して耳に当てる。

「で、どうするの」

女性は聞く。

「どうするって、何をですか」

パニックになりながら犬丸は悲鳴のように返す。

「警察が来ちゃう」

自分の呼吸が短く浅くなるのがわかる。車内に呼吸の音が満ちる。

「落ち着いてよ。私は黙っててあげる」

「あなたが黙っていたってどうせばれますよ」

女性は首を小さく傾ける。

「それはどうかな」

女性は助手席からふいに自分の足を伸ばし、犬丸の靴の上からアクセルを踏み込んだ。車は急発進し、救急車だか警察に電話していた通行人の男を跳ね飛ばす。スニーカーにヒールがめり込むのを感じる。車は駐車場から激しく尻を振りながら飛び出した。

「ぜんそくぜんしーん!」

女性はケタケタ笑いながら軽やかに言った。道路に飛び出してしまったからには後ろの車の通行の邪魔をするわけにはいかない。犬丸は必死にハンドルを切って、走ってきたトラックとの衝突を間一髪で回避する。揺れる車内で女性のはしゃいだ声が響く。クラクションが鳴る。車は蛇行しながらもなんとか正しい車線にたどり着く。その直後、背後からパトカーのサイレンが聞こえてきた。

「ちょっと判断が遅かったみたいだね」

女性は体をひねって後ろを見る。

『そこのワゴン!血の付いたワゴン!止まりなさい!』

「運転代って」

女性は言って、犬丸を押しのけるようにして運転席を乗っ取った。その口元にはうっすらと笑みが浮かび、顔には狂気の色が差している。女性はサンダルを脱ぐと、後部座席に放り投げ、アクセルを思い切り踏み込んだ。体がシートに押し付けられる。二車線の、普通よりは少し太めの道路の昼時だが、車通りはかなりある。車は蛇行しながら走っている車の間を抜けていく。

『止まりなさい!おい!止まれっつてんのが聞こえないか!』

犬丸が振り返ると、パトカーの横の窓から、筋骨隆々の若い警察官が、助手席から外に身を乗り出すようにしてマイクに怒鳴っている。

「マリオカートで鍛えたドライビングテクニックが発揮される時がくるとはね」

若い警察官は拳銃を取り出して構える。

「撃ってきますよ!」

女性はちらりとバックミラーでそれを見ると、いきなりハンドルを切り、急角度でビルとビルの間の路地へと入って行く。タイヤのゴムが焼ける臭いがする。数秒後にパトカーも路地へと入って来る。二台は狭い道をくねくねと曲がっていく。後ろで拳銃が発砲された音がする。タイヤを狙っている。女性は小さく舌打ちをする。道はいよいよ狭くなり、車幅ぎりぎりだ。

犬丸は前方に顔を戻してヒュッと息を呑む。数十メートル先は行き止まりだ。突き当りにはゴミが積んであり、通行止めになっている。しかし女性はスピードを緩めなかった。犬丸の喉からは自然に悲鳴がほとばしる。積まれたゴミに立てかけるように木材の板が立てかけられている。車はその板の上を、まるで加速レーンを突っ走るように駆け抜けた。ふわりと内臓が宙に浮くような気持ち悪い感覚がある。直後、衝撃とともに地面に落ちる。ゴミの壁を越えていた。

目の前には穏やかに車が流れる道路が走り、その向こうには公園が見えていた。

「さて、ここからは歩こうか」

女性はそう言って何気ないしぐさでドアを開けた。


パトカーは血の付いたセダンが飛び越えた後のゴミの壁の前で停車した。助手席の若い警察官は車を降りて、ゴミの山を見上げ、舌打ちを漏らす。

「ちっ、逃したか」

「署に戻りましょうか」

ハンドルを握っていた初老の警察官は言った。若い警察官は自分の手のひらに拳をぶつけた。路地にバチンという音が響いた。

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