始まりの、その前夜
久しぶりに実家に帰省すると、母の張り切った料理が食卓に並ぶ。
男の子じゃないんだから食事管理くらいきちんと出来ているのに、やはりちゃんと食べているか心配なのだろう。何かと栄養やボリュームのある料理がテーブルの上を埋め尽くしていた。
唐揚げ、ハンバーグ、サーモンとパプリカのマリネ、野菜たっぷり味噌汁、五目ご飯。
まさに部活帰りで食べ盛りの男子高校生が欲する献立だ。
それでもせっかく作ってくれた料理を残すわけにもいかず、履いていたベルトの穴を二つ緩めるまでお腹に詰め込んだ。
帰省初日だから、張り切ったのだと思いたい。
でないと明後日から始まる薔薇の市の期間中、ずっとこの量を食べる事になってしまう。
実家である暦ノ旅館は今日から薔薇の市が終えるまでの八日間、繁忙期を迎えている。
今日はまだ薔薇の市前日なだけあり、落ち着いている方だが、それでも前乗りして泊まりに来る観光客の姿もちらほら見られていた。
けれど明日になれば、今日の比じゃない位のお客様が来る事になっている。
見せてもらった予約台帳は、空欄が無いくらいにびっしりと埋まっていた。
暦 穂乃花は、実家である暦ノ旅館の手伝いをする為に帰省して来たのだ。
味の濃いものを食べたせいか、夜中に喉が乾き目が覚めてしまった。
台所で水を飲もうと暗い廊下を歩いていると、祖母の部屋から灯りが漏れている事に気がついた。
間もなく日付が変わろうかという時間帯だ。祖母はいつもなら二十一時には眠りに着いているはずなのに。
穂乃花は少し心配になり、そっと襖を開けて中を覗いた。
電気を消し忘れて眠ているなら、消してあげればそれでいい。
でも、もし起きているのなら。
寝れないのであれば。
二ヶ月前に祖父の辰之助が亡くなり、ようやく四十九日を終えたばかりだ。
何十年も連れ添った相手が突然居なくなってしまうと言うのは、どれ程の事なのか。
穂乃花にその気持ちはまだ分からない。
祖母は家族の前では変わらずにいるが、一人部屋にいる時は何を考えて過ごしているのだろう。
いつも二人、布団を揃えて寝ていた寝室で今は一人。
祖父が亡くなってから今日まで過ごした夜は、寂しくなかっただろうか。
一組だけ敷かれた布団の中に、祖母の姿はなかった。
視線を上げ部屋を見回すと、仏壇の前で座っている祖母の姿が目に飛び込んできた。
心臓がドキリと大きく脈打った。
襖に手を掛けたままその場を動けずにいると、声が聞こえてきた。
私に気付いて話し掛けているのではない。
手元にある何かを見ながら、祖父の遺影に向かい話しているようだった。
「もうすぐ、薔薇の市ですね。…辰之助さんは、私が薔薇の市へ行かない理由を聞かなかったけれど、知っていましたよね。だってあの頃、塞ぎ込んでいた私の傍にずっと居てくれたのですから。この手紙も、私の事を思って書いてくれていたんですね。ありがとう、辰之助さん」
そう言いながら、手元にある物を大切そうに抱え込んだ。
その背中がすごく寂しそうで、私は思わず部屋に飛び込んでいた。
泣いていたらどうしようかとも思ったが、振り向いた祖母の顔は驚いてはいたが、涙で濡れてはいなかった。
「ほのちゃん、どうしたんだい?」
祖母は私の事をほのちゃんと呼ぶ。
祖母の声は陽の光をたっぷり含んだふかふかの羽毛みたいに優しくて、まるで包み込まれるように呼ばれるのが、私は大好きだった。
だけど今は少しだけ、夜露に濡れてしまったように悲しい響きを含んでいた。
「部屋の灯りが着いていたから、消し忘れたのかと思って…。ごめん、おばあちゃんが話していたの聞いちゃった…」
勢いで入って来たはいいが、なんと言っていいかのか言葉に詰まってしまった。
──穂乃花は思い立ったらすぐ行動してしまうんだから、気を付けないさい。
母から再三言われていてる言葉だ。
それでも今に至るまで全く治っていない。これはもう、性分なのだと諦めている。
だからこそ、ここで引く訳にはいかないと思った。
だって、祖母の悲しい声は聞きたくないから。
「おばあちゃん、悩んでいたり困っている事があるなら私に話してみて。私、おばあちゃんの力になりたいの!」
深夜零時五分。日付は変わり、薔薇の市を明日に控えていた。
夜の帳は降り、花も木も眠りに着いたこの時に私達の計画は始まった。
祖母から見せて貰った祖父の手紙は、思いやりと愛で溢れていた。
心から祖母の事を大切にしていたのだと伝わって来る。
だけど一つだけ。手紙の最後に「遠慮する事はないんだよ。薔薇の市へ行っておいで」そう書かれていた。
確かに私は、祖母が薔薇の市へ行ったところを一度も見た事がない。
でもそれは行かないんじゃなくて、旅館が忙しくて行けないのだとばかり思っていた。
祖母が言っていた、薔薇の市へ行かない理由。
きっとそれが、祖母の心に刺さった棘なのだ。
読み終えた手紙を祖母に渡すと「ほのちゃんは、この旅館を継ぎたいと思うかい?」と聞かれた。
唐突な質問に驚きはしたが、答えは決まっていた。
「もちろん。私、暦ノ旅館が大好きよ」
だから今も大学で、経営学や語学を学んでいる最中なのだ。
私の言葉を聞いた祖母は「ありがとう」と微笑んだ。
そして「私も暦ノ旅館が好きよ。だけど昔の私は、この旅館の事が少し嫌いだったの…」
そう言うと祖母は、ゆっくりとアルバムのページを捲るように、私に話してくれた。
暦契子と種守孝枝の大切な思い出を。
祖母が抱えていたものは祖父からの手紙だけではなかった。
薔薇の市のパンフレット。
開かれていた一日目参加店舗のページに、ホワイトローズ種守。生産者、種守孝枝と書かれているのを見つけた。
「おばあちゃん、薔薇の市へ行こう。孝枝さんに会いに行こうよ!おじいちゃんが手紙に書いた最後の言葉って、そういう事でしょ」
けれど祖母は、首を縦には振らなかった。
「いいの。もうこんなおばあちゃんになってしまったもの。きっと孝枝さんはあの頃の事なんて覚えていないし、私だって分からないわ」
確かに祖母が孝枝と会っていたのは、今の私の歳よりも若い時だ。しかもほんの短い期間。
それでも、諦める事は出来なかった。
「だったら、手紙を書かない?孝枝さんとの思い出を書いて送るの。忘れていなければおばあちゃんからだって気付いてくれるし、もし忘れていたとしても手紙を見て思い出してくれるかもしれないよ!」
私は必死だった。
すると祖母は、口元に手を持っていったかと思うと「ふふふっ」と笑い出した。
そして「何だか、あの頃やっていた悪戯をしているみたい」と楽しそうに言った。
そうして数秒の間を置き「分かったわ、やりましょう」と、いつもの祖母の明るい声が返ってきた。
それから二人で、手紙の内容や手渡す方法を考えた。
普通に渡したのでは面白くないと言う祖母は、何だかいつもより若く見えて、それが凄く可愛かった。
気付けば外は朝ぼらけが訪れ、花や木が目覚め始めていた。