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奇跡

 

「意外とイケるな、これ」

  甘酸っぱいローズヒップの味わいと、シャーベットのシャリシャリとした食感が口の中いっぱいに広がった。

  陽向が飲んでいたフローズンローズヒップティーを、俺もようやく味わう事が出来たのだ。

  女性人気がありそうなピンク色の可愛いらしい見た目ではあるが、以外にも男性の購入率も高いようだった。

  今もこの雨の中、数人の客が並んでいる。しかも、その半数は男性だ。

  俺はストローで中の液体をグルグルと掻き混ぜてから、もう一度口の中へと流し込んだ。

  これで晴れて暖かければ、もっと美味しく飲めていただろう。

  少し恨めしく思いながら、暗澹(あんたん)たる空を見上げてみた。


  薔薇の市四日目になっても昨日に引き続き、雨が降っている。

  中央広場に設置してある椅子とテーブルの上には、昨日はなかったパラソルが用意されていた。

  雨でも飲食が出来るようにと、昨日の薔薇の市終了後に町内会で準備をしていたようだった。

  それでも、この天候では客足もなかなか伸びない。

  ここ数年は薔薇の市で雨なんて降った事はなかった。何となく例年とは違う。それは俺にとっても、薔薇の市にとっても同様だった。

  そういえば朝の天気予報で、午後からは天候が回復すると大きめな傘を差した女性アナウンサーが言っていた気がする。

  最近入社したばかりの新人アナウンサーで、少し甘噛みしながらも一生懸命に各地の天気を伝えている姿が好印象だと話題になっていた。

  俺も毎朝この局で天気予報を確認しているが、今朝は祖父との会話でテレビからの声は右から左へ受け流されていた。

  龍二が久し振りに帰って来ている事を話すと「それなら、今日は店番を代わってやろう」と言ってくれたのだ。

  龍二は二泊三日の予定で暦ノ旅館に泊まっており、今日もまた会う約束をしていた。

  昨日二通目の手紙を開けたあと「もしかしたら彼女がまだ居るかもしれないから、戻って確かめてくる!」と急ぎ足で旅館へ戻って行ってしまった。

  だから今日はその報告も兼ねて、待ち合わせをしていた。

  店番を代わって貰えるのは有難いのだが、未だに手紙の話は出来ていないままでいる。

  その事が何だか隠し事をしているようで、バツが悪い気持ちがしていた。


  俺は頬杖をつき、雨粒越しの薔薇の市を眺めながら、頭の中は手紙とじいちゃんの事を考えていた。


(表情が変わる薔薇ってなんだよ……龍二は彼女を探し出せたのかな……じいちゃん、人混み苦手だけど一人で店番なんて平気かな……雨だからそこまで客は来ないと思うけど……薔薇の事ならやっぱり、じいちゃんに聞いた方が良かったんじゃないか…)


  ストローで掻き混ぜたフローズンローズヒップティーみたいに、渦巻く思考は消化する事が出来ないまま、俺の頭の中をグルグルと混乱させるだけだった。



「司、待たせて悪い!」

  声を掛けられ目の前を見ると、いつの間にかそこには龍二が立っていた。

「ボーっとしてたみたいだけど、大丈夫か?」

「あぁ、大丈夫。少し考え事してただけだから」

  頬杖をついていた手首には赤い線が出来ていた。存外長い間、同じ体勢でいたみたいだ。

  伸びをすると背中や肘の関節がポキポキと音を鳴らした。

  龍二は「お前の悩み、少しは解消してやれるかもな」と言いながら、俺の前の椅子に腰を下ろしてきた。

  その得意気な声と表情から、何か掴めたのだと伝わって来た。

「それは、期待出来そうだ」

  俺は残っていたフローズンローズヒップティーを一気に飲み干した。

  龍二にもドリンクを買いに行くかと聞いたが、旅館でお茶を飲んで来たから大丈夫だと食い気味に言われてしまった。

  そんな事よりも、早く話したかったのだろう。

  俺が聞く体勢に入ると「よし、話すぞ」と、マジックの種を明かすように少し高揚した口調で勿体ぶりつつ話し始めた。


「彼女の名前は暦 穂乃花(こよみ ほのか)さん。暦ノ旅館の一人娘だ 」

 

  俺はその言葉に体を仰け反らせた。

  龍二が早く話したがった気持ちが分かった。これは、予想外だ。俺はてっきり、泊まりに来ている客の誰かだろうと思っていた。

  でも、そうか。今の時期、泊まりに来る客のほとんどは薔薇の市目当ての客だ。

  ならば人伝いなんかじゃなく、直接渡しに来ればいい。もっと言えば、手紙に書く必要なんてないのだから。

  しかし龍二の種明かしは、これだけでは終わらなかった。彼女の事を色々と調べてくれたらしい。

  歳は俺達と同じ二十一歳。今は一人暮らしをしながら大学に通っているが、薔薇の市の期間中は実家である旅館を手伝うために帰省しているらしい。

  家族構成は暦ノ旅館の支配人の父親と、女将の母親。それから、大女将である祖母の三人だ。最近祖父が亡くなり、大女将である祖母も仕事は全て息子夫婦に任せているようだ。

  祖父が亡くなってからは、祖母の事を気にかけているようで、かなりのおばあちゃん子らしい。

 

  それにしても、良く一日でこれだけ調べ上げたものだ。

  昨日帰ったのは夕方だったから、実質調べられた時間なんて数時間程度しかなかったはずなのに。

「すごいな…。どうやってここまで分かったんだ?」

  俺は感心しながら聞いてみた。

  すると「一目惚れ作戦だよ」と、斜め上を行く回答が返ってきた。

「なんだそれ?」

「実はさ」龍二はまたも得意げに「この旅館で大学生くらいの女子に一目惚れしたんです。少し話しただけでどっかに行ってしまって…。って、食事を運んで来てくれた中居に話したんだ。その子の特徴と一緒に」と、衝撃の発言をした。

  そうだった。こいつは時々、ものすごく大胆な事をする奴だった。

「でも、そんなんで良く教えて貰えたな」

「食事を運んで来てくれたのが結構ベテランの人でさ、少しはにかみながら言ったら教えてくれたよ。まぁ、客の情報とかだったら厳しかったけど、身内に対しては案外ガードが緩いのかもな。彼女の正体が暦ノ旅館の人間だって分かれば、後は旅館の事を聞くふりをして家族構成とかを聞き出せばいいわけだ!」

  真剣にそんな事を言う龍二に、開いた口が塞がらなかった。

「お前、探偵か役者にでもなれるんじゃないか」

  冗談ではあるが、完全に冗談だと言い切れないのがなんだか悔しかった。

  俺の中でこいつは、凄い奴と言う位置づけなんだと改めて思い知らされた。

  そんな俺の気持ちを知ってか知らずか「俺には力不足だよ」と肩を落とした。

「なんでだよ?」

「だってさ、彼女…穂乃花さんに直接会えなかったんだぜ。さすがに居住区までは行けなくてさ。直接話を聞ければ全て解決だったのに」

  頼んだ俺以上に落ち込む龍二の肩を叩いた。

「お前がいなけりゃ、こんな事まで分からなかったよ。本当に助かった。サンキューな!」

「…おう!ところで、これからどうするんだ?」

「とりあえず手紙に書いてあった、表情が変わる薔薇ってのを探してみようと思う。町中歩き回っていれば何かヒントがあるかもしれないし。なんたって今は、薔薇の市真っ只中なんだから!」

  俺は雨に濡れた町をぐるっと見渡した。

  雨足は弱くなった気はするが、まだ傘を差さないと出歩けないほどだ。

  天気が悪いと灰色に見える町も、薔薇が至るところにあるからなのか鮮やかに感じられる。それでも、もうそろそろ雨を落とすのを止めてくれないものかと、空を仰ぎ見た。

「早く晴れてくれねぇかな…雨はもういいや」

  龍二も俺につられるように空を見遣った。

  その表情は、どこか懐かしさを含んでいるようにも見えた。



  中央広場を後にした俺達は、パンフレットを片手に雨降る薔薇の市を歩き始めた。

  昨日と同じく人気(ひとけ)の少ない薔薇の市は物寂しく感じるが、傘を差して歩き回る分には道が広々と使えて有難かった。

  普段は車が通る道も、今は歩行者天国になっている。だから堂々と道の真ん中を歩けばいいのに、俺と龍二は何となく道の端を選んで歩いていた。

  今回出店している店舗数は、五十を超える。その一つ一つを見て回るのは骨の折れる作業だった。

  ただ見て回るだけならそれ程時間は掛からないが「表情が変わる薔薇」に関係する物があるかを確かめなければならない。

  何がヒントになるか分からないから、店の中を注意して探さなければならないのだ。

 しかしどんなに歩き回っても一向に成果が得られないまま、ただ時間だけが過ぎていった。

  これじゃあ、骨折り損のくたびれもうけだ。


  昼が過ぎ、もう傘を差さなくても良さそうなくらい雨が弱まり始めた頃、俺はとある人物を見つけた。

  その人物とは、薔薇の市一日目に手紙を届けてくれた曽根崎さんだった。

  彼は「ステインローズ」と言う店の前で、見た事もないような色鮮やかな薔薇を持って立っていた。

  駆け寄り声を掛けると「やあ、司くん。こんにちは」と、俺の事を覚えてくれていたようだった。

「今日は店番してなくて大丈夫なの?」

「はい。今日は祖父が代わりに店番を引き受けてくれていて」

「おじいさん?」

「そうなんです。もう歳だから少し心配なんですけど、天候も良くないし、そこまで客足は伸びないだろうと思って任せちゃいました。それに、祖父は俺なんかよりずっと薔薇には詳しいんです」

「もしかして、白い薔薇の生産者である種守孝枝さんかい?」

  曽根崎さんが驚いたように聞いてきた。

  名前まで知っているなんて、やっぱりじいちゃんの薔薇はすごいんだ。

  その事が俺には嬉しかった。

「そうです!うちの店で売られている薔薇は、全部祖父が趣味で育てている薔薇なんです。好きだからって、白い薔薇ばかり。変わってますよね。薔薇って言ったら赤い色だと思うのに。でも、どれも本当に綺麗な花を咲かせるので、地元じゃ結構有名なんですよ!」

  祖父の事になると、つい熱を持って話してしまう。

  それは祖父を尊敬しているという事もあるが、俺自身が祖父の育てる薔薇が凄く好きなのだ。

  曽根崎さんは柔らかい口調で「確かにどれも素敵だったよ」と返してくれた。

  そして「今日は友達と一緒なのかい?」と俺の後ろにいる龍二を見て言った。

「はじめまして。倉岡龍二です」

  龍二は軽く頭を下げ挨拶をした。そして続けざまに「曽根崎さんって、手紙を司に渡した人ですよね?」と聞き始めた。

「ああ、そうだよ。薔薇の市一日目に暦ノ旅館て手紙を手渡されて、司くんに渡したんだ」

  薔薇の市一日目。たった三日前の事なのに、なんだか懐かしい気分だ。

「実は俺も手紙を渡して欲しいと頼まれたんです」

  それを聞いて、曽根崎さんは少し目を見開いた。

「そうだったのか。二通も手紙が届くなんて不思議だね。しかも、人伝いで」

「そうなんです。しかも手紙の内容も妙で、いま龍二と一緒に調べているところなんです」

  俺は曽根崎さんから手渡された手紙と、龍二から手渡された手紙の内容を話して聞かせた。


  俺の話を聞き終えると、曽根崎さんは顎に手を当て「そうだな…」と少し唸った。

  そして「答えかどうかは分からないけど、自在に色が変わる薔薇ならこれだよ」そう言って、持っていた色鮮やかな薔薇を差し出してきた。

「自在に色が変わるって、どうゆう事っすか?」

  龍二が差し出された薔薇をまじまじと見ながら聞いた。

「司くん、この薔薇の種類が分かるかい?」

  いきなりの質問に俺は戸惑いつつ、龍二と同じようにまじまじと薔薇を観察した。

  曽根崎さんから差し出された薔薇は全体的に薄紫色をしている。けれど花びらの何枚かは濃い紫色をしてた。

紫水(しすい)…かな?でも、色も形も少し違うような…」

  紫水とは薄紫色をした品種で、美しい自然の姿に心が落ち着く様子を現した薔薇として、山紫水明の意味を込めて命名された薔薇だ。

「良く色んな種類を知っているね」

  感心したように曽根崎さんが頷いたが「だが、残念。ハズレだよ。これは、しらべだ」

「え!?しらべ!?」

  俺は思わず大声を上げてしまった。

  龍二はその名前を聞いてもピンと来ないのか「どうしたんだよ?」と怪訝な顔をしている。

「しらべは、俺の店で取扱ってる種類だ…」

  こんな短い説明でも、龍二は察しが着いたようだった。

「…え、お前の店って事は、白い薔薇だよな?しらべって品種は、紫色もあるのか?」

  俺も考えたが、そんな事はない。

「しらべは、ふわふわ踊る柔らかな花弁。麗しく奏でる甘美な香。花が織りなす豊かな調べを感じる事から命名された名前なんだけど、紫色があるなんて聞いた事がない…」

  そう言うと曽根崎さんは手を叩いて更に感心していた。

「凄いな。そんなに詳しく知っているのか。さすが、ホワイトローズを任されるだけの事はある。そうだよ、しらべは白だ。でも俺はそれを紫色に染めたんだ」

「紫色に、染めた…?」

「そうだ」

  そして曽根崎さんはステインローズを指差し「この店でな」と言った。



『あなたの思うままに、薔薇を染めてみませんか?』



  そんなキャッチコピーを看板に掲げ、白い薔薇の着色体験を出来るのが、ここステインローズだった。

  曽根崎さん曰く「薔薇が赤や青に変わる事を、表情が変わると捉えられるんじゃないかと思って」との事だった。

  答えかどうかは分からないけど、と曽根崎さんは自信なさげだったが、俺はこれが正解じゃないかと思っていた。

  だって白い薔薇が赤や青に染まっていく姿は、まるで怒っているようにも悲しんでいるようにも笑っているようにも見えると思ったからだ。

  曽根崎さんとはここで別れて、俺と龍二はステインローズで薔薇を染める体験をさせて貰う事にした。

  テントの中では、既に数人の客が薔薇染め体験をしている真っ最中だった。それぞれが自分好みの色を選び、白い薔薇を染めていく。

  俺と龍二はテントの奥の方の空いている席に通され、ステインローズの店主である藍川さんに薔薇の染め方を教わる事になった。

  藍川さんは俺がホワイトローズの店主だと気づくと「せっかくの白い薔薇を染めてしまうのは、嫌ではない?」と遠慮がちに聞いてくれたが、俺は「大丈夫です」と答えた。

  気を使った訳でなく、本当に大丈夫だと思ったのだ。

  確かに白い薔薇は好きだけれど、曽根崎さんが持っていた紫色のしらべもとても綺麗だった。それに、白い薔薇にはたくさんの可能性があるのだと分かって、寧ろ嬉しかったのだ。

  染める事の出来る白い薔薇は何種類かあったが、俺と龍二は曽根崎さんと同じ、しらべを使わせてもらう事にした。

  薔薇を染めると聞いて、てっきり花びらに色を塗って浸透させていくものだと思っていた。だが、どうやらそれは間違いだったようだ。

  薔薇を染めるとは、着色された水を薔薇に吸わせて色を花に移す事だった。


  作り方は至って簡単だ。

  まず白い薔薇の茎をハサミで何本かに裂く。これは、何色にしたいかで裂く本数を変えるようだ。

  そして、その本数分の着色された水をカップに用意する。

  裂いた各茎を各色に分けて浸ければ出来上がりだ。

  この状態で約一日放置すると、徐々に薔薇に色が移っていくらしい。

  俺は緑と黄色の二色。龍二はなんと七色の色を使っていた。

  さすがに多すぎるんじゃないかと止めようとしたが、藍川さんは大丈夫だと笑いながらレインボーローズと呼ばれる薔薇があるのだと教えてくれた。

  その名の通り、虹色の花びらを持つ薔薇だ。

「七色の色が混ざり合っているという事から、通常ならあり得ない奇跡のような花なの。だからレインボーローズの花言葉は『奇跡』なのよ」

  藍川さんはそう言って、七色の色鮮やかな水に漬けられた薔薇を見ていた。

  龍二は図らずも、レインボーローズを作ろうとしていたのだ。

「でも、どうして七色にしようと思ったんだ?」

  俺は何となく龍二に聞いてみた。

  派手だから。どうせ浸けるなら多い方が得だろ。俺は何となく、そんな返しを想像していた。

  けれど返ってきた言葉は「外、雨降ってるから」だった。

  その返答になんの言葉も返せないでいると「陸上部でやってた雨乞い、覚えてるか?」と龍二が聞いてきた。

  俺が頷くと「あの雨乞いの方法を提案したの俺なんだ」と言い、ニヤッと笑った。

  ああ、そうだ。確かにあれは、龍二が最初にやり始めた事だった。

  言われた言葉と同時に、その当時の記憶が鮮明に蘇ってきた。

「初めて見た時はビックリしたよ!お前、突然空に向かって手を叩いたり、大声で叫び出したりして。遂にこいつ、頭がおかしくなったんだと思った」

「おいおい、ひでぇな…」

  龍二は大袈裟に落ち込む素振りを見せた。

「あははっ、悪いって。でも、あの後お前に雨乞いをしてるんだって聞いて、みんなで一緒にやったよな。まぁ、結構その日は雨降らなかったけど」

「そうだったな。しかも、うるさいって顧問に怒られて、ペナルティーとして坂道ダッシュの本数を増やされたんだ」

  その日の事を思い出したのか、龍二は眉間に皺を寄せていた。

「そうだよ。あの日の練習は一番きつかった…」

  同じように俺の眉間にも力が入った。

「けど、それがレインボーローズとどう関係してるんだ?」

  すると龍二は「いつだったか、朝から降っていた雨が放課後の部活前に急に止んだ日があったの覚えてるか?ちょうど、夏休み前の暑くなり始めた時期」そんな事を聞いてきた。

  俺は頭の中で、龍二がいた頃の夏休み前の記憶を呼び起こした。

  雨が止んで…夏休み前の…放課後…晴れて走った…その日を。

「あれって確か、一学期の終業式の日じゃないか!?朝からすげぇ雨降ってたのに、帰りのホームルームが終わった直後、一気に晴れ始めた」

  龍二は嬉しそうに「そう!その日だよ」と頷いた。

「でも、その日がどう…」

  どうしたんだよ。そう言おうとする前に、頭の中で何かが過った気がした。俺はその過ぎったものを離さないように、ゆっくりと掴み手繰り寄せた。

  すると、その正体が姿を現した。

「そうか!虹か!あの日の放課後練習、空に虹が掛かってたんだ!」

「おう!大正解!」

  ようやく思い出せた。

  あの時も、これからきつい練習が待っていると陰鬱な気分になっていた。

  投げやりな気持ちで外に出て開始された練習だったが、何人かが空を見上げて騒ぎ始めたのだ。

  何かと思い空を見上げてみると、そこには虹が架かっていた。しかも、二重に重なった虹が。

  その日の練習は三息坂での坂道ダッシュが組み込まれていたが、ちょうど坂道の頂上に虹が架かっていた事もあり、みんなで虹に向かい走っているみたいになっていた。

  もちろん苦しさはあったが、目の前の虹と雨上がりの清々しい空気、更に濡れた地面に夕日が反射して燦然(さんぜん)と輝き、全く別の場所を走っている感覚を抱いていた。

  だから最後は、いつになく楽しい気持ちで部活を終える事が出来たのだ。

「俺さ高校で陸上していた時が、走ってて一番楽しかったんだ。確かに練習はきつくて雨が降ればいいって思ってたけど。雨乞いもしてても、走らされたとしても両方楽しかった。その中でも、あの晴れた日は特別だった。俺がみんなと走った最後の日だったから」

  龍二はそう言って口を噤んだ。

  そうなのだ。夏休みに入ってすぐ、龍二は突然転校して行った。

  俺は龍二の転校が印象的すぎて、前日の部活の事をすっかり忘れていたのだ。

「お前、いきなり居なくなったもんな。しかも数日してからいきなり電話掛けてきて『俺、転校したんだ』とか言いやがって。どんなサプライズだよ」

「悪かったって。言ったらみんな気使うじゃん。俺はいつも通りに過ごしたかったんだよ。でも、お前には言っとくべきだったかもな…ごめん」

「今更何言ってんだよ。もう気にしてないって。それにお前の突飛な行動なんて、慣れっ子だからな」

  少し気落ちした龍二に、俺は龍二がいつもするようなニヤッとした笑みを見せた。

「ところで、龍二は明日帰るんだよな?」

「おう」

「レインボーローズはどうするんだ?このまま持って帰るのか?」

  俺はまだ色の着いていない、七色の水に浸かったしらべを指差した。

「んー、どうすっかな。持って帰りたいけど…。俺、バスで来たからそれを持って乗るのは大変そうだしな。良かったら司が貰ってくれないか?お前は明日取りに来るんだろ」

  ステインローズでは作ったその日に持ち帰るか、一日置いて色の着いた状態の薔薇を持ち帰るか選べるようになっていた。

「俺は良いけど、お前は良いのかよ?せっかく作ったのに」

「おう!俺が持ち帰ったって、枯らしちゃうかもしれないだろ。だったらお前に託した方が安心だからな」

「分かったよ。お前の分までちゃんと育ててやる!」

  俺達の会話が一段落着いたのを見計らったように、藍川さんが声を掛けてきた。

「それじゃあ、明日司くんに渡すまでは私が責任を持って預からせて頂きますね」

  そう言って微笑む藍川さんに、俺達は二人して「よろしくお願いします」と頭を下げた。


  一時間程ステインローズに居ただろうか。外に出ると雨はすっかり止んでいた。

「おい、龍二。見てみろよ」

  茨町に重くのしかかっていた雲は嘘みたい消え、青く澄んだ空が顔を出していた。

  濡れた地面には陽の光が反射して、宝石を散りばめたように燦然と輝きを放っている。その眩しさに目を瞬かせながら見上げた空には、きれいな虹が架かっていた。


  ──午後には天候も回復して、青空が見られるでしょう


  今朝の天気予報で、唯一俺の耳に入ってきた言葉が頭の中で再生された。

  じいちゃんとの会話で、右から左へ受け流して聞いていたニュースだが、天気予報だけは無意識に頭に入っていたのだ。

  そう言えば今日は噛む事なく、新人アナウンサーは天気を伝えられていた気がする。

  アナウンサーにとってそれが普通であり絶対なのかもしれないけれど、俺としては「青空」を「青じょら」と噛みながらも一生懸命に伝えようとする姿にも好感が持てていた。


  空に架かる虹を眺めながら、俺はそんな事を考えていた。

  隣に居る龍二は、何を思い虹の架かる空を見上げているのだろう。

  ふと気になり横目で確かめてみると、その表情はグッと何かを堪えているように見えた。

  心の内なんて覗けないし、これが正しいかなんて分からない。だけど、考えるより先に衝動が身体を動かしていた。

「着いてこい、龍二!」

  そんな事を言って突然走り出した俺に「え!?」と困惑の声を上げた龍二が一歩遅れて走り出した。

  後ろからは「突然なんだよ」「どうしたんだよ、おい!」と聞こえていたが、振り向く事のないまま走り続けた。


  十分ほど走って辿り着いたのは、いつも部活動で走っていた三息坂のスタート地点だった。

「はぁ、はぁギリギリ、間に合った」

  だいぶ薄くなってしまったが、空にはまだ虹が架かっている。

  俺は大きく息を吸い、声を上げた。

「坂道ダッシュ!一本目!よーい、始め!」

  陸上部だった頃、坂道ダッシュをする度に出していた掛け声だ。

  その声を引き金に、俺は三息坂を一気に登り始めた。龍二も少し遅れてそれに続いた。

  ここへ着くまでにも走ってきた身体は、登り始めて数歩で悲鳴を上げた。日頃の運動不足をこんな所で実感するなんて。

  酸素を吸っても吸っても、まだ足りないと肺が訴えかけてくる。痛くて苦しくて、足が石のように重たい。

  喉からは微かにする血の味を感じる。

  けれど、この感覚がどこか懐かしかった。

  気づけば龍二は、俺の遥か前を走っていた。いつの間に抜かされていたのだろう。

  綺麗なフォームに力強く地面を蹴る後姿は、本当にあの頃に戻ったみたいで、苦しいはずなのに自然と笑顔が溢れていた。

  最後は歩く程のスピードで、やっと辿り着いた頂上では、龍二が既に息を整えた状態で待っていた。

  俺は堪らず、転がるようにその場に座り込んだ。

「はぁはぁ…さすが、現役の陸上選手。はぁー、やっぱり、凄いな!」

「お前だって止まらずに最後まで登り切っただろ。それだけで十分すげぇよ!」

  お互い汗でビッショリだし、雨上がりのアスファルトに座ったせいでお尻は濡れるし、足はガクガクなのに、吸い込んだ空気は美味くて、見える景色は綺麗で、気持ちは見上げた空みたいに晴れ晴れとしていた。

「やっぱ走るの楽しいな!」

  迷いのない龍二の言葉は、何か吹っ切れたように聞こえた。

  俺は「おう!」とだけ返して、少しの間二人で消えていく虹を眺めていた。

 



「結局、手紙の謎は分からず終いだったな」

  帰り際、残念そうに龍二は言っていたが、俺はあまりそうではなかった。

  だって、またこうして龍二と走る事が出来たのだから。

  それに『表情が変わる薔薇』は、やっぱりレインボーローズで合っているんじゃないかと思う。

  変幻自在に色を変える薔薇は、まるで心の内の表情を写し取るように赤や青や黄色に変わっていく。

 怒り、悲しみ、そして喜び。

  作り手の采配一つで変わっていくそれは、世界に一つしかない自分だけの薔薇の表情を作り上げていくのだ。 


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