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プロローグ
『祝福無き誕生祭』
因果応報。
彼の日本にはそんな言葉があると言う。
曰く、因果──自分の行った善行と悪行、そのすべては後々になって自分の運命となり帰って来るのだと。善行の分だけ得をし、悪行の分だけ損をするのが彼の国の道理であるらしい。
ならば俺には、これから想像もつかない程の艱難辛苦が襲うのだろうか。運命に翻弄されながら働いた悪の数々の清算、それがまだ始まっていないにしろ、俺はどうにも幸福すぎる。
そんなことすら思ってしまう、コレツィオ・ジャックハートの幸福で憂鬱な一日。
「……良いのかよゥ、神様。俺ァこんな幸せでいいのかい。マフィアだぞ、俺は……」
「弱気だなぁ、珍しく。」
傍らでダヴィデが苦笑いした。
「神なんぞより妻に祈れ、無事で居られるようにな。」
アレクサンドラは相変わらず、冷徹で優しい。
彼ら二人はいつもそうだ。二人が各々のやり方で、心に寄り添ってくれる。だからこそここまで築き上げられたのだ、マフィアの首領としての地位…イギリスを本拠地とし、移民政策の波に乗ってアメリカ大陸にパイプを確保し──そして、世界を統べるマフィアの一つにまで。
今日は誕生祭。これから生まれる命が、自分の人生の一つの証になる。惚れた女との恋の証になる。世界有数のユーロマフィア、”アムール”の首領たるコレツィオ・ジャックハートと、その妻のもとに。
今、悶々と大きな体躯を屈めて座っている三人…コレツィオとダヴィデ、アレクサンドラは病院の一室の扉の前に居た。7フィートを超える体躯のコレツィオを、6.5フィート程度のダヴィデと6フィートのアレクサンドラが挟んでいる。帽子に黒外套、ラフなシャツ、皺一つないスーツと三人揃って簡素な通路に似合わない風体だ。
目と鼻の先にある部屋から漂う緊張感は、幸福に勝るとも劣らぬ不安を呼び起こす。それがどれだけ偉大な行為か、コレツィオは体感できずとも知っていた──この世の女の中で誰よりも高潔で、誰よりも美しい彼女にすら、その苦痛は避けられない。
無性に祈りたくなって、コレツィオは目を閉じ俯いた。
「どうか、無事に……」
神に祈ろうとして、止める。祈るなら妻に、だ。唯一この世で神より偉大な女。
「俺のKing、頼むぜ──」
──ふと、泣き声が聞こえた。
コレツィオは咄嗟に顔を上げる。ダヴィデもアレクサンドラも、同じように──彼らもまた、俯いて心の中で祈っていたのだろう。
扉が開く。看護師が、待ち侘びた一言をゆっくり紡ぐ。
生まれた。
飛び上がるように立ち上がって、看護師を押し退けて部屋へ。
泣き声とベッドの上で肩を上下させる妻、息遣い──腕の中には、小さな生き物が。
「あぁ、あぁ……」
手を伸ばし、触れる。すると、泣き声はぴたりと止み、円らな黒瞳が此方を見据えた。
優しく抱き上げる。母の手から、父の手へ。
「この子は、アメリア……アメリア・ジャックハート。あなたの子供──」
可憐なその顔立ちは、母に良く似た美しい少女に育つ予感を湛えている。
「──あなたは、私に沢山のものをくれたから。だから、お返し…プレゼントよ、最初で最後の…」
枯れかけた声が紡ぐ言葉に、柄にも無くコレツィオは涙を滲ませた。
神からの祝福無き、マフィアの誕生祭。しかし誰もが表情に湛える感情には一抹の不安すら無く、無法者たちの愛を受けて一つの命が生まれた。
アメリア・ジャックハート誕生の日。この日は誰にとっても、未知の物語への幕開けだった。
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「なァ、エメよう。俺ァ自分が正しいことをしてきた、なんて言うつもりはねぇよ。」
塵の混じった熱風が肌を刺す。決戦の地、オレルアン──後の世でマフィア史でも最大と語られる事になる二大抗争の一つ、裏社会の趨勢が覆った革命の日。
空気を歪ます炎と地平線から響く爆発音は、向き合う二人には届かない。
マフィア全盛の世を造り上げた組織、”アムール”の長、コレツィオ・ジャックハート。相対するは、その娘──アメリア・ジャックハート。
辺りの音に掻き消されない、芯の通った声でコレツィオは静かに語る。
「分からねぇ。良く分からねぇよ、俺には──」
何処か、悲しいような声音。その体躯に見合わない台詞が、今はただ静かに響く。
相対し、認め、殺し合う。血濡れた惨劇を燃え盛る舞台で演じるのは、実の父と娘。
アメリアは腰の拳銃を抜いた。
「私は分かってるよ、父様。」
黒い銃身はゆっくりと持ち上げられ、狙いが定まる。実の父親、愛すべき父の眉間に。
「私はあなたが父親でよかった、私の根底にある誇りはあなたがくれたものだから。
分かってるんだ。私は世界一尊敬できる父親のもとに生まれた、世界一幸せな娘だって。」
引き金に指がかかる。アメリアの美しい出で立ちからは、殺意など微塵も感じられない。
「父様、あなたは私の──きっと、私以外の誰かにとっても──英雄に、違いないんだ。」
彼女の短い黒髪が熱風に靡いた刹那。誰にも、コレツィオにも聞こえないような微かな声が、雑音の内でその艶やかな唇から漏れた。
引き金にかかった指が、静かに力む。
「──英雄を殺さなければ、魔王にはなれないから。」