暦ノ旅館
新緑に染まる穏やかな山道を、車でどんどんと進んで行く。
風に揺れる木の葉の隙間から陽の光がチラチラと落ちる山道は、思わず絵や写真に収めたくなるほど綺麗な道だ。
けれど今は運転中。携帯を弄るわけにはいかない。
だからせめてと、アクセルを踏んでいた右足を緩めた。
徐々に速度を落としていく車に比例して、流れ去る景色の速度も徐々に落ちていく。
目線を少し下に向けると、速度を示す画面には三五kmと表示されていた。
これくらいでいいか。
もしも都会の一般道をこの速度で走っていたとしたら、確実に後続車からクラクションを鳴らされているだろう。けれど今は後続車は一台もいない。それどころかこの数分、他の車とすれ違いすらしていない。
だからこの速度で走っていたとしても、誰に迷惑をかける事もないだろう。
それにもしかしたら、他の車もこの景色を楽しむ為に速度を落として運転しているのかもしれない。
本当にそれくらい、気持ちのいい山道なのだ。
俺はこの速度を保ったまま、パワーウィンドウスイッチに手を掛けた。そして運転席側の窓を全開にした。
その途端、車いっぱいに青々とした空気が一気に入り込んで来た。
新鮮な空気を自分の中にも入れるべく「スーハー」と深呼吸をした。
そして、ゆっくり流れて行く景色を見渡した。
この道はどうやらハイキングコースにもなっているらしく、広めに整備された歩道にはリュックサックを背負った老夫婦や小さい子供を連れた家族の姿も見られた。
老夫婦はゆっくりとお互いの歩調に合わせるように、微笑みながら歩いている。
兄弟であろう男の子二人は、どちらが早く頂上に着くか競うように駆け出し始めた。
しかしその直後、後ろから母親が何か声を掛けたようで兄弟は揃って足を止めションボリしてしまった。
きっと走ったら危ないと怒られたのだろう。
そんな微笑ましい光景を横目で見ながら、車で通り過ぎて行く。
新鮮な山の空気と暖かい木漏れ日を浴びながら進むのなら、車なんかより老夫婦や子連れの家族のように歩いた方がどんなに気持ちいいだろう。
朝早く出発したせいか、さすがに運転するのにも疲れてきていた。
俺はドリンクホルダーに手を伸ばし、途中のパーキングエリアで購入した缶コーヒーを手に取った。
そして気分を少しでもリフレッシュさせるべく、一気に飲み干した。
体に取り入れた新鮮な空気とは違い、苦く少し温くなった液体が体の中を満たしていく。
さて、あともう少しだ。
目的地に着けば新鮮な空気や日光を、思う存分に浴びる事が出来る。
山道の木々も少しづつ減っていき、その代わりにちらほらと民家や道路標識が現れるようになってきた。
その道を更にどんどん進んで行くと、目の前に大きな右曲がりカーブが見えてきた。
その先にある光景は見えないが、俺はその先の景色を知っている。
脳裏にその景色を思い浮かべながら、ハンドルを右に大きく切った。
すると、先程まで見えていなかった建物が徐々にその姿を表してきた。
まさしくパンフレットに載っていた通りの、立派な建物だ。
ようやく到着した。
都心から車で約四時間半。
県境に聳える山の山頂辺りに建てられたその旅館は、山紫水明の地の旅館としてガイドブックに載るほど有名だった。
ここが今日から俺が泊まる旅館。
旅館から道路を挟んで向かい側ある旅館客専用の駐車場に車を止めるため、旅館とは反対方向にハンドルを切った。
駐車場には既に何台もの車が止まっていた。
ナンバープレートに書かれている地名は、やはり県外ナンバーが多く見受けられた。
中には東北や四国のナンバープレートもあり、自分が運転した距離とは比べ物にならないくらいの距離を走ってきたのだと思うと「凄いな…」と自然に口から言葉が出ていた。
それでも、こっちだって四時間半の距離を一人で運転してきたのだ。
車の運転は嫌いではないが、何時間も運転するのは体力的にも精神的にも疲弊するものだ。
自分で自分を褒めてやりたい程度には疲れていた。
数時間ぶりに車から降り立ち、まずは凝り固まった体を解すべく屈伸をしたり、両手を上げ伸びをした。すると座りっぱなしだった体に滞っていた血が巡ったのか、体の芯からポカポカと温かくなってきた。
そして大きく深呼吸をし、新鮮な空気をこれでもかと吸い込む。
「あぁ、やっぽり空気が美味いなぁ」
車の中で感じた青々とした空気よりも、更に新鮮に感じる空気が体の中に染み渡っていく。
きっと車を運転中に吸いこんだ空気とほぼ変わりはしないのだろうが、到達感や高揚感が加わった事でその美味しさは段違いのように感じられた。
こんなに美味い空気を体いっぱいに取り込めるだけで、四時間半の運転をして来た甲斐があったと言えるだろう。
一息も束の間に、俺はドリンクホルダーから空になった缶コーヒーを手に取った。
それから、後部座席に置いてあるボストンバッグとショルダーバックを肩に掛け、車の鍵を閉めた。
そして、旅館の入口へと向かい歩き始めた。
***
暦ノ旅館は、明治創業から百年以上続く老舗旅館だ。
創設者である暦 寅吉より先祖代々の世襲制で受け継がれており、最近四代目である暦 辰之助が死去した事でその息子である暦 巳喜人が五代目暦ノ旅館の支配人として就任したばかりだ。
入母屋屋根の堂々とした造りに嘆称しつつ、入口の扉に手を掛けガラス張りの引き戸を右へスライドさせた。
ガラガラと軽快のいい音を立てながら開いたその先では、着物を着た女性が出迎えてくれた。
周りで接客をしている中居は紺色の着物を着ているのに対し、出迎えてくれた女性の着物は一人だけ臙脂色をしていた。
胸元のネームプレートに目をやると「暦」と書かれていた。
どうやらこの女性が、暦 巳喜人の妻であり暦ノ旅館の女将、暦 千恵のようだった。
女将は気品のいい笑みをこちらに向け、深々と会釈をした。
「ようこそいらっしゃいました。御予約のお名前をお伺いしても宜しいでしょうか」
「はい。曽根崎です」
そう名前を言うと「曽根崎様ですね。お待ちしておりました。お部屋までご案内致します」と、流れるような動作で持っていたボストンバッグを代わりに持ち、歩き始めた。
部屋に案内される途中で、俺の手に持っている缶コーヒーが空である事に気づいた女将が、こちらで捨てておきますからと言ってくれた。
こうゆう小さな気遣いを自然に出来る事が、この旅館の人気が長く続く要因の一つなのだろう。
勝手にそんな事を思っていると、いつの間にか部屋の前まで着いていた。
襖の上には「如月の間」と、漆喰塗りの木板に達筆な文字で書かれていた。
隣の部屋の入口に目をやると、そちらには「弥生の間」と書かれてある。
暦ノ旅館の名の通り、旧暦の和風月名で部屋の名前が決められているようだった。
襖にはそれぞれの月の花の絵も書かれており、俺の泊まる如月の間には二月の花である梅の花の絵が描かれていた。
部屋に通され温泉の利用時間、食事の時間などを告げると女将は床の間の前にボストンバッグを置き、軽く会釈をして部屋を出ていった。
一畳ほどの床の間には雉の剥製が飾られている。
今にも動き出しそうなそれは、飛び立つ時を待ち侘びるように、じっと窓の方を見据えていた。
窓からの眺めは、山の山頂付近という事もありかなりの絶景だ。
そのまま部屋をぐるっと見回してみる。
い草の青々とした香りがふわっと香る和室は十畳ほどの広さで、隣には八畳程の寝室がもう一部屋用意されていた。
一人で泊まるには贅沢すぎるほどの広さだ。
座椅子に腰を下ろし「はぁー」と一息ついた。
廊下からはひっきりなしに人が通る音が聞こえてきている。
駐車場に着いた時にも思ったが、今日はかなり混んでいるようだ。
平日の月曜日だとゆうのに駐車場はほぼ満車状態だったし、今も予約客が続々と到着しているみたいだ。
だが、これは予想がついていた事だ。
斯く言う俺も、有給休暇を使いここへ来ているのだから。
今日から一週間はこの状態が続くだろう。
きっと、この旅館の繁忙期と言っても過言ではない。
座椅子と一体化しそうになっていた背中を何とか外し、床の間の前に置かれたボストンバッグの中からパンフレットを取り出した。
そして、最初のページを開いてみる。
目次が書かれたそのページで食事処の欄を見つけ、更にページを捲った。
腕時計を見ると、時刻は昼の十二時を少し過ぎた所だった。
旅館の食事は朝と夜の二食が付いている。だから、昼食は何処かで食べなければならない。
朝から缶コーヒーしか飲んでいない体は、さっきから腹を鳴らして固形物を要求してきていた。
パンフレットに書かれた開催時間は十時からだから、もうかなり賑わっているはずだ。
捲ったページには、写真付きでオススメの料理の紹介がいくつもされている。
それから目星の場所をいくつかチェックして、パンフレットをくるっと丸めて今度はショルダーバックへとしまった。
ここには四泊五日の長期滞在する予定だから、最低でも四日間の昼食は会場で取る事になるだろう。
もう少しゆっくりしてから行こうかとも思ったが夕食の時間が決まっている分、昼食が遅くなるとせっかくの旅館の食事が楽しめなくなってしまう。
やはり旅の楽しみの一つは、その土地ならでわの食事だ。その為、空腹の状態で今晩の夕食に臨みたい。
今の時期はタラの芽やふきのとうなどの山菜がメインだと女将が言っていたから、それを肴に日本酒をグッといくのが戻って来てからの楽しみだ。
「よし、行くか」と自分自身に呟き、ショルダーバックを片手に立ち上がった。
襖を開け廊下に出ると、急ぎ足で仕事をする中居が何人も通り過ぎていく。
どの中居もすれ違う度に足を止め、にこやかに笑顔を返してくれる。
やはりこの旅館にして良かった。
右手に水琴窟のある中庭を眺めながら、ゆっくりと廊下を歩いていく。
中庭はかなりの広さで、他にも石灯籠や色鮮やかな花が咲き誇り、これぞ日本庭園と言った風情だ。
少し立ち止まって眺めようかと思ったその時「あの、すみません」と、背後からから突然声が聞こえて来た。
いきなりの事でも驚かなかったのは、今まさに聞こえてくる水琴窟の静的な深みのある音と似て、落ち着いた声を放っていたからだろう。
振り返るとそこには、長い黒髪に涼やかな目元の女性が立っていた。
化粧は薄めで、歳はだいたい二十歳前半だろうか。シャツの上にクリーム色のカーディガンを羽織り、白いロングスカートを履いている。
さっきまで賑やかだった廊下は、いつの間にか几帳で仕切られたように二人だけの静かな空間になっていた。
何か用かと聞こうとする前に、女性の方が先に口を開いた。
やはり、水琴窟のように落ち着いた声で。
「茨町の薔薇の市へ行くのですか?」
茨町の薔薇の市。まさに、俺が今から行こうとしている場所であり、今この旅館に泊まっている客のほとんどが目的としている場所だろう。
俺が頷くと、彼女は更に言葉を続けた。
「しずく、しらべ、わたぼうし…。そこで白い薔薇を売っている種守という人に、この手紙を渡してくれませんか?」
そう言うと彼女は、赤い封蝋のシールで止められた白い便箋を手渡してきた。
そしてそのまま困惑する俺を背に、どこかへ行ってしまった。
手渡された白い便箋を見てみたが、宛名も送り主も記載されていなかった。
ただ彼女の言う「白い薔薇を売っている種守」という人物に、俺は心当たりがあった。
彼女の頼みを断らなかったのはそれが理由もあるが、それ以上に手紙を手渡して来た時の彼女の顔が切実だったからだ。