二通目の手紙
薔薇の市は三日目の朝を迎えた。
今日は朝からどんよりと重たい雲が、茨町の空を覆っていた。
そして空模様を写したかのように、俺の心にも陰鬱な気分が絡みついているようだった。
昨日は陽向のお陰で手紙の答えが分かったはずなのに、それが意図する先が全く掴めないでいる。
結局、半身がまだ泥沼から抜け出せないままでいた。
今にも雨粒を落としそうな空を見上げ、俺は眉を顰め、高校時代の事を思い出していた。
部活動で長距離走をしていた頃は、放課後の練習がきつくて雨が降ればいいのにと望んでいた事もあった。
そうすれば外での坂道ダッシュや校庭を永遠に走らされる事もなく、室内での筋トレやレクリエーションに切り替わるからだ。
坂道ダッシュはいつも学校の近くにある三息坂で行われた。これが本当にきついのだ。
なんたって三息坂の名前の由来が、一息、二息、三息つかないと頂上まで登れないほど険しい坂と言う意味なのだから。
だから今日みたいな日が放課後だったなら、きっと俺は友達と雨乞いをしていただろう。
雨雲に振動を与えると雨を降らせると最初に言い出したのは誰だったろうか。
それを真に受けた陸上部のメンバー全員で、空に向かい手を叩いたり大声を上げたりしていた。
大抵は雨など降らずに外での練習が開始されるのだが、稀に本当に雨が降ってくる事があった。
俺達の声が遠い空に浮かぶ雲を振動させるはずもないのに、偶然でも雨が降った事実が嬉しくて全員で馬鹿みたいにはしゃいで、うるさいと顧問の先生に怒られたものだ。
「今はあんな事出来ないな…」
学生だからこそ、真剣にくだらない事がたくさん出来ていたんだとこの歳になって懐かしくなり、今はそれが少し羨ましくもあった。
そういえば一度だけ、雨が止んでしまった放課後の練習が楽しかった事をふと思い出した。
その日は、朝から降り続いていた雨が、帰りのホームルームが終了するタイミングで降り止んだのだ。
あの時も、これからきつい練習が待っていると陰鬱な気分になっていた。
そんな投げやりな気持ちで外に出て開始された練習だったが、最後は晴れやかな気持ちで部活を終えられたのだ。
あれは、どうしてだっけ。
昼食を済ませた頃、とうとう空が雨粒を落としてきた。
天候の影響で少なかった客も、雨が降り出した頃にはほとんど居なくなってしまっていた。
「今日は早めの閉店だな」
雨粒が当たらない位置にまで薔薇をしまおうと店先に出ると、思いがけない人物がそこに立っていた。
少し雨に濡れた位じゃ治まらないほどの癖毛に、黒く焼けた健康的な肌。
あの頃とまるで変わらない。いや、筋肉はあの頃より付いてがっしりしたかもしれない。
俺は驚きを隠せないまま、その人物に声をかけた。
「もしかして、龍二か…。久しぶりだな!」
「おう、司。久しぶり!」
倉岡 龍二は高校二年生の夏に転校していった、俺の親友だった。
龍二も陸上部で、同じ長距離走選手として一緒に走っていたのだ。
転校して以来、携帯では度々連絡を取っていたが、実際に会うのは約三年振りだ。
「そんな所に居ないで中に入れよ。雨、結構降ってるのに傘差してなかったのかよ」
俺が大きく手招きすると「こんくらいの雨なら大丈夫だろ」と言い、白い歯を見せてニッと笑ってみせた。
ニッと笑うこの仕草も、大雑把な性格も高校の頃と全然変わっていない。
俺に促され店の中に入った龍二は、犬のように頭をブルブル震わせ水滴を落とした。
その頭に、店にあったタオルを投げ掛けてやった。
こうしていると部活後のクールダウンを思い出す。
長距離を走った後は、疲れを残さないために冷たい水に足をつけるのだ。その時に火照った顔も一緒に水につけるとスッキリして気持ちがいい。
特に夏場の練習なんて、暑さで頭が朦朧とするほどのハードメニューだ。
だから練習後は決まって陸上部全員で大きなバケツに入れた氷水に足を突っ込み、クールダウンという名の水浴びをしていた。
その時も龍二は濡れた体なんて夏の日差しで乾くからとびしょ濡れのまま帰り、風邪を引く事が何度もあった。
それを見兼ねた俺は、龍二がクールダウンをする度に持っていたタオルを頭に掛けて拭くように促してやっていたのだ。
「まったく、龍二は三年経っても相変わらずだな」
変わらない親友の姿に自然と笑みが零れた。
「おう!でも昔よりは筋肉付いたんだぜ」そう言って腕を曲げ「ほら」と立派な力こぶを見せつけてきた。
「はいはい、筋肉自慢は分かったから」
「適当な返しだな。もしかして、羨ましいのか?」
俺は自分の腕をチラリと見た。
大学の実習や実家の手伝いで日に焼けてはいるが、龍二ほど逞しい筋肉が付いている訳ではなかった。
「別に、羨ましくなんかねぇよ!俺だって本気出せば、それくらい直ぐなれるし。それに、ゴリマッチョより今は細マッチョの方がモテるんだぜ」 「あははは。何だよ、やっぱり羨ましいんじゃねぇか!しかもゴリマッチョ、細マッチョって久しぶりに聞いたわ」
「なんだよ。今はそう言わないのか?」
「さぁ、知らね。でも、俺の周りで使ってるの聞いた事ねぇな」
そう言いながら龍二はまだクスクスと笑っている。
「もういいよ。どうせ俺はお前と違ってモテねーよ」
陸上部の頃だってそうだ。
同じ長距離走選手だったはずなのに、女子が声を掛けるのは決まって龍二の方だった。
まぁ、足の速さが段違いではあったのだけど。
龍二はその才能が認められ、今でも大学で陸上を続けている。
それでも、俺だって部内では早い方に位置していたずなのに。
足の速い男子はモテる。有効期限は小学生までだと思っていた。けれどそれは中学生、高校生になっても期限切れにはならなかった。
「そんな事ねぇよ。お前だってモテてたぜ」
俺は龍二の言葉に、手をパタパタと振った。
「いいって。そんなお世辞はいらないから」
「お世辞なんかじゃねぇよ。その証拠に、ほら」
そう言って持っていたトートバッグから取り出した物を見て、振っていた手も、俺自身も一瞬静止した。
龍二が手にしていたのは、差出人も住所も書いていない白い手紙だったのだ。
俺はそれを受け取り恐る恐る裏返すと、そこには案の定、赤い封蝋のシールが貼られていた。
「龍二、この手紙、どうしたんだ…?」
「それがさ、暦ノ旅館で可愛い女子に手渡されたんだよ。白い薔薇ばかりを売ってる種守って人に渡して欲しいって。種守って聞いて、直ぐにピンと来たぜ。もしかして、人生初のラブレターじゃないのか!?」
龍二はニヤニヤ笑っているが、俺はそれどころではなかった。
二通目の手紙だ。
あれで終わりだとは思っていなかったが、まさか次の手紙を龍二から手渡される事になるなんて。
俺の狼狽した様子に気づいたのか「どうしたんだよ?」と眉間に皺を寄せた龍二が聞いてきた。
「ああ、うん。実は…」
混乱した頭を整理するように、俺は一通目の手紙から今日までの出来事を龍二に話して聞かせた。
「そうだったのか…。妙だと思ったんだ。あんな可愛い子がお前にラブレターだなんて」
わざとらしくそんな事を言う龍二を「それはもういいよ!」と肘で小突いた。
話した事で先程までの混乱も落ち着き、龍二の軽口をあしらえるまでになっていた。
「冗談はさておき」龍二は真剣な表情に戻り「手紙を貰う事に心当たりはないのか?」と聞いてきた。
「それが全く思い当たらないんだよ。どこの誰かも、なんの目的で手紙を渡してきているのかも」
腕を組んだ龍二が「そうか…」と呟いた。
「そういえば」俺はふと疑問に思っていた事を口にした。
「龍二はどうしてここに居るんだ?」
「おいおい、さっき話したろ。暦ノ旅館で種守って人に手紙を渡して欲しいって頼まれて来たって」
それくらいはいくら混乱した俺でも覚えている。
「そうじゃなくて」
俺が聞きたかったのは、龍二がこの町に来た理由だ。
春休みもゴールデンウィークも終わり、大学だってあるはずなのに。
なぜ、このタイミングで。
それを聞くと「なんだそっちか」と、なんでもないような口調で龍二が言った。
「走れなくなったんだ」
「…は!?」
まるで深爪したんだ、髪の毛を切り過ぎたんだ、カミソリ負けしたんだ。と、ちょっとした失敗談を言うみたいに、軽い口調で言ってきた。
「何でだよそれ!?大丈夫なのか!?」
俺の焦りとは対照的に、龍二は飄々とした笑顔を向けてきた。
「落ち着けって、大丈夫だよ!いや、大丈夫じゃないから来たんだけど。でも、怪我とかした訳じゃないんだ。精神的って言うか…」
それから少し間をおいて、龍二は言葉を続けた。
「大学に入ってすぐの頃は、調子良かったんだ。タイムもぐんぐん伸びていってさ。でも、去年の冬くらいから何だか思うように走れなくなって。二年に上がってもそれは変わらなくて、入って来た後輩達にもどんどん抜かされていくし。なんだか走るのが楽しくなくなっていったんだ。だからさ、この町に戻って来たんだよ。一番走るのを楽しんでいた高校時代を思い出したくて」
龍二が高校で陸上をしていたのは、一年と少しの間だけだ。
それでも龍二は、その時間が一番楽しかったと、あの頃を思い出すように言った。
「監督に言ったら、行ってこいって背中を押して貰えたし。ちょうど薔薇の市の真っ最中だったから、お前も居るんじゃないかと思ってさ。でもまさか、店主をしているとは思わなかったけどな」
そう言ってニヤニヤと白い歯を覗かせた。
走れなくなった。この言葉が龍二にとって、どれ程の重みを持った言葉なのか完全には理解しきれない。それでもこうやって笑えるのであれば、きっと前向きな気持ちでここに居る事は間違いなかった。
「それなら、言ってくれれば俺の家に泊めてやったのに」
「いや、結構急に思い立って決めた事だったから、さすがに悪いだろ。それに、暦ノ旅館にも泊まってみたいと思ってたしな。それより今は手紙の件だろ」
そうだった。俺が聞いた事とはいえ、龍二がこんな話をするから、手に持っていた手紙の存在をすっかり失念していた。
俺と龍二は、赤い封蝋のシールが貼られた白い手紙に視線を落とした。
「とにかく、開けてみようぜ」
少し硬い龍二の声に促されるように、シールに爪を立て一気に引き剥がした 。
中には案の定、折りたたまれた紙が一枚入っているだけだった。
その紙を取り出し「開くぞ」の掛け声で、本のページを捲るようにゆっくりと開いていく。
そこに書かれていた言葉に、俺はまたしても泥沼に嵌って行く感覚に襲われていた。
「表情が変わる薔薇は?」