最後の手紙
「いらっしゃいませ。どうぞごゆっくりご覧下さいませ」
司は朝から何度目かになる、その言葉を口にした。
最初は恥ずかしさからか尻窄みになっていた言葉も、今では店内全体に届くほど出せるようになっていた。
薔薇の市五日目。今日からの三日間は週末という事もあり、かなりの来場者数が期待されていた。
しかも朝の天気予報で、今日から三日間は暖かく過ごしやすい気温になるでしょうと言っていたので、昨日まで降っていた雨で出られなかった人もこの三日間で出てくるだろう。
いや、正確には「過ごしやすい」ではなく「しゅごしやすい」だ。
甘噛みなんかじゃなく、盛大に噛む所を久しぶりに見た気がする。
思わず笑ってしまう位の噛みっぷりに、新人アナウンサーは顔を赤らめていたが、俺は朝から少し元気が貰えたような気がした。
いつもなら朝食を食べながら見ている天気予報も、今日はきっちりと支度を整えてから見ていた。
多くの来場者数が期待されるという事は、それだけ多く薔薇が売れる可能性があるという事だ。だから早めに家を出て、在庫分を確かめておく必要があったのだ。
昨日は、雨が上がってから一気に人が増えた。
空に架かった虹と薔薇を一緒に写真に収めようと、そこかしこでカメラや携帯を構えている人が特に多かった気がする。
俺も坂の上で龍二と別れた後すぐにホワイトローズに戻り、じいちゃんと一緒に働いた。
接客や力仕事は俺が担当し、じいちゃんには薔薇の管理と専門的な事を聞かれた時だけ対応してもらっていた。
俺なんかより薔薇に詳しく生産者であるじいちゃんの話は、傍で聞いていた俺でも買いたくなるほど興味を唆られる内容ばかりだった。
その為か、この日の午後の売上は今までの中で一番良いものとなった。
俺にとってじいちゃんは尊敬する師匠であり、目標なのだ。
大学を卒業した後、どんな職業に就きたいかなんてまだ分からない。
それでもじいちゃんのように、植物と共に生きる人生を送りたいと思っている。
じいちゃんはいつも語りかけるように、薔薇や庭の植物の世話をしている。技術や知識が必要なのは勿論だが、それだけじゃない。植物を好きな気持ちがきっと伝わって、あんなに立派で綺麗な薔薇が育つのだと思う。
こんな実験を聞いた事がある。
二つの同じ種類の植物を、日射量、水量、肥料の量などを同条件にして学校に設置する。
片方の植物には「優しく、愛のある言葉」をかけ、もう片方の植物には「悪口などのネガティブな言葉」を浴びせかける。
それを三十日間続ける。すると、植物の成長結果は歴然となったのだ。
ネガティブな言葉をかけられ続けた植物は萎れてしまったのに対し、愛のある言葉をかけられ続けた植物は生き生きと育っていたのだ。
これが本当に言葉の力によるものなのか事実は定かではないが、俺はこれが真実だと思っている。
夢見がちだと思われるのが嫌で誰にも言った事はないが、植物にだってきっと心はある。
そしてこちらが語りかけ愛情を傾けた分だけ、綺麗な花や立派な実をつける事で語り返してくれるのだと。
薔薇の市五日目は当初の期待通り、かなりの賑わいをみせていた。
早めに行っていつもより多く準備した分の薔薇も夕方には全て完売して、観賞用の薔薇でもいいから欲しいと言われた程だった。
さすがに観賞用でお金を取るのは悪いので、最後の客だった事もあり無料で渡してしまった。
きっとじいちゃんならそうするだろうと思ったからだ。
そしてそのまま店を閉め、俺は急ぎ足でステインローズへと向かった。
昨日龍二と作った薔薇を取りに行くためだ。
ステインローズへ着くと、閉店作業の真っ最中だった。
「藍川さん、こんばんは。すみません、遅くなってしまって」
「司くん、いらっしゃい。大丈夫よ。今日は人がたくさん来てたから、お店大変だったでしょう。お疲れ様」
ステインローズの店内を見ると、たくさんの白い薔薇が色とりどりの水に浸かっていた。
来場者のほとんどが観光客で日帰りで来る人も多いから、作った薔薇を持ち帰った分も考えるとかなりの客数が来ていた事が想像された。
「藍川さんもお疲れ様でした。今日は大変でしたね」
「今日から最終日まではずっとこんな感じよ。司くんはお店任されるの初めてなんだっけ?」
「そうです」
「あと二日、お互いこの忙しさを乗り切りましょう」
藍川さんは両手の拳を握りガッツポーズをして見せた。
「はい、頑張ります!」
俺も同じようにガッツポーズを返した。
それから藍川さんは店内に入り、昨日作った薔薇を二つ持って来てくれた。
一つは俺の作った緑と黄色の薔薇。思ったよりもずっと綺麗に色が出ていて、知らなければ生花とは思えないほど、良い意味で作り物じみていた。
そしてもう一つ。龍二が作ったレインボーローズ。
昨日見た虹のように綺麗な七色に染まった薔薇は、こちらもまるで現実味がなく、とても幻想的だった。
「二つとも、とっても綺麗に染まっているわね」
そう嬉しそうに言う藍川さんに「はい。とっても綺麗です」と俺も嬉しくてつい大きな声で返していた。
藍川さんは二つの薔薇を水の入ったカップごと、持ち帰り用の透明なビニール袋に入れてくれた。
カップの中の水は、既に色付きではなく透明な水に変わっていた。
色が染みれば色水に漬けておかなくても大丈夫なようで、それぞれ一つのカップに裂かれた茎が収まっていた。
家に持ち帰ったら綺麗に切り揃えてやろう。
それに、じいちゃんにも見てもらいたかった。
俺は藍川さんにお礼を言い、ステインローズをあとにした。
一旦店に戻り、残っていた閉店作業と明日の準備までなんとかやりきった。それが終える頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
開店してから一度も手にしなかった携帯の画面を見て、思わず「うわぁ」と低い声が漏れ出た。
時刻はいつの間にか二十時を回っていた。
薔薇の市自体は十八時で終了だから、藍川さんの店に薔薇を取りに行ったり、店での作業をしている内に二時間も経過していたのだ。
「そういえば、今日は手紙来なかったな」
朝から忙しさのあまり、今まで手紙の事をすっかり失念していた。
薔薇の市初日に一通目。三日目に二通目。それならば今日辺り、また手紙が届くのではないかと予想していたのに。
暦ノ旅館の一人娘、暦穂乃花さんからの手紙。
未だにその目的は分からないままだが、この二通で終わりだとはどうしても思えなかった。
わざわざ人に手渡してまで届けるくらいだから、何かしら目的があっての事だろう。
泥沼に嵌っている感覚からは抜け出せていないが、安心した事もある。それは手紙の差出人が女子大学生だと聞かされたからだ。
龍二が言ったようにラブレターとは思わないが、歳が近いという事もあり今まで少なからず抱いていた恐怖はなくなった。
それに、いざとなれば暦ノ旅館へ行けば良いのだから。
そう考えると気持ちも楽になる。寧ろ次の手紙が楽しみだなんて気持ちも湧いてきていた。
そんな俺の期待とは裏腹に、次の日も手紙は届かなかった。
薔薇の市六日目の夜。俺はベットの上で両手両足を広げ倒れ込んでいた。
藍川さんの言っていた通り、今日も朝から目が回るほどの人が訪れ続け、体力も精神力も限界だった。
龍二から電話が掛かってきたのはそんな時だった。
このまま目を閉じれば三秒で夢の世界へ飛び込める自信があったのに、それは少しの間お預けとなった。
通話ボタンをスライドし携帯を耳に当てた。
「もしもし」と少し掠れ気味の声を出すと「よう!なんだ、寝てたか?」と言葉が返ってきた。
「あと数秒電話が遅かったら、寝てたとこだよ」
少し嫌味っぽく言ってみたが「じゃあナイスタイミングだったな」なんてニヤけた声が返ってきた。
反論する気力も起きず「で、どうしたんだよ」と素っ気なく聞き返す。
「冷てぇーな。せっかく重大な事実に気づいたから連絡してやったのに!」
やや興奮気味な声に「重大な事実?」と聞き返した。
「そう!重大な事実!」
勿体つけるような物言いに少しやきもきしながら「一体なんだよ」と次の言葉を促した。すると。
「実はさ…」
手紙の差出人の正体の種明かしをした時のように、たっぷりと時間をかけて出てきた言葉。
それは確かに、俺が見落としていた「重大な事実」だった。
薔薇にまつわる神話はいくつかある。
その中でも有名なものは、愛と美の女神アフロディーテを象徴とする花が薔薇であるという話だ。
海の神により絶世の美女アフロディーテが生まれた事で、陸の神が「私にも美しいものが生み出せる」と言って薔薇を創り出したと言われている。だから薔薇は、アフロディーテと共に生まれた花なのだ。
愛と美。その名に相応しく、艶やかで華やかな中にも気品を称えている数多くの薔薇。
茨町を彩る千紫万紅な景観も、そろそろ見納めとなる。
薔薇の市は、遂に最終日を迎えていた。
茨町が一年の内で最も人と活気に溢れるのが、この最終日だ。
町のそこかしこで薔薇が舞い、人の笑い声が木霊し、甘美な香りが鼻孔をくすぐる。
ホワイトローズにも朝からたくさんの人が訪れていた。
昨日遅くまで龍二と電話をしていたが、寝不足の重だるい感じは全くしない。寧ろスッキリと軽快な気分でいた。
快晴で気持ちのいい朝を迎えた事や、天気予報で新人アナウンサーが「今日も一日頑張りましょう」を「今日も一日頑張りまちょう」と言っていたのに元気を貰った事もあるが、それだけじゃない。
龍二との電話の内容が、俺がずっと抜け出せないでいた泥沼から引き上げてくれたのだ。
昼食の時間になり、だいぶ店も落ち着いた頃、一人の女性がやって来た。
涼やかな目元に癖のない綺麗な黒髪を風になびかせて、彼女は店の入口に立っていた。
その手には、見慣れた白い手紙が握られている。きっと、宛名のない赤い封蝋のシールで止められた手紙だ。
思考はとめどなく動いていて、この現状に動揺しているはずなのに、心は妙に穏やかだった。
きっと心のどこかで彼女が来る事を予測していたのだろう。
俺は一歩、彼女の方に近づいた。
同時に彼女も数歩、こちらに近づいてくる。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、ホワイトローズの店内は静まり返っている。
眠っている水面に涙を一粒零したように、澄んだ声が波紋のように広がった。
「ごめんなさい、私、勘違いをしていたの」
泣いているんじゃないかと思うほど、澄んだ声に俺はドキリとした。
けれど彼女の双眼はしっかりと意志を持ち、こちらを捉えていた。
彼女の謝る意味。
「勘違い」と言った言葉。
どちらも俺の中にちゃんと答えはある。
「大丈夫。俺に渡して欲しいものがあるんじゃないか?」
その言葉に、彼女の涼やかな目元が一瞬丸くなった。
けれどそれは直ぐに戻り、今度は少しだけ三日月形になった。そうすると幼い印象になるんだなと、心の中で思っていた。
そしてもう一度、ゆっくりと口を開いた。
「しずく、しらべ、わたぼうし…。どれも、とても素敵な薔薇ね」
彼女は店内に飾られている白い薔薇を見て言った。
「この白い薔薇を作っている種守孝枝さんに、この手紙を渡してくれませんか?これは、私の大切な人から預かった手紙だから」