薔薇の市
茨町の薔薇の市。
それは、毎年五月の第三週に一週間行われる薔薇の祭典だ。
茨町は日本でも屈指のバラの産地として有名で、日光量、気候、風通し、土壌、水質環境のどれを取っても薔薇の生育環境に適している土地なのだ。
薔薇の市では全国から集まった専門業者や地元の商店、一般の参加者が薔薇に関する物を販売、展覧する。
アンティークな小物や紅茶、洋服や食事までもが全て薔薇のモチーフや薔薇で作られた物で埋め尽くされる。まさに茨町は一週間、薔薇色に染まるのだ。
町には至る所にテントが立てられて、まるでパリで有名な蚤の市みたいな眺望が広がる。
大々的に宣伝はしていないが、毎年この時期が近づくと茨町のホームページから参加希望者の募集や薔薇の市のパンフレットが発行される。
噂が噂を呼び、年々参加者は増加し、今ではこの一週間で茨町の人口の何十倍もの人が押し寄せるまでとなっていた。
茨町からしてみれば、いい町おこしだ。
この町に二十一年住んでいる身としては、年々出店店舗の規模も大きくなっていく薔薇の市を見るのは楽しみだった。
そして今年はいよいよ、自分自身が楽しませる側にまわる。
毎年両親が出店していたのだが、今年はどうしても外せない仕事と重なり、代わりに出て欲しいと直前になり頼まれたのだ。
『ホワイトローズ種守』
それが今回出店する店名だ。
庭師をしていた祖父が退職後、趣味で始めた薔薇の栽培は何故か白い薔薇ばかりを育てている。綺麗で立派な花を咲かせると地元では少し有名で、薔薇を買いたいと言って来る人もいる程だった。
しかし祖父は、趣味で育てているから金は要らないと、いつも無償で渡していた。
けれど今回は、薔薇の市だ。展覧も兼ねているが、切り売りとしていくつかの種類を売る事となっている。
「司、準備はどうだい?」
九時五十分。あと十分で薔薇の市が開催されるタイミングで、祖父の孝枝が店にやって来た。
「じいちゃん。順調だよ。しずく、しらべ、わたぼうし。他にも何種類か用意してあるよ」
しずく、しらべ、わたぼうしとは薔薇の品種名だ。
日本名の薔薇は明治時代からのものを含めると約二千種類以上あると言われている。輸入した際に、外国語だと呼びにくいからと日本名を付けていたらしい。
そして薔薇は昔から交配を繰り返されてきた花で、その種類は四万種類以上にもなるそうだ。今でも品種改良が行われており、その数は増え続けている。
と、これは全て祖父から聞いた事だ。
祖父は花瓶に入れられた薔薇の様子を確認している。
店頭に出しておくのは観賞用で、それを見て買いたいと言う人がいれば奥の涼しい場所に置いてある販売用の物を持ってくる。
それが、ホワイトローズ種守の薔薇の売り方だ。
「茎はちゃんと切ってから、花瓶に入れてくれたかい?」
花瓶の中を覗きながら祖父が言った。
「大丈夫、水の中でちゃんと斜めに切ったよ。それに水に浸かりそうな葉っぱは取り除いてあるし」
水の中で茎を切る理由は、切った時の水圧で茎に水が上がりやすくなるためだ。そして斜めに切るのは、切断面積を広くして茎が水をたくさん吸えるようにするためだ。葉っぱは、水に浸かっていると水が腐る原因になってしまうから取り除いておく。これらも全て祖父から教わった。
俺の返答に祖父はうんうんと嬉しそうに頷いた。
「司に任せて正解だったな。良く薔薇の事を分かってる。それじゃあ、わしは一旦帰るから、よろしく頼むよ」
「えっ、もう帰るの!?じいちゃんも薔薇の市に参加するんじゃないの?」
てっきり、一緒に売ってくれるものとばかり思っていのに。
不安がる俺を置いて、祖父は人混みは苦手だからと、そそくさと立ち去ってしまった。
──パン、パン、パン
直後、薔薇の市の始まりを告げる三段雷が鳴らされた。
雲ひとつ無い青天井に打ち上げられた三段雷は、三つの小さな雲を作り上げた。
三つの雲が風に流され消え去るのを見ている暇もなく、一気に賑わいが訪れた。
さっきまでの静けさが嘘みたいに、待ってましたと言わんばかりに、そこかしこから声が上がり出す。
薔薇色に染まった茨町が、人で溢れかえる。
毎年の事とはいえ、これは確かに居続けるのは気疲れがしそうだ。
じいちゃんはこの人混みの中、ちゃんと帰れただろうか。
少し心配な気持ちもありつつ、だからといってここを離れるわけにはいかない。
今だって何人かの客が既に薔薇を見始めているし、父と母、それに祖父からこの店を任せられた責任もある。
この春、農業大学地域環境科学部の二年生に進級したばかりの俺、種守 司は薔薇の市が開催される一週間、ホワイトローズ種守の店主としてこの祭典に参加する。
庭師だった祖父の後を継いだ父は、毎年母と共に薔薇の市を楽しみにしていた。
だが今年は急に出張での仕事と重なってしまい、開催三日前のタイミングで急遽俺に白羽の矢が立ったのだ。
元々農業大学に行ったのも祖父と父の仕事を見て興味を持ったからだし、小さい頃から植物に囲まれて育ったせいか、自分もいつかは植物に携わる仕事に就きたいと漠然と思っていた。
大学は校外実習という形で休みを取れたし、年に一度のこんな大きなイベントに参加出来るのだから有難い。
確かに有難いのだけれど、高校では部活動に打ち込み、大学に入っても家の手伝いで植物の世話や道具の手入れをするくらいで接客の経験なんてまるでない俺にとって、一週間テントとはいえ店を任せられるなんて思ってもみない事だった。
接客の仕方も教わらないまま店を任される事になり、今は楽しさよりも不安の方が勝っているが、祖父の白い薔薇を綺麗だと買ってくれる人が居るのなら精一杯勤め上げたいと思っている。
祖父の育てる白い薔薇が好きな一人として。
店には徐々に薔薇を見る人の姿が増え始めて来た。
俺はグッと決意を固め、まずは自分から声を掛けてみようと、わたぼうしを真剣に見入っている老夫婦の元へと近づいた。
わたぼうしとは、その名前からも想像がつくように丸くコロンとした可愛いらしい花だ。
花嫁さんの白無垢に合う薔薇として作出されたのだと老夫婦に話すと、ちょうど今日が結婚記念日で家に飾る薔薇を探しに来たのだと教えてくれた。
色違いのリュックサックを背負っており、どうやらハイキングコースにもなっている山道を歩いて薔薇の市に来たのだろう。
和装での結婚式をしたらしい二人は「昔を思い出しますね」と微笑み合いながら話していた。
そんな穏やかな姿に、俺は少しだけ緊張が解れたような気がした。
二人はわたぼうしを気に入ってくれたらしく、二輪購入してくれた。
それからも何人かの接客をこなし、薔薇も順調に売れていった。
やがて昼が近づくと、次第に客の人数が薄れていった。
どうやらみんな昼食を食べに、食事処のスペースへ移動しているようだ。
薔薇の市で売られている食べ物は、全て薔薇関連の物ばかりだ。あまり一般では販売していない、食用の薔薇を使った様々な料理が売られている。
薔薇のジャムを使ったパンやスコーン。生の薔薇が入った薔薇サラダ。その場で果物と採れたての薔薇で作るスムージー。麺に薔薇を練り込んだパスタやラーメンまである。
俺は家から持参したおにぎりをテントの奥で齧りながら、パンフレットを眺めていた。
「薔薇ラーメンなんかもある。これは、美味いのか?」
アッサリとしたスープに鮮やかな薔薇の麺が絡み合う。麺の上にはふんだんに、摘みたての薔薇を散りばめた華やかな一品です。と、宣伝文句が書かれている。
その言葉と写真に少し興味を惹かれた。
「…一回くらい食べに行ってみようかな」
おにぎりの具で入れた梅干しのしょっぱさに顔を顰めながら、そんな事を考えていた。
昼食時を過ぎ、人の波がまた動こうかという時、その人物はやって来た。
太陽が高い位置に来る時間帯だった為、直射日光が当たらないように、薔薇をテントの中に寄せていた。
すると背後から、突然声を掛けられたのだ。
買い物客かと思い「いらっしゃいませ。どんな薔薇をお探しですか?」と聞いてみると、全く予想外の言葉が返ってきた。
「君宛に、手紙を預かったのですが…」
三十代後半くらいの男性は、肩掛けのショルダーバックから赤い封蝋のシールが貼られた白い手紙を取り出して言った。
曽根崎と名乗ったその男性は、手紙を渡された経緯を話してくれた。けれど、それは俺にとって全く身に覚えのない事だった。
彼は用事を済ませると真剣な面持ちで薔薇を鑑賞し始めた。
見ている間、独り言のように「あれは、薔薇の名前だったのか…」と呟くのが聞こえてきた。
そしてある程度見終わると、食事処のあるスペースの方へと歩いて行ってしまった。
店には何人か客の姿はあるが、購入する様子はみられない。
どうやら白い薔薇ばかりを扱っているのが珍しいようで、一つ一つ薔薇の違いを見て楽しんでいるようだった。
何かあれば声を掛けてもらえるだろう。
そう思い、先程まで昼食を食べていた店の奥へ引っ込む事にした。
どうしても、手渡された手紙の内容が気になってしょうがなかったのだ。
椅子に腰かけ、机の上に置いていた手紙を手に取った。
宛名も住所も書かれていない、まっさらな表面。そして裏面は、赤い封蝋のシールで留められているだけのシンプルな手紙だ。
シーリングスタンプとシーリングワックスで留められていれば、はさみかペーパーナイフで開けなければならなかったが、ただのシールだったのでそのまま手で簡単に剥がす事が出来た。
中には、折りたたまれた紙が一枚入っていた。
その紙を取り出し、ゆっくりと開けてみる。
そこには、一行の短い言葉が書かれているのみだった。
「ベットに潜り込んでお尻に悪戯した花は?」