19 ―胃がキリキリ
量子コンピュータ
現在使用されているコンピュータを、はるかに上回る計算速度が可能なシステム。
しかし、このシステムは、1ケルビン以下の絶対零度「-273.15C」に近い環境温度を保存しなければ、作動しない。クアンタムフィジックスにより、この絶対零度の環境で量子物理状態が「0」と「1」の両方の状態を保てることによって、計算速度が圧倒的に上がるもの。現在のコンピュータビットは、「0」か「1」のどちらかの状態に固定される。しかし、量子コンピュータは「0」と「1」が同時に存在する。簡単に例えば、一ビット動かすのに半分の時間。だが、何万、何億ビットと動かすと、指数関数的に時間が短縮される。
このシステムを、HFT(high frequency trading)高頻度取引に使用すれば,株市場事態を操ることも可能になってくる。
「神海さんが、前にわが社とIPOの可能性を検討したときに彼が、そのシステムを使用してHFTを行ったんだ。彼は、ほかの金融会社のHFTの裏を突き、たったの120分で1000万円を50億円にした。あの時は、私たちも驚きのあまり声も出なかった」
「頭取、そのシステムはあまりにも危険すぎます」美穂が思ったことを声にしてしまう。「それに、そのようなシステムに伴うアルゴリズムをプログラムできる人物は、そういないかと」
「そうだ。あの量子コンピュータにアルゴリズムプログラムをアップロードして使用できるのは、今のところ神海さんただ一人だ」
美穂は、鳥肌が立った。なぜ直樹さんがあの数の護衛たちを必要としているのか、今ようやく
理解できた。「そして、そのすべてを今は直樹さんの個人会社が握っているというわけですね」
「そうだな。しかし、あのシステムが世界に出て悪用されると、何が起こるか計り知れない」
確かに、情報がすべての現代世界でこのシステムが悪用されれば、情報を操ることによって、世界を動かせる。このようなシステムがデマをなん十か所もの違うソースから真実のように流されれば、今は秒単位で情報が入る時代。情報チェックを複数のソースで調べ、皆同じ返答が出れば人は信じる。会社、政府をつぶすことも可能。世界中のどこにでも、パニックを引き起こすことができる。金儲けのために使われる方が、可愛いほうだ。このシステムをへたに悪用されると戦争の引き金にもなりかねない。
それに、もし原子力発電所や、空港のコントロールタワーにハッキングされようものなら...
美穂は、考えれば考えるほど、証券取引所に上場してはならないように思えてきた。
「恐れ入りますが、この問題は経済的な事だけではなく、政治的、それに国家安全保障局などにも関わり合いがあるように思えますが」と美穂が低い声で頭取たちに告げる。
「それも、思考に入っている。それに神海さんは量子コンピュータに関しては、天才的なのだが、人間関係とか、政治的な方は、まあ、疎いというか」
美穂は、頭取の言っていることが、痛いほどよくわかった。
「私になにか、できることがあれば...」
「そうだな、今君は実に重要なポジションにいるのだ。この会社だけでなく、社会的な面でも、もしや国の安全性まで。神海さんの行動で、世界が変わるかもしれない」
「いえ、あの、私の仕事の範囲から、完全に外れていると思いますが」と弱々しく言う美穂。
「まあ、そこで、これから君には、藤本と私の部下になってもらう。神海さんがあの時に稼いだ50億の25億は、会社に預けて置いてくれたのだよ。そのうちの5000万円は君のボーナスとして、渡しておく。まあ、その25億も今は34億になっているがね。」
「いえ、あの、年収とか、ボーナスとかの問題では無いので、それに私の胃がキリキリと痛んできたような感じがしますので」美穂が片手で腹部を抑えながら、頭取に訴える。
「まあ、悪い方向に考えたら、きりがないしな。それと同様、いいほうに考えるとそれも数え切れないほどある」
確かにそうだ。
医学の進歩。薬品の分子モデリング。自然災害の予測。遺伝子マッピングと遺伝病の削除。遺伝子組み換え食品の開発。今とは比べ物にならないほどのAI。複雑なプロセスのオートメーション化。都市全体の機能コントロール。
「それでも、私には話が大きすぎますわ」良い方角に考え、少し胃が楽になった美穂。
「はっきり言うと、この話はここにいる誰にも大きすぎると思うが、この状況に今いるのは私たちだけなのだよ」
「そうですね。置かれている状況を選べないこともありますわね」
「それに、このようなものを、本当に政治家たちに任せて大丈夫と思うか?」
「それは...」頭取が何を言いたいのかは、美穂もわかる。
「そういうことだ」
丁度そこで、料理が運ばれ始める。
「まあ、話はこのぐらいにして、食べようじゃないか」と言いながら、寿司を美味しそうに食べ始める頭取、それに続いて副頭取も寿司を取り始める。
『食べたいけど、食べたいけど!胃が痛い…』と思いながらも、ちびちびと食べ始める美穂だった。