episode1.5
一部第五話
『上等だ』
眼前に迫って来る大きな靴底に、景色がスローになった。
食らったら、負ける───!負け、の二文字に刺激された体が咄嗟に動いた。
両手を額の前に出してガードに使い、直撃を避ける。重い衝撃、と共に手首に伝わる過負荷と痛みが、両の掌が壊れた事を示す。同時、足を跳ね上げてミサイルキックを放つがそれは躱され、二人の間に距離が開く。
「おー、あっぶねェ。」
へらへら笑う男の余裕も、あながち空元気では無いようだ───手首から先が動かない。痙攣する指に顔をしかめる。
「───It sucks。」
くるりと踵を返して走り出す。屋上から通路を下って廊下へ───そう、逃げている。
一もニもなく、不利になったと見るやプライドを捨てて逃げ回っているのだ。
「はぁァ…???」
取り残された男は、まるで失望したような表情でアメリアを追い掛けるハメになった。
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どうしたものか。
アメリアは思案していた。あの男は誰が放った刺客なのだろう。コレツィオに計画が割れた?これはないだろう。では他に誰が───?納得の行く結論はアメリアの頭の内には無い様だった。
まぁ、いい。あの男の体に聞けばいいだけだ。
アメリアは結局、先程まで授業を受けていた教室に戻って来ていた。全員避難したらしく誰も居ない教室はがらんとしている。
「ア~メリ~アちゃァ~ん、どォこでェすかァ~~……お、はっけーん♡」
教室の扉を蹴り壊す音と共に、気の抜ける声が降って来る。背後、距離はおよそ三メートル強だろう。そこにあいつが居る。そして、後頭部に感じる強烈な殺意───銃口はきっと脳髄を吹き飛ばす準備を完了しているのだろう。
ゆっくりと、アメリアは両手を挙げて降伏を示した。
「撃つ前に聞かせてよ、私は誰の意思で殺されるんだい?」
ただ、淡々と。冥土の土産に聞かせてくれと、そう頼むアメリア。
その問いを、男は鼻で笑った。
「知ってどうするッてンだ。あ、教えたら俺と付き合ってくれたり?いやァ、死体がガールフレンドってのはちょッとなァ?」
アメリアもくす、と笑う。
「───ふふ、そっか。」
「じゃ、もう撃つワ。おやすみ。」
引き金を引くのに十分な力が、あと少しで指先に───
───その時、クリスは時計塔に居た。アメリアが助けなくて良いとは言ったものの、ここで彼女を死なせるわけにはいかない。万が一を考えて、時計塔の狙撃位置に自分が陣取っていた。高倍率スコープ付きのスナイパーライフルを片手に。
クリスが覗くスコープの視野の中では、今正に”万が一”が訪れようとしていた。
もう猶予はない。男に照準を合わせて打ち抜こうと引き金に指をかけた瞬間、クリスは目を疑った。
アメリアが、スコープ越しに子供の様な無邪気な笑みを浮かべていたから。
アメリアの右手が素早くスーツの内側へ伸びる。
そんな挙動が見逃される筈はなく、引き金が引かれ同時に致命的な弾丸が頭を目掛けて───ここまで、アメリアの筋書き通りだ。
防弾チョッキ等に阻まれる確率を避けて頭部を狙うのは大方予想通り。不審な動きを阻むべく撃つと言うならば、アメリアは逆にそれを利用する。
敢えて射撃を誘発する。"動いたら撃つ"という警戒すら、掌の上───タイミングさえ分かれば、避けられる。
「私を誰の娘だと思ってるんだ?」
コレツィオの血が、アメリアの体に教えてくれたから。
最短の動作で銃弾を避ける。ひゅるる、と耳元に空を切る音を残して、弾丸は先程割れた窓の穴を丁度通り抜けて彼方へ消えていった。
そして尚も速く、避けられたと解釈する暇すら与えないかのようにアメリアは踵を返して間を詰める。
一歩、二歩…あと半歩で間合いのところで、この状況で、男は次弾の発射体制を整え終えた。アメリアに勝るとも劣らない胆力、あと半歩が間に合わない───いや、まだまだ。
銃口を急所に向ける男の顔を目掛けて、スーツの内から取り出した右手に握ったガラス片を投げる。教室に戻って真っ先に割れ窓の欠片を拾っておいたのだ。
怯んだ男の視界からガラス片が消えてすぐ、顔面に重く鋭い衝撃。
鼻っ柱にアメリアの靴底の硬い感触を感じると共に、男の意識は遠い彼方へ薄れていった。
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「大丈夫かい?すぐにでも医者に…」
「いえ、掠り傷です…大丈夫ですから。」
学校の校舎から連れ出される手錠をかけられた例の男───結局名前も素性も知らず終いだ───の後ろ姿を眺めながら、アメリアは警察官の事情徴収に応えていた。尋問する前に警察が二人を見付けて事情を聞き始めてしまった。お陰で何もわからない。
警察も優秀になった、仕事の早いことだ。
なんて心内で毒づきながらも、彼女は表面は事態を呑み込めず現実味を感じられない普通の少女を演じていた。
結局、彼らの解釈は”民間人へ無差別攻撃を行わんとした外人”程度のものらしい。警察が来たら絶望して戦意を失った、ということになった。背後でマフィアが動いていることなど知ろうはずもない。
「じゃあ、我々はこれで…」
警察官に腕を引っ張られ車に乗せられる最中、男は一度此方を振り返った。
アメリアは男ににっこりと笑って見せると、踵を返す。
すぐそこでエステラが待っていた。アメリアは声をかける。
「エステラ、帰ろう。」
「うんっ!」
柄にもなく、平穏が戻ったことに安心してしまった。
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何故、彼女は笑ったのだろう。
車に揺られながら、男───アルマ・エヴァンズは繰り返しついさっきの光景を思い出していた。
あの無邪気な笑み、その理由が解せない何を思って、どんな理由で───答えは出ない。
もう何度目かの溜息を吐く。無理解に苦しんでいる、好奇心の抑えが効かない。
「おい、鬱陶しいぞ。サイコ野郎にも悩みがあるってのか?」
警察官の一人が苛立ち混じりに皮肉をぶつけてくる。
悩み───そう、悩んでいる。しかし何を?高揚感と欲求不満、こう言うのをなんて言うのか───
恋。
唐突に閃いてしまった。
あの女は俺よりももっと、比べ物にならないほど頭が可笑しいんだ。誰にも理解されない孤高の女王、俺に微笑みかけたゴッド・マザー。
なんて、なんて───魅力的なんだ!
「く、くふッ。くひひ、ははははははァ!!!」
狂騒に驚く警官の顔面を諸手突きで叩き潰し、拳銃を奪う。車を運転する警官を撃ち殺すと、車はそのままスリップして家屋に突っ込み石壁を壊しながら横転する。
ドアを蹴破る音がして、横倒れになった車からアルマは顔を出した。
こうしちゃいられない、早く逢いに行かないと───運命の女に。