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ある雨の日の二人

 

  突然降り始めた雨に、契子は心の中でガッツポーズをしていた。

  この雨では、仕事どころではないだろう。きっと早々に切り上げで、家の中へ入って来るに違いない。

  それならと、私は脱衣所に置かれていた新しいタオルを手に取った。そして、急いで玄関へと向かい走っていった。

  雨で濡れた彼を待ち構えるために。


  私が到着してすぐ、磨りガラス張りの玄関に黒いシルエットが現れた。

「良かった、間に合った」

  音を立てて開けられたその先には案の定、雨にしっとりと濡れた彼が立っていた。

「すごい雨ね。これで身体を拭いて」そう言って差し出したタオルを彼は「すみません」と言いながら受け取ってくれた。

  遠慮しているのか、玄関の敷居を跨がず外で身体を拭いている。そんな彼の腕をグイッと引っ張り、無理やりに敷居を跨がせた。

  彼は少し焦りながら「お嬢さん、ダメです。まだちゃんと拭き取れてないです。あぁ、お嬢さんの腕にも水滴が…」そう言いながら、自分よりも先に私の腕に数滴落ちた水を拭き取ってくれた。

  こんな些細な事で、タオルを渡せて良かったと思えるほど嬉しくなってしまう。


  彼が全身を拭き終えるタイミングで、私は話し掛けた。

  と言うよりも、緊張して話し掛けるタイミングをここまで逃していたのだ。

  今日はもう雨が降って仕事にならないから、きっと彼は身体を拭き終えたら荷物をまとめて帰ってしまう。

  だから、その前に。

「ねぇ、この後、時間ある?」

「え?」

  不意をつかれたような質問に、彼は目を丸くした。

「えっと、仕事はもう出来ないので、後は帰るだけですが」

「だったら、もう少し居て欲しいんだけど…」

  いつもは一方的なもの言いや行動で困らせているだけに、直球な言葉でのお願いは照れてしまう。

  もしここで断られたら、もう引き止める言葉は出てこないだろう。

  だからどうか断らないで、と心の中で呟いた。

  彼は少し迷っていたようだったが、私の願いが届いたのか「分かりました」と返答が返ってきた。


  汗をかいた時の為に着替えは常に持っているらしく、身体を拭き終えた後に脱衣所へと案内した。

  数秒して、濡れていない新しい服へと着替えた彼が出てきた。

  濃紺の乗馬ズボンは変わらないが、上は法被を脱いで黒のティーシャツ姿だ。

  いつもはきっちり上げている前髪も、雨に濡れたせいか下ろしている。

  仕事モードとは違う姿にドキッとさせられてしまう。

  そんな気持ちを隠したくて「なんか、いつもと違って、変な感じだわ」なんて言ってしまう。

  本当は似合っていると言いたいのに、こんな言葉しか出てこない。

  それでも彼は「あはは、すみません。ワックスも雨で落ちてしまって、少し見苦しいですかね」と、笑って返してくれる。

「見苦しくなんかないわ!たまには、そんな髪型も良いんじゃない…」

「そうですかね」

  そう言いながら、気になるのか前髪に手を当て掻き分けた。

  そんな仕草をじっと見ていると「ところで、居て欲しいと言うのは何か用事でもあるんですか?」と、彼が聞いてきた。

  私は少し焦りながら「ええ、そう!こっちに来て」と、彼の腕を掴み歩き出した。


  彼とは、仕事の合間の休憩時間にしかまともに話せる時間がない。仕事が終わればすぐに帰ってしまうからだ。

  だからずっと雨が降って欲しいと思っていた。

  雨が降れば、仕事は出来なくなる。そうすれば、仕事をするはずだった時間が空く事になる。

  もしその時が来たら彼を引き止めて、たくさん話がしたかったのだ。

  だから用事なんて何でも良かった。

  ただ、彼が居てくれるのであれば。

  たまたまネットで流れてきた画像が綺麗で、調べていたら見つけたのがこれだった。


「私、あなたと一緒に、レインボーローズを作りたいの」


  今、契子の部屋には彼がいる。

  女の子の部屋にいきなり上がるのはちょっと、と少し抵抗されたが「いいから!」と強引に連れて来てしまった。

  今になって、はしたなかったかもしれないと少し後悔したが、仕方がない。だって居間には母と祖父母がいるのだから。

  母からは、あまり迷惑を掛けないようにと念を押されたが、何処吹く風とばかりに受け流して部屋まで連れて来てしまった。

  契子の部屋はベットや洋服ダンス、雑貨に至るまで白や茶を基調とした木製の物で揃えられている。

  木の暖かい感じが好きで、気づいたら同じような物ばかりが集まっていたのだ。

  私としては可愛いと思うし、結構気に入っているのだが、遊びに来た友達からは「渋い部屋」と称されていた。

  そんな部屋に今、彼がいるのだ。

  中央に置かれた長方形の机の長辺に座り、部屋を見回していた。

  可愛いとは思っているが、まじまじ見られると少し不安になってくる。

  レインボーローズを作る材料を机の上に乗せ、彼の対面に座った。

「木製の物ばかりで、あまり可愛くないでしょ…。友達からは渋い部屋って言われるの」

  そう言って笑って見せた。

  心の中でそう思われるくらいなら、自分から言って笑い飛ばしてしまいたかった。

  けれど、彼の笑顔は嘲笑なんかじゃなく慈愛に満ちていた。

「俺は好きですよ、この部屋。木に囲まれていて凄く暖かい感じがします。それに、俺が植物を嫌いなわけないじゃないですか」

  そう言って優しく笑いかけてくれた。

「そ、そう?そうよね!うん、ありがとう!」

  あまりの嬉しさに、返答がしどろもどろになってしまう。それが恥ずかしくて「それよりも」と、強引に話を持っていく事にした。

「レインボーローズを作りましょう!」

「そうでしたね。レインボーローズなんてよく知っていましたね。オランダが発祥の地だと聞いた事ありますが、家庭でも作れるんですか?」

「簡単に出来るわ。色水に白い切り薔薇を浸けて置くだけだもん!」

  彼は感心したように「そうなんですね」と、机の上に乗せた材料を見ていた。そして、白い薔薇を手に取り「これは、しらべですか?」と聞いてきた。

  薔薇の形や色を見ただけで種類まで言い当ててしまうなんて、さすがは植物に携わる仕事をしているだけはある。

  庭師だからといって、花にまで詳しいとは限らない。きっと彼自身、本当に植物が好きなのだろう。

「そうよ!良くわかったわね」

「分かりますよ、だって」そう言って手に持ったしらべを見ながら「前にローズヒップで悪戯された時に、色々調べたと言っていたでしょう?だから俺も、お嬢さんのように薔薇の事を調べたんですよ」と彼が言った。

  私が、きっかけ…。

  予想外の言葉に、声が出なかった。

  だからレインボーローズの事も知っていたり、切り薔薇を見ただけで種類が分かったりしたのだろうか。

  彼に褒められたくて、構って欲しくてした悪戯をそんな風に受け取って貰えていたなんて。

  そんなの、嬉しすぎる。

  彼は急に話さなくなった私の顔を覗き込み「大丈夫ですか?」と心配してきた。

  私はふいっと顔を逸らし「大丈夫よ」と返したが、きっと嬉しさと照れくささと驚きが入り交じった変な顔をしていたに違いない。

  すると彼がいきなり「ふはははっ」と笑い出した。

  理由が分からずキョトンとしていると「すみせん」と目元を拭いながら「レインボーローズみたいだなと思ったので」と言ってきた。

  それでも、まだ言葉の意味が理解出来ないでいると。

「お嬢さんは色白だから。照れたり笑ったりすると頬が色付いて、色水を吸い上げて染められていく白い薔薇みたいだなと思ったんです。まるで俺達がこれから作ろうとしている、レインボーローズみたいに」

  契子は隠すように自分の頬に手を当てた。

  今度は言葉の意味はちゃんと理解出来たが、心が追いつけないでいた。

  そんな事を思って見られていたと分かったら、これからどんな顔をしたらいいのか分からなくなるではないか。

「もう、いいから!早く始めましょう!」

  これ以上、この会話を続けていたら薔薇どころか茹でダコみたいになってしまう。

  そう思い、強制的に作業を始める事にした。


  染料には色の三原色である黄色、赤紫色、空色それと白と黒を用意した。この五色があれば大抵の色は作れ出せるからだ。

  レインボーローズの名の通り七色の薔薇に染めようかとも思ったが、私も彼も自分の好きな色で染める事にした。

  私は空色に少し赤紫色を足して群青色を作った。

  作るのが不可能と言われる青い薔薇を作ってみたと彼には言ったが、本当は彼がいつも着ている作業着の色に近づけたかったのだ。

  少し明るめにはなってしまったが、綺麗な色が出来上がった。

  カップに出来上がった色水を入れ、その中にしらべを一本差し入れた。

  彼の方は、しらべの茎を三股に切りそれぞれに違う色水を浸けていた。

  一つは何も入っていない透明な水。もう一つは赤紫色に白を足したピンク色の水。そしてもう一つは黄色に赤紫色をほんの少し足した山吹色の水だ。

  どうしてその色にしたのかと尋ねてみると。

「元々の白いしらべも好きなので、その色も残しておきたくて。あとの二色は…」

  チラッと気遣わしげにこちらを見て、そして。

「お嬢さんのコロコロ変わる表情をヒントに、薔薇の表情も山吹色やピンク色で喜んでいるようにみせたくて」

  そう言いながら、大切なものを扱うように丁寧に薔薇を作った色水に浸けていた。

  また表情が緩みそうになるのを堪えながら、ふと思った事を口にした。

「じゃあ、私の薔薇は群青色だから悲しんでいるのかしら…」

  そう呟くと「悲しいもあるかもしれませんが、驚いているのかもしれないですよ」と返してくれた。

  そう言われれば、そんな気がした。

  驚いて青ざめる薔薇も、何だか面白い。ひとつの色なのに、こんな解釈が出来んだ。

「面白いわ!浸ける水を変えるだけで、表情が変わる薔薇を作れるなんて!」

「そうですね」

「まだしらべはあるから、もっと色んな表情の薔薇を作りましょう!」

  それから私達は喜んでいる薔薇、怒っている薔薇、怖がっている薔薇と色々な表情の薔薇を作るため色水に浸けていった。

  作りながら「これは、こんな気持ちだ」とか「笑っているなら、もっとこの色を入れた方がいい」とか、たくさん話してたくさん笑って。こんなに楽しいのは久しぶりだった。

  用意したしらべも最後の一本になり「何色を作りますか」と聞かれ、私は真っ赤な薔薇が作りたいと提案した。

「最後は王道の赤い薔薇ですか。どんな表情をイメージしたんですか?」

  そう聞かれたが、言うに言えず「秘密よ」とだけ答えた。

  だってこの薔薇は、恋をして赤くなった薔薇をイメージして色を付けるのだから。

 


  契子の部屋は、カップに生けた何本もの白い薔薇でいっぱいになっていた。

  このままでも十分に華やかだが、明日になれば茎が色水を吸い上げて、白い薔薇が様々な表情を見せてくれるだろう。

  喜怒哀楽。様々な表情の薔薇で部屋が満たされるのが楽しみで、今日彼と一緒に作った事が嬉しくて、ベッドに入ってからもなかなか寝付けないでいた。

  明日また仕事で彼が来るのだから、早めに寝ないと寝不足の顔で会うことになってしまう。


「明日、色付いた薔薇を見るのが楽しみです」

  そう言って、彼は帰って行った。

 

  体勢を変えようと、ゴロンと寝返りをうった先で目に入ったのは、最後に作った薔薇だった。

  あの薔薇は明日、どんな表情を見せてくれるのだろう。

  茹でダコみたいに真っ赤になるのだろうか。

  まるで、私がそうなりそうだったように。

  そう思うと照れくさいような、愛おしいような気持が湧き上がってきた。

  何にしろ、表情を変えたしらべを明日彼と一緒に見るのがとても楽しみだ。


  早く寝よう。

  そして、明日また彼とたくさん話をしよう。

  そう思い、もう一度寝返りをうった。


  残り少ない日を大切にしなければ。

  契子はそう心の中でグッと決意を固めていた。


  やがて意識は、自然と夢の中へと落ちていった。

 

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