episode1.11
一部第十一話
『騎士道』
──揺らぐ。
何が?視界が。聴覚が。意識が──脳が、揺らいでいる。
倒れたクリスの眼球は定まらない焦点を固定しようと力むが、その余力ははるかに遠く。手足は海に沈められたかのように重い圧力が圧しかかって持ち上がらない。
眼前に誰か居る。此方に手を伸ばして──
──数日前、お嬢に質問をした。
「お嬢は何故父親がそんなに憎いのですか」と。
お嬢は此方を向いて少し笑うと、切れ長の瞳を宙に向けて言った。
「別に、憎くなんかないさ。」
「ライオンとして生きる為には、他のライオンを食い殺さないといけない──私が上に立つ為に、私の上に立つ人間は引き摺り落として蹴落とさなくちゃいけない。そこに動機なんてものは無いんだ。」
「だから私は闘うよ。ライオンに成る為にね──組織に養って貰えば一生好きに暮らせるかもしれない。でもそれは家畜の一生だ、私には我慢ならない。私は上だけを見てるから──偶々一番上に父様が居たってだけのことだよ。私は頂上を目指してる」
「だから──クリスも一番上に連れていってあげる。」
一番上に──
──意識が覚醒した瞬間、クリスの細い首には指が絡みついて、骨が折れそうなほどの力で絞め上げられていた。
ヒューゴの顔が見える。血走った眼球に無限の狂気と好奇を宿らせた、殺すべき相手。
死を前にした思考は、恐ろしいほどすっきりと冷める。目の前に居るのは敵だ。敵なのだ!敵ならば、する事は決まっている──クリスは震える腕をどうにか持ち上げると、全身全霊の力を振り絞って、ヒューゴの首筋を絞め返した。
「ぐ、ぉ”…」
くぐもった声を上げるヒューゴ。しかし体勢の不利が、二人の腕力の差が、どうにもならない現実を告げる。勝てない──
──二人じゃないと、勝てない。
クリスの手は精々ヒューゴの頭を固定しただけだ。それで十分。
破裂音が遠くで響く。
同時、先程爆発で割れた窓から飛び込んできた空を裂く弾丸が、失敗した型抜きの様にヒューゴの顔半分を綺麗に抉り取った。
ビッグ・ベンの鐘楼の上では、距離二百メートルはあろうロングスナイプを一撃で成功させたアルマが、煙を燻らせる愛銃C・S・A・Aをくるくると弄んでいた。
作戦立案はクリスからだった。クリスはアルマの傷の深さを見計らってこれを提案した──出来たら一人で倒す。駄目だったら、その時は撃てる位置まで誘導するから”ビッグ・ベンに登って待っていろ”と。
無茶ぶりも良い所の提案に、アルマは思わず頷いてしまった。
頼もしかったなんて、とても言えない。不貞腐れた笑みを浮かべるアルマの鷹の目には、死体の横でばったり倒れて安心の表情を浮かべるクリスが見えた。
クリスの小さな背中に信頼を抱いてしまった自分が居た。アメリアの有無を言わさぬ絶対的信頼に似た者があったから。
「ッたくよォ、あのチビ……嬢ちゃんみてェなことしやがッて。」
小さく吐き捨てるその表情は歯痒いようでもあり腹立たしいようでもあり、はにかんでいるようでもあった。




