episode1.25
一部第二十五話
『天使の一触』
先程までは当たり前だった静寂が、唐突に不気味なものに変わる。
ノック音は数回鳴った後は音沙汰なく、ただ扉越しに人の気配だけが残っている。逆説、扉を叩くまでアメリア程の手練れにいっさい気配を読み取らせなかった──
次から次に立ちはだかる障害、壁の数々。アメリアはそっと微笑みを浮かべた──苦し紛れか、それとも敵への敬意か。
「クリス、律義にノックなんかしなくていいのに。」
アメリアの選択は、油断を装うことだった。クリスは”律義”なのだから──扉の向こうの相手がクリスであるならば、扉を叩く前に報告を何かしら入れる筈なのだ。十中八九、扉の向こうの相手は敵だろう、少なくともクリスではない。騒ぎを聞き迎えに来たジョシュアと言う線もあるが、その場合でもやることは同じ──いや、少し違うか。
彼はエステラの父だ。守るべき、私に残された最後の”日常”を自らの手で壊すつもりはない。利用はしても、危害は最大限加えるまい。
腰に巻かれたベルトに手を伸ばすと、ほつれた縫い目を引っ張り一部を紐解く。すると、重ね合わされた牛皮の隙間から親指ほどの刃渡りのプッシュダガーナイフが飛び出した。
ナイフのリングに人差し指を通し、扉の前へ。敢えて靴音は高く鳴らし、息遣いも普段の様に…ゆっくり、ドアノブに指先を──
「いえ、違いますお嬢様。アルフィーです、アルフィー・ハーツ。」
気の抜ける告白は、冷めた語気とは裏腹にアメリアに衝撃を伝えた。
アルフィー・ハーツ。アムールの創立メンバーに次ぐ古参、経理を担当する幹部──幹部の中でも特別胡散臭く、特別優秀で、特別謎が深い、あのアルフィー。怜悧ながらも性別の読み取れない美しさと有能さを持ちながら、誰もが近寄ることを躊躇うさながら異邦人。
アメリアもソルジャーの世間話を小耳に挟んだことがあった──”彼(彼女?)のことを噂する時は、必ず小声で密やかに…”と。
アメリアの脳裏に過る新たな懸念の数々──計画の漏洩?事実確認?アルフィーが父の使いで来たにせよ、己の意思で来たにせよ──何方だとしても、目下最大の脅威だ。
しかし、それにしても解せない。
何故名乗ったのだろう。暗殺するつもりならば名乗る筈はない。ではアルフィーは本当に信用に値する理由を以て現れたのか……確かめる術は扉越しにはない。
そもそも、扉を開けたらそこに本当にアルフィーが居る保証すらない。良く似た声の他人がナイフを構えて待っているかもしれないのだ。
気は抜けない。扉を開けると同時に拘束する、相手が誰であろうと。
気が抜ける程ゆっくりと開く扉、開いていく隙間からアメリアのスーツの裾が覗いた瞬間──今、その刹那!
寸刻も違わぬベストのタイミングで飛び出すと同時に、記憶の中のアルフィーを目の前に投影──狙うは肩、戦闘能力をまず真っ先に奪わんと繰り出すナイフの切っ先が──
「お嬢様、成長なされましたね。」
──切り裂いたのは、人肌では無く虚空だった。
突き出した片腕には、白く細い指が添えられている。母が我が子の頬をなぞるように優しくアメリアの袖を滑った腕に、ナイフの軌道は容易く逸らされていた。
腕のすぐ真横には、アルフィーの顔がある。憂いがちな目元が静かに此方を見詰めるその様子は、相も変わらず天使のよう。
アルフィー・ハーツその人が、アメリアの初撃を軽くいなしつつそこに佇んでいた。
「…そうでしょう、アルフィー。
悪いね、貴女だという確信が持てなかったから。」
アメリアは一拍の間を置いてナイフを下ろす。
頬に伝った冷や汗を、アルフィーが目で追うのが分かる──憎たらしいが、とても抵抗できない。
最初の一触で伝わる、彼我の大きな実力差。不用意な言葉の一言だけで、最悪命すらあっさりと奪われるだろう──自信家のアメリアも、こればかりは博打に走るなど論外とさえ思った。
巧妙な心理的トリック。そもそもアメリアはアルフィーが強者であること自体想定していなかった──記憶の中の立ち姿に、コレツィオなどが漂わせるような強者の風格など一切感じられなかったから。自身の強さを隠すスキルも含めて、アルフィーの恐ろしさなのだろう。
そして、そんなどんでん返しを食らっては”戦闘続行”なんて選択肢は否応なしに──消える。
「良いのです、それも含めて成長なのですから。お嬢様はボスの愛娘、裏の世界で生きる人間としてはあれが正しい立ち居振る舞いでしょう。」
ただ淡々と述べながら、踵を返し通路を見回すアルフィー。仕留めるならば、アメリアからは視線を外している今が最適か。
今だ、今だ、今しかない──!無数のright nowが、次々にアメリアの脳裏を横切る最中。次の瞬間には隙など消えてなくなってしまうかもしれない、その想定がナイフを握る拳にもう一度力を与える。
諦めてなるものか。今、アルフィーを問い質さなくてどうする。
縛り上げ、あらゆる自由を奪い尽くしてから全てを問おう。それが最善──
「──Oi!」
アルフィーが自らの腰に後ろ手をやり、通路の向かいを見据えている──その細長い指が、腰に仕舞われた拳銃にかかっていることと、通路の向かいから聞こえた呼び声の主がジョシュアであること。その二つを、アメリアは即座に理解した。
「ここで何をしている、早く逃げるんだ……」
ジョシュアの落ち着き払った瞳に憔悴が過る。電力の落ちた暗い廊下で、彼が向き合うのは虚偽の天使。アメリアとアルフィーの双方の間で視線が彷徨うのが見て取れる──状況の解釈に戸惑っているような、それでいて何かを思い出しているような表情…
例えば、国内マフィアの指名手配リストであるとか、そう言ったものを。
MI5職員であるジョシュアの存在、そして”アムール”の幹部であるアルフィーの存在。
ジョシュアの言葉には従えない、しかしエステラの為に彼を殺させる訳には……
向き合う二人の余所で、アメリアは腰からそっとトランシーバーを取り出した。




